第二百八十五話 「敗北とは、他人事の顔をして隣に座る」という話
佐藤君、少しはゆっくりしなよ。疲れるよ?
三月。合格発表の翌日。
塾の自習室は、昨日までと何ひとつ変わらない顔で拓海を迎えた。
乾いた空気。
暖房の音。
誰かの咳払い。
紙をめくる音。
人生が何人分か動いた翌日だというのに、この部屋だけは何も知らないふりをしている。
拓海は鞄を肩にかけたまま、入口で足を止めた。
いつもの席に、佐藤がいた。
当たり前みたいな顔で椅子に座り、参考書を開き、一定のリズムでシャープペンを走らせている。
「……来てんのかよ」
佐藤は顔も上げない。
「昨日も地球は回っていたからね」
さらさらと数式を書きながら続ける。
「重力が健在である以上、僕がここに来るのも物理法則に従った結果だよ」
「意味わかんねぇよ」
「君に理解される前提で話していない」
「腹立つな、お前」
でも、そのいつもの屁理屈を聞いた瞬間。
拓海の腹の底に溜まっていた重たい塊が、少しだけ軽くなるのを感じた。
努力しても、落ちる。
優秀でも、負ける。
結果はどこまでも残酷で、けれど人は翌日もまた、同じ席に座る。
「……バカかお前」
「よく言われる」
佐藤はようやく顔を上げた。
「それより君、人の結果で止まっている暇があるなら、
その余ったニューロンを単語暗記に回した方が合理的だ」
「……拒否権は?」
「ないね」
即答だった。
拓海は鼻で笑い、佐藤の隣の席を引いた。
「横暴すぎんだろ」
「効率的と言ってほしい」
椅子の脚が床を擦る音が、小さく響く。
二人は並んで、再び“終わっていない者たち”の戦場へ沈んでいった。
しばらく会話はなかった。
ページをめくる音。
シャープペンのノック音。
遠くで誰かがため息を飲み込む音。
その沈黙は、気まずさではなく、もう少し別のものだった。
やがて拓海が単語帳をめくりながら、ぼそりと言う。
「……佐藤」
「なに」
「来年は絶対、奢れよ」
数秒の間。
佐藤は問題集から目を離さず答えた。
「高い店は嫌だよ」
拓海は吹き出した。
「受かる前提かよ」
「落ちる前提より健全だろ」
■佐藤の独白(三月:机の上の現実)
机の傷まで、昨日と同じだった。
“落ちた”と口にした瞬間、視界が少しだけ揺れた。
あれは悔しさというより、計算外への拒絶反応だ。
想定通り。
そう言えば、少しは楽になると思った。
ならなかった。
でも、隣でサエキが乱暴に単語帳をめくっている。
その雑な音が、妙に現実的で助かる。
「また一年、よろしく」
あれは慰めでも冗談でもなく、たぶん本音だった。
少しだけ、救われた。
■ジョージ観測ログ(三月:敗北の朝)
自習室の隅。
僕は、二人がほとんど会話もせず、ただ並んで鉛筆を動かしているのを見ていた。
サエキ。
君は佐藤君の敗北を見て、努力が報われない世界を初めて本気で知ったんだね。
佐藤君。
君はサエキの隣に座ることで、自分の敗北を“次の予定表”に書き換えた。
人間って面白い。
折れた場所から、平然と続きを始める。
■ジョージ幕間(観測ログ:22-TOKYO・二人の浪人生編)
三月。千代田区。
エドワード(英国・残留組):
ジョージからの「佐藤と拓海、並んで勉強再開」の報告を受け、
「よし。佐藤は有能だ。タクミの精神安定装置として一定の価値がある」
と、なぜか上から評価。
さらに、
「二人まとめて私の管理下に置け」
と意味不明な指示まで出した。
ジョージ(現地特派員):
「いやー、ハミルトン様。友情ってそういうシステムじゃないんだよ(笑)」
拓海(単語帳めくり中):
「……うるせぇな、遠い国まで」
(追記)
春の光が差し込む自習室で、僕は二人の背中を撮った。
ハミルトン様。
君がどれだけ彼を一人にさせたくなくても。
今、サエキに必要なのは―
君の長文メッセージじゃなくて、
同じ傷を抱えたまま、無言で隣に座る友人の体温なんだよ。
……まあ、送っても読まれてないけどね(笑)
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




