第四百三十三話 「違和感とは、危険を察知する能力ではなく、いつもいるはずの人間がいないだけで妙に落ち着かなくなる現象のことである」という話
拓海の恋愛っすね
九月下旬。
学園祭を目前に控えた学園都市は、どこか浮き足立っていた。
講義棟の廊下には色鮮やかなポスターが貼られ、広場では模擬店の骨組みが組み上がり、
学生たちが慌ただしく行き交っている。
夏の熱気は薄れ始めていたが、祭りの前特有の高揚感だけは、まだキャンパス全体に残っていた。
そんな昼休みだった。
「……あれ」
ラウンジの自動販売機の前で、拓海は炭酸飲料を片手に首を傾げた。
別に探し物をしているわけではない。
それなのに。
視線だけが、妙に落ち着きなく周囲を彷徨っている。
「……いねぇな」
ぽつりと呟く。
先日、自販機の前で知り合った同郷の女の子。
”神保町”。
名前はちゃんと知っている。
だが何故か拓海の中では、未だに「神保町」のままだった。
学年が違う。
講義が違う。
友人と行動している日もある。
見かけないことなんて珍しくもない。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが。
妙に。
妙に落ち着かなかった。
「サエキ」
後ろから声がした。
振り返る。
エドワードだった。
「講義だ」
「あー、悪い」
返事をしながらも、拓海はもう一度だけラウンジの奥へ視線を向ける。
エドワードはその仕草を見た。
だが特に何も言わない。
「何か探しているのか」
「いや」
拓海は首を傾げた。
「別に」
本当に分からないのだ。
自分が何を探しているのか。
何故少しだけ落ち着かないのか。
だから説明のしようもなかった。
「そうか」
エドワードはそれ以上聞かなかった。
二人はそのまま講義棟へ向かう。
その途中だった。
「あっ」
聞き覚えのある声がした。
廊下の向こう。
神保町がいた。
友人らしい女子学生と並んで歩いている。
彼女は拓海に気付くと、小さく手を振った。
「佐伯さん!」
「おう!」
その瞬間。
拓海の顔がぱっと明るくなった。
自分でも気付かないほど自然に。
「今日見ねぇから休んだのかと思ったぞ」
「あはは、ごめんなさい。午前の講義が別だったんです」
「なんだよ、そういうことか」
拓海は笑った。
胸のどこかに引っ掛かっていた小さな違和感が、いつの間にか消えていること
に本人だけが気付いていなかった。
神保町も気付いていない。
エドワードも気付いていない。
だが。
少し離れた場所から眺めていたジョージだけは、面白そうに片眉を上げた。
「へぇ」
それだけだった。
ただ、それだけだった。
だがその日の夕方。
別邸へ戻った拓海は、やたらと機嫌が良かった。
神保町。
古本屋。
カレー。
神田祭。
神保町の坂。
どうでもいい話ばかりだ。
だが。
人間というものは、本当にどうでもいい話をしている時ほど正直だったりする。
ジョージは紅茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
「そういえば神保町ってさ」
「また神保町か」
「なんだよバカ。東京の話だぞ」
「知っている」
エドワードは新聞から目を離さない。
だがジョージは知っていた。
ハミルトン様は今、一文字も記事を読んでいない。
「神保町のカレー屋って有名なんだよ」
「そうか」
「あと古本屋街」
「そうか」
「行ったことねぇ?」
「ない」
「人生損してるぞ、バカ」
「そうか」
ジョージは吹き出しそうになった。
どう見ても会話になっていない。
それなのに拓海は全く気付いていない。
「サエキ」
「なんだよ」
「最近楽しそうだね」
「そうか?」
「そうだよ」
ジョージは笑った。
「神保町と話してる時だけ」
拓海が一瞬だけ黙る。
「……そうか?」
「そうだよ」
「気のせいだろ」
「そうかな」
ジョージは肩を竦めた。
そして何気ない口調で続ける。
「好きなの?」
拓海が盛大にむせた。
「はぁ!?」
「いや」
「いやじゃねぇよ!」
「違うの?」
「違ぇだろ!」
即答だった。
だが。
少しだけ早過ぎる即答でもあった。
ジョージはそれを見逃さない。
「へぇ」
「なんだよ、その顔」
「別に?」
ジョージは笑う。
そして何気なく言った。
「じゃあ何で今日一日中探してたの?」
拓海が黙った。
本当に黙った。
昼休み。
ラウンジ。
廊下。
講義棟。
自分が無意識に探していたことを思い出す。
「……いや」
「うん」
「別に」
「うん」
「ただ」
「うん」
「いねぇなと思っただけだ」
ジョージは頷いた。
何も言わない。
何も言わないのに。
妙に腹が立つ。
「……お前、なんかムカつくな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
その夜。
食後。
拓海はしばらく考え込んでいた。
自室へ戻る途中。
ふと足を止める。
そして。
くるりと踵を返した。
「どこへ行く」
リビングからエドワードの声が飛んでくる。
「ちょっと」
「どこへ」
「学園内」
「何をしに」
「別にいいだろ、バカ」
エドワードは新聞を下ろした。
ジョージは横で面白そうに見ている。
「サエキ」
「なんだよ」
「どこへ行く」
「だから学園内だって」
「何をしに」
拓海は数秒考えた。
そして。
「あー……」
頭を掻いた。
「神保町探してくる」
沈黙。
数秒。
完全な沈黙。
ジョージは視線を逸らした。
笑ったら負けだと思った。
「……そうか」
エドワードは静かに新聞を持ち直した。
だが新聞は逆さまだった。
学園都市は夕暮れだった。
講義棟から流れてくる学生たちの声。
西日に染まる石畳。
その向こうに神保町がいた。
「あれ?」
彼女が驚いた顔をする。
「佐伯さん?」
「おう」
拓海は立ち止まった。
珍しく言葉を探す。
数秒。
沈黙。
「……なぁ」
「はい?」
「今度暇か?」
神保町が首を傾げる。
「暇ですけど」
「じゃあ」
拓海は少しだけ照れ臭そうに笑った。
「飯でも行かねぇ?」
一瞬だけ。
彼女は目を丸くした。
それから柔らかく笑う。
「喜んで」
その返事を聞いた瞬間。
拓海も笑った。
理由は分からない。
だが。
今日一日ずっと胸の奥に引っ掛かっていた違和感が、ようやく消えた気がした。
遠くからその様子を眺めていたジョージは、静かにため息を吐いた。
「終わったね」
誰にも聞こえない声だった。
その頃。
別邸のリビングでは。
逆さまの新聞を持ったままのエドワード・ハミルトンが、本日最高の不機嫌を更新していた。
もちろん本人だけは、その理由をまだ知らなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




