第二百六十七話 「進路とは、心の傷と無関係に前へ進むものである」という話
ニート生活計画がチリとなった拓海君
六月、下旬。
菜摘たちが去った後の千代田区。
拓海は、しばらくその場から動けなかった。
照り返すアスファルト。
遠ざかる笑い声。
並んで歩く二つの背中。
自分だけが、そこで時間を置いていかれたような気がした。
「……カシャ」
乾いたシャッター音が響く。
「今の顔、傑作だよ(笑)」
「消せ」
拓海は低く言った。
「今すぐ消せ、バカ」
ジョージは涼しい顔で液晶を確認する。
「いい表情だったなあ。“俺の三年返せ顔”ってタイトルにしようかな」
「殺すぞ」
「お、元気出たね(笑)」
ジョージは笑い、カメラを肩へ戻した。
それから少しだけ真面目な顔になり、歩き出した拓海の隣へ並ぶ。
「……君は置いていかれたんじゃないよ」
「……」
「君も別の場所で、ちゃんと進んでた」
拓海は答えない。
六月の街を、ただ黙って歩く。
「でも未練があるなら、まず姿勢を正しなよ」
「は?」
「猫背の男に、“現在進行形の女子”は振り向かないからね(笑)」
「やっぱ殺す」
その夜。
「……疲れた」
魂の抜けた声で帰宅した拓海を待っていたのは、休息ではなかった。
リビング。
新聞を広げた父が、視線も上げずに言った。
「拓海」
「……なんだよ」
「予備校へ行け」
「は?」
一秒遅れて理解が追いつく。
「今なんて?」
「予備校へ行け」
「いや聞こえてるわ!! なんで今その話なんだよ!」
父は紙面をめくる。
「英国の大学と、公務員試験も受けるのだろう」
静かな声だった。
「準備に早すぎるということはない」
「今!? 俺、今、心が死んでんだけど!?」
「今だ」
即答だった。
母上が横から資料の束を差し出す。
「私も取り寄せておいたわ」
テーブルに並ぶ、予備校パンフレットの山。
「明日から見学に行きなさい」
「連携が早ぇんだよ!!」
兄がコーヒー片手に笑う。
「俺の時より準備早くない?」
「うるせぇ」
「拓海、ドンマイ(笑)」
「兄貴まで敵かよ」
部屋の隅では、ジョージが歓喜の表情でライカを構えていた。
「いやー、日本の家族って手際がいいね(笑)」
「撮るな」
「ハミルトン様も喜ぶよ。“タクミが勉強監獄へ再収監された”って」
「お前ほんと帰れ」
父が新聞を畳む。
「頭は予備校で鍛えろ」
嫌な予感がした。
「心は道場で鍛え直せ」
「……は?」
「明日から祖父さんのところへ顔を出せ」
「待て待て待て待て」
「剣道の昇級試験もある」
「そんな話、俺、了承した覚え――」
母が微笑む。
「一昨日、“はいはい受ける受ける”って言ってたわよ」
拓海は天を仰いだ。
眠気の中で交わした適当な返事が、未来の自分を刺していた。
失恋した男に必要だったのは、慰めではない。
一冊の入塾案内と、竹刀だった。
■ジョージの機密ログ(六月:千代田区の教育的指導)
六月。夜の佐伯家。
僕は見ていたよ。
サエキが菜摘ちゃんの衝撃を引きずる暇もなく、予備校のパンフレットに埋もれていくのを。
サエキ。
君の家族は、君への甘やかしを一切予約していないんだね。
傷心すら、“時間の無駄”として次へ進めるその手際。
……お父様、かなり強いよwwww
■ジョージ幕間(観測ログ:04-TOKYO・予備校強制収容編)
六月。佐伯家。
エドワード(英国本部):
「素晴らしい。タクミが他の女(笑)へ現を抜かす時間を、試験勉強で塗り潰せ」と全面支持。
ジョージ(現地特派員):
「いやー、いい家族だね(笑)。予備校周辺のカフェを監視拠点にする計画まで立ててるよ」
拓海(受験生・仮):
「……俺の自由、どこにあるんだよ……」と呟き、法学入門を睨んでいる。
(追記)
ジョージは、入塾願書を前にペン先を震わせる拓海を激写した。
「ハミルトン様。君がどれだけ彼を理屈で縛っても――」
にやりと笑う。
「彼を一番追い込んでるのは、海の向こうの君じゃなく、目の前のお父様なんだよ(笑)」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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