第三百四話 「裏垢とは、強がる人間が一人でだけ本音を吐ける避難所である」という話
切羽詰まってくると不安になるもんね
一月。深夜二時。
佐伯家の自室。
暖房をつけていても、足元だけが冷えていた。
机の上には、終わらない問題集。
飲みかけのぬるいコーヒー。
開きっぱなしの単語帳。
転がった赤ペン。
拓海は、しばらく天井を見たあと、静かにスマホを手に取った。
表のアカウントでは、誰にも何も送らない。
菜摘にも。
ジョージにも。
もちろん、英国のうるさい魔王にも。
代わりに開くのは、誰にも教えていない匿名のアカウントだった。
@niku_tabetai44
”無理”
投稿。
数秒眺めて、消す。
”長文読めねぇ。英文全部燃えろ”
送信。
胸の奥につかえていた何かが、少しだけ下りた気がした。
”なんで俺、こんなことしてんだろ”
そこまで打って、指が止まる。
しばらく画面を見つめて、結局それも消した。
昼間の自分は、平気な顔をしている。
余裕だろ。
うるせぇ、バカ。
別に寝てねぇし。
そんな言葉ばかり口にする。
でも本当は、余裕なんて一ミリもない。
眠い。
怖い。
焦っている。
二年やって、もし何も残らなかったらどうしよう。
誰にも言えないその恐怖と、毎日戦っていた。
”牛丼食いてぇ”
送信。
少しして、見知らぬ誰かが「いいね」を押した。
拓海はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「……お前もかよ」
廊下の向こうで、父が咳払いをした。
台所では、母が湯を沸かす音がする。
現実は、まだ続いている。
拓海はスマホを伏せ、もう一度ペンを握った。
夜はまだ、明けない。
■ジョージの機密ログ(一月:深夜の避難所)
一月。東京の静寂。
僕は、サエキが誰にも弱音を吐けず、匿名の場所でだけ本音を零しているのを知っているよ。
サエキ。
君は強いんじゃない。
ただ、弱い顔を見せる相手がいないだけなんだね。
「牛丼食いてぇ」の一文には、疲労も孤独も、
明日へ進むための切実さも全部詰まっていた。
君が消した言葉の数だけ、きっと今夜も踏ん張っているんだろう。
たまには、その弱さを僕たちに預けてもいいのにね。
ハミルトン様。
君の相棒は今、王者になる準備なんてしていない。
ただ、明日も机へ向かうために、切れそうな糸を必死に手繰っているだけだよ。
■ジョージ幕間(観測ログ:50-TOKYO・匿名の泣き言編)
一月。千代田区。
エドワード(英国・残留組):
ジョージからの報告を受け、鼻で笑う。
「ふん。弱音など吐く暇があるなら勉強しろ」
一拍。
「……で、そのアカウント名は何だ」
「特定しろ。私が最初に『いいね』を押してやる」
さらに一拍。
「肉を食わせろと書いてあるなら、今すぐ最高級の赤身を送れ」
ジョージ(日本・特派員):
「そこじゃないよ(笑)」
「でも、サエキはずっと普通の男なんだ」
「逃げ出したい夜もあれば、消えてしまいたい夜もある」
「君が思っているより、ずっと脆くて……だからこそ強いんだよ」
拓海(深夜三時):
”眠い。消えたい。でも明日もやる”
送信。
今度は消さなかった。
(追記)
ジョージは、翌朝になると昨夜の投稿を半分以上消し、
少し腫れた目を隠すように家を出るサエキを見送った。
「ハミルトン様。君がどれだけ彼を完璧な英雄にしたくても。
彼を明日へ運んでいるのは、君の教育でも才能でもない。
匿名の場所で少し泣いて、それでもまた立ち上がる、ごく普通の弱さなんだよなぁ…」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




