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第四百三十四話 「命名とは、対象を識別するための記号の付与ではなく、大型犬が「特定の一個体」に対し、自らの意志で特別な意味を与えてしまったことを周囲へ宣言する現象のことである」という話

あーあww

九月下旬。

学園都市別邸、佐伯拓海の自室。

その部屋は今、明らかに平時ではなかった。


ベッドの上にはシャツが三枚。

椅子の背にはジャケットが二着。

床には一度着てすぐ却下されたニット。

机の上には、開けっぱなしの小さな紙袋。


普段の拓海なら、身支度など三分で終わる。


清潔であればいい。

動きやすければいい。

多少寝癖が残っていようが、シャツの襟が少し曲がっていようが、本人はまったく気にしない。


”それが佐伯拓海という男”だった。


だが今日は違った。


「……あー、クソ」


鏡の前で、拓海は真剣な顔をしていた。

人生で数えるほどしか使ったことのない整髪料を指先に取り、前髪を少しだけ整える。


一歩下がる。

見る。

首を傾げる。


「……なんか違ぇな」


やり直す。

また見る。


「これ、固めすぎじゃねぇか?」


誰に聞くでもない独り言が部屋に落ちる。


窓の外は夕暮れだった。


学園祭前のキャンパスからは、遠く学生たちの声が聞こえている。

その賑やかさとは対照的に、拓海の部屋だけが妙に切実な空気を帯びていた。


その時。


軽いノックがした。


返事を待たずにドアが開く。


「サエキ、まだ出ないの?」


ジョージだった。

彼は部屋に入ってすぐ、足を止めた。


ベッドの服。

椅子のジャケット。

床のニット。

鏡の前で前髪を気にしている大型犬。

そして机の上の小さな紙袋。


数秒。


ジョージは無言で観察した。


それから。


「……へぇ」


と、実に楽しそうに笑った。


「何だよ」


拓海が警戒する。


「いや」


ジョージは肩を震わせた。


「なかなか珍しいものを見ているなと思って」


「何がだよ」


「君が服を選んでる」


「俺だって服くらい選ぶわ、バカ」


「選ばないよ」


即答だった。


「君は基本的に、手前にあった服を着る。あるいはハミルトン様に用意された服を、

そのまま何も考えずに着る。少なくとも、鏡の前で前髪を四回直す男ではなかった」


「四回じゃねぇ」


「五回?」


「そういう話じゃねぇ!」


拓海は枕を掴んで投げた。

ジョージは軽く避ける。


完全に遊んでいた。

けれど同時に、彼はちゃんと見ていた。

サエキは自分で気付いていない。


だがジョージは分かる。


人間は、本気でどうでもいい相手に会いに行くために、同じ髪型を何度もやり直したりしない。

小さな紙袋を何度も確認したりしない。

待ち合わせまでまだ時間があるのに、時計を気にしたりしない。


「で?」


ジョージは机の上の紙袋に視線を向けた。


「それは?」


「別に」


「別に、ね」


「大したもんじゃねぇよ」


拓海は少しだけ視線を逸らした。


「この前、古本屋の露店みたいなところで見つけたんだよ。栞。あいつ、本読むって言ってたから」


「へぇ」


「高くねぇし」


「うん」


「重くもねぇし」


「うん」


「こういうのなら邪魔になんねぇだろ」


「うん」


ジョージはにこにこしている。

その笑顔が非常に腹立たしい。


「何だよ」


「いや、別に」


「絶対なんか思ってるだろ」


「思ってるよ」


「言うな」


「じゃあ言わない」


言わない方が余計に腹が立つ。


拓海は眉間に皺を寄せたまま、紙袋をそっと持ち上げた。

壊れ物でも扱うような手つきだった。


それを見て、ジョージは少しだけ笑い方を変えた。

からかうための笑みから、観測者の笑みに。


”これは、いつものサエキではない”。


困っている誰かを放っておけずに動く大型犬ではない。

流されて誰かと遊ぶ男でもない。


今の拓海は、自分の意志で誰かに会いに行こうとしている。

相手に喜んでほしいと思っている。


それだけのことだ。

それだけのことなのに。

この別邸にとっては、十分に異常事態だった。


「神保町、喜ぶといいね」


ジョージは何気なく言った。


いつもの呼び方だった。

拓海自身も、ずっとそう呼んでいた。


神保町。

東京。

同郷。

カレー。

古本屋。


そういう属性の塊として。


だからジョージも、当然のようにそう呼んだ。


だが。


拓海の手が止まった。

ほんの一瞬。

紙袋を持った指先が静止する。


ジョージはそれを見た。


「……サエキ?」


