第二百八十四話 「二月下旬、最も騒がしいのは受験生ではなく周囲である」という話
佐藤君どんまい
二月、下旬。
自習室の空気は、もはや酸素が足りないのではないかと思うほど張り詰めていた。
誰も私語をしない。
咳払いすら遠慮がちで、ページをめくる音だけがやけに大きい。
そんな中、佐藤はいつも通りの顔で参考書を閉じ、淡々と荷物をまとめ始めた。
「じゃ、明日前期だから帰る」
あまりにも普段通りの声だった。
拓海はシャープペンを止め、顔を上げる。
「……え、お前。そんなテンションで行くの?」
「試験にテンション要る?」
佐藤は無機質な目でこちらを見る。
「必要なのは、解答を導き出す論理だよ。高揚感じゃない」
「強いな、お前……」
「そうでもない」
カバンを肩に掛け、佐藤は出口へ向かう。
「じゃあね」
それだけ言って、自習室を出ていった。
拓海は、その背中を見送るしかなかった。
【試験当日:AM 6:00】
拓海のスマホが震えた。
眠い目をこすりながら画面を見る。
差出人:佐藤
本文は一行だけだった。
起きてるなら単語やれ。時間を無駄にするな
「……友情なのか、圧なのか分かんねぇよ、バカ」
文句を言いながら、拓海は布団から這い出る。
洗面所で顔を洗い、机に座り、単語帳を開く。
結局、言うことは聞くのだった。
【数日後:戦場からの帰還】
夕方。自習室。
数日ぶりに現れた佐藤は、何事もなかったように席へ座った。
コートを脱ぎ、筆箱を置き、参考書を開く。
その動きに乱れはない。
拓海は隣から身を乗り出した。
「どうだった」
佐藤はページをめくりながら答える。
「英語、簡単だったよ」
「……殺すぞ」
思わず笑いながら言い返す。
けれど、拓海は気づかなかった。
鉛筆を握る佐藤の指先が、わずかに震えていたことに。
佐藤が先に戦場へ向かい、先に戻ってきた。
その事実は、拓海の胸に小さく重く沈んだ。
自分は海外大学ルート。
まだ試験も、猶予も、やるべき工程も残っている。
けれど、横を走っていた友人は、人生を左右する一戦を終えて戻ってきた。
その現実だけが、妙に眩しかった。
「……なんか」
拓海は小さく呟く。
「置いてかれる感じ、するな」
佐藤は聞こえていないふりをした。
■佐藤の独白(二月:国立入試の残響)
試験会場の椅子は、驚くほど冷たかった。
英語が簡単だった、というのは嘘じゃない。
実際、解けた。
けれど数学の最後の一問。
計算ミスをした感覚だけが、まだ指先に残っている。
サエキに「大丈夫だ」と言えなかったのは、
僕の論理が、不安という不純物に負けたからだ。
……たぶん、まだ終わっていない。
■ジョージ観測ログ(二月:戦友の影)
夕暮れの自習室。
僕は、佐藤君が完璧な無表情のまま、誰にも見えない位置で深く息を吐くのを見た。
サエキ。
君は彼の強さを羨んでいるけれど。
佐藤君もまた、君の“まだ戦える時間”を、少しだけ羨ましく思っているのかもしれないね。
人は、終わった者ほど、続けられる者を眩しく見る。
皮肉だよね(笑)
【三月:合格発表】
昼。塾の自習室前。
拓海が階段を駆け上がると、廊下の窓際に佐藤が立っていた。
いつもの無表情。
いつもの姿勢。
けれど今日は、参考書を持っていなかった。
「……どうだった」
拓海の問いに、佐藤は数秒黙った。
それから、短く言った。
「落ちた」
風が吹いた。
窓の外で、遠く電車の音がした。
拓海は何も言えなかった。
慰めの言葉も、励ましも、何一つ浮かばない。
佐藤はそんな拓海を見ず、静かに続けた。
「数学で落とした。想定通りだね」
「……想定してんじゃねぇよ」
「していた方が、痛みは減る」
「減ってねぇだろ」
そこで初めて、佐藤は少しだけ笑った。
本当に、少しだけだった。
「そうかもね」
沈黙が落ちる。
やがて佐藤は、いつもの調子で言った。
「で、君は単語やったの?」
「は?」
「人の結果で止まってる暇ある?」
拓海は数秒呆け、それから吹き出した。
「……っ、バカかお前」
「よく言われる」
佐藤はカバンを持ち直す。
「また一年、よろしく」
「勝手に決めんな」
「拒否権あるの?」
「……ねぇよ、たぶん」
二人は並んで、自習室のドアを開けた。
まだ終わっていない者たちの席へ戻るために。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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