第三百十三話 「旅立ちとは、行くことより残してきたものを片づける時間でもある」という話
出発前夜
七月(残骸の整理・静かな決別)
英国への本格的な出発を前に、拓海は自室の片づけを始めていた。
机の上には、角の潰れた単語帳。
付箋だらけの参考書。
道場で受け取った賞状。
部屋の隅には、子供の頃から持っているレゴやミニカーの残骸。
机の端には、受験勉強の最中に無意識で刻んだ小さな傷が残っている。
二年間の浪人生活。
そして、この部屋で積み重ねてきた二十年分の時間。
それらはすべて、佐伯拓海という人間の、
少し不格好で、真っ直ぐな青春の残骸だった。
拓海は手を止め、スマホを開いた。
一番下に沈んでいた名前を押す。
菜摘。
しばらく画面を見つめてから、短く打ち込む。
”またな”
送信。
数分後、既読がついた。
少し間を置いて返ってきたのは、
”うん、またね”
たったそれだけだった。
けれど今の二人には、それ以上の言葉など、たぶん要らなかった。
夕方。
駅前の定食屋。
佐藤はいつものように眼鏡を押し上げながら、味噌汁をすすっていた。
「……で。本当に行くんだな」
「行くよ。今さらやめられるか、バカ」
拓海がそう返すと、佐藤は少しだけ笑った。
「時間ができたら遊びに来いよ」
「何なら、そのうち受講生にでもなって見に行こうかな」
「……お前、そういうとこ怖ぇよ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
くだらない会話だった。
でも、拓海はその時間が少しだけ惜しかった。
同じ頃。
ジョージは日本のマンションを引き払っていた。
荷物は少ない。
思い出も、口にしないだけでそれなりにあった。
「さて」
スーツケースを閉じる。
「僕も帰るか。あのアホな魔王をなだめにね」
■ジョージの機密ログ(七月:先行帰英)
七月。ヒースロー空港。
僕は、サエキより一足先に英国へ戻ってきたよ。
ハミルトン様の情緒は、もう限界だった。
五月にロンドンで“気配”を感じたのに、また消えた。
その件をいまだに本気で引きずっている。
空港ロビーに飛び出してきた君は、僕の後ろを見て叫んだ。
「タクミは!?」
「僕だけだよ(笑)」
その瞬間の顔、額装して飾りたいくらいだったね。
サエキ。
君はいま、日本で最後の荷物をまとめている頃かな。
君が出ていく部屋は、驚くほど広く感じるだろう。
でも大丈夫。
君がこれから手に入れる世界の方が、
もっと広くて、もっと面倒で、そしてずっと面白い。
■ジョージ幕間(観測ログ:63-UK・魔王の情緒崩壊編)
ロンドン・ハミルトン家タウンハウス。
エドワード(主演・飢えた王):
「ジョージ! なぜ一人なのだ!」
「タクミは!? まさか日本で別の男と……いや、あの巫女か!?」
ジョージの襟を掴んで揺さぶる。
「九月には来るのだろう!?
だが、それまでの二ヶ月、私は何を糧に生きればいい!」
「タクミの“バカ”という声がない世界に価値などない!」
ジョージ(疲労):
「落ち着いて(笑)」
「サエキは来るよ。たぶんね」
「今ごろ日本で、佐藤君と定食屋でも行ってるんじゃないかな」
「君が暴れれば暴れるほど、来るの遅らせると思うけど」
拓海(日本の自室):
「……ふぅ。これで、空っぽか」
何もなくなった部屋の真ん中で、しばらく立ち尽くす。
それから、最後に一冊だけ残したボロボロの単語帳を鞄へ入れた。
「……待たせたな」
「……待ってろよ、バーカ」
部屋の灯りが、静かに消えた。
(追記)
ジョージは英国へ戻った初日に、
“サエキ近況報告書”百枚提出
を命じられた。
本当にこの家はどうかしている。(笑)
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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