拓海は振り返った。


少しだけ眉を寄せている。


不機嫌というより、何かを訂正しなければならないと思ったような顔だった。


「ジョージ」


「うん?」


「神保町じゃねぇよ」


静かな声だった。

大きな声ではない。

照れているわけでもない。

怒っているわけでもない。


ただ、”間違いを正す”ように。


当然のことを言うように。


拓海は続けた。


「文香だ」


部屋が、一瞬だけ静かになった。


窓の外の声が遠くなる。


夕暮れの光が、少しだけ薄くなる。


ジョージはまばたきをした。


それから、ゆっくりと息を吐く。


「……へぇ」


今度の「へぇ」は、さっきのものとは違っていた。


ずっと神保町だった。


地名だった。

属性だった。

同郷の記号だった。


それが今、”名前”になった。


文香。


たった二文字。


けれどその二文字は、拓海の中で彼女が「神保町の子」ではなく、

「文香」という一人の人間になったことを、あまりにも明確に示していた。


ジョージは思った。


終わった。

実に分かりやすく。

そして、どうしようもなく。

終わった。


「何だよ、その顔」


拓海が怪訝そうにする。


「別に」


「嘘つけ」


「いや、本当に」


ジョージは笑った。


「気を付けて行っておいで」


「おう」


拓海はまだ納得していない顔をしていたが、時計を見て慌てたように上着を羽織った。


「じゃあ行ってくる」


「はいはい」


「エドには適当に言っといてくれ」


「何て?」


「学園の外じゃねぇから心配すんなって」


「それで納得すると思う?」


「しろよ」


「たぶんしないね」


「めんどくせぇな、あいつ」


そう言いながらも、拓海の顔は少し明るかった。


これから誰かに会いに行く顔だった。


ジョージはそれを見送る。


扉が閉まる。

足音が遠ざかる。

部屋には、脱ぎ散らかされた服と、夕暮れの光だけが残った。


ジョージはしばらくドアを見つめていた。


それから、ゆっくりと端末を取り出す。


送信先。


エドワード・ハミルトン。


本文は短い。


『サエキ、神保町ではなく文香と呼ぶようになりました』


送信。

数秒。

返信はすぐに来た。


『そうか』


たった二文字だった。


けれど。


ジョージには分かる。


これは平静ではない。

これは無関心ではない。

これは、あまりにも静かな被弾だった。


ジョージは端末を見つめたまま、堪えきれずに小さく笑った。


「重症だねぇ」


その頃。


別邸のどこかで、エドワード・ハミルトンはきっと、いつものように完璧な姿勢で座っている。


新聞か、資料か、財団の書類か。


何かを手にしているだろう。


だが、おそらく一文字も読めていない。


神保町ではない。

文香。


その二文字が、今頃彼の中で、あり得ないほど巨大な不具合として処理されているに違いなかった。


ジョージは端末を閉じた。


外では学園祭の準備をする学生たちの声が続いている。


別邸の中は、いつも通り静かだ。


だが確かに、何かが少し変わった。


ほんの少し。

けれど決定的に。


佐伯拓海が、誰かを地名ではなく名前で呼んだ。


ただそれだけのことだった。

ただそれだけのことが、ハミルトンの聖域にとっては、十分すぎるほどの事件だった。


■ジョージの機密ログ(九月下旬・別邸:服選びの迷走と、名前呼びの重力編)


九月下旬。


学園都市別邸。


サエキは服を選んでいた。

髪型を整えていた。

栞を用意していた。


そして、僕が何気なく「神保町」と呼んだ時、静かに訂正した。


神保町ではない。

文香だ、と。


サエキ。

君は本当に分かりやすい。

君自身だけが分かっていない。

その名前を口にした瞬間、君の中で彼女はもうただの同郷でも、

ただの知り合いでもなくなっていた。


ハミルトン様。


君は今、僕からの報告に対して『そうか』とだけ返してきた。


とても見事な平静だった。

紙のように薄い平静だった。


たった二文字の名前が、君の世界にどれほど深く刺さったのか、僕には手に取るように分かる。


事件でも陰謀でもない。


ただの名前への昇格。

ただの、初めてのデート前の身支度。

ただの、少し浮かれた大型犬。


けれど今日、ハミルトンの檻の外に、確かに一つ、別の重力が生まれた。


経過観察を継続する。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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