第二百六十三話 「門出とは、感傷に浸る暇もなく実家へ回収される現象である」という話
ニート編本編始動、かな
六月、下旬。
ロンドン・ヒースロー空港。
搭乗ゲート前。
別れを惜しむ人々のざわめきの中で、拓海は大きなボストンバッグを肩に担ぎ、
目の前の男を見上げて鼻を鳴らした。
彫刻のように整った顔。
完璧に結ばれたネクタイ。
微動だにしない姿勢。
ただし、目だけが少し赤い。
「……おい、エド。泣いてんじゃねぇぞ」
「誤診だ」
即答だった。
「機内の乾燥を想定し、眼球の湿度を事前調整していただけだ」
「意味わかんねぇよバカ」
拓海は笑った。
「またすぐ来るって言ってんだろ。少しは信用しろ」
そう言って、エドワードの肩を軽く叩く。
ぽん、ぽん、と二回。
その瞬間、エドワードは言葉を失った。
三年前。
談話室で拳を合わせ、「ヨロシク」と笑ったあの日から。
この男は、最後まで同じ温度で自分の理屈を壊し続ける。
「……タクミ。本当に行くのか」
小さく漏れた声は、ひどく人間らしかった。
「行くよ。実家あるしな」
「戻るか」
「戻るって言ってんだろ」
拓海は少し照れくさそうに笑った。
「予約しとけよ、バカ」
その時だった。
空港のしんみりした空気を、電子音が無慈悲に切り裂いた。
♪♪♪
拓海がスマホを見る。
「……うわ、母上だ」
「出ろ」
「やだ」
「出ろ」
「絶対ロクなこと言わねぇもん」
「家庭秩序の維持を優先しろ」
「なんでお前が母さん側なんだよ!」
渋々、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
スピーカー越しに響いたのは、英国の空気を一瞬で支配する張りのある女性の声だった。
『拓海? 今ヒースローよね』
「なんで知ってんだよ」
『逃げると困るから、こっちも空港へ向かってるわ』
「早ぇよ!!」
周囲の乗客が振り向いた。
「まだ乗ってもいねぇんだよ!」
『帰ったらそのまま進路相談だから』
「嫌だよ!」
『大学、就職、留学、家のこと。話すこと山ほどあるわよ』
「今、一生に一度の感動の別れの空気なんだよ! 邪魔すんな!」
『知りません』
一拍置いて、
『あ、到着ロビーで見つけやすい服着てきてね』
「なんで迎えに来る側が注文してんだよ!」
『じゃ、また後で』
ぷつり。
通話終了。
静寂。
拓海はスマホを見つめたまま固まっていた。
エドワードがゆっくり口を開く。
「……タクミ」
「なんだよ」
「お前の母君、強いな」
「強ぇよ」
「ハミルトン家の権威すら通用しない、絶対的重力を感じた」
「ラスボスだからな」
エドワードは小さく頷いた。
「納得した」
搭乗案内が流れる。
拓海は肩で息をつき、バッグを持ち直した。
「……また来るよ、エド」
「……ああ」
「母さんに勝てたらな」
「難敵だ。健闘を祈る」
「他人事かよ、バカ」
拓海は笑い、ゲートの向こうへ駆けていく。
その背中を、エドワードは真っ直ぐ見送った。
姿が見えなくなるまで、一度も目を逸らさずに。
感動を母親に強制終了させられた男と、
その余韻すら静かに抱え込む魔王。
二人の“予約済みの再会”へのカウントダウンは、
実家という現実によって、爆速で始まった。
■ジョージの機密ログ(六月:母上、降臨)
六月。千代田区潜伏先。
僕は、ハミルトン様がサエキの母上の声だけで背筋を正したと聞いたよ。
サエキ。
君がラグビーで鍛えた身体も、母上の一言には勝てないんだね。
君の「また来る」が、進路相談という荒波に飲まれないことを祈っているよ。
ハミルトン様。
”僕”も、このラスボス相手には少し慎重になるべきかもしれないね。
……いやー、怖いね(笑)。
■ジョージ幕間(観測ログ:00-BAKA・ラスボス接近編)
六月。千代田区。
エドワード(監視責任者):
母上の行動パターン分析を開始。すでに「対・母上外交マニュアル」を作成中。
ジョージ(先遣隊):
「いやー、最強だね(笑)。監視プランが“サエキ本人”から“母上回避”に変わったよ」
拓海(捕獲対象):
機内で頭を抱えている。羽田到着後、母上とジョージに挟み撃ちされる未来をまだ知らない。
(追記)
ジョージは到着ロビーで仁王立ちする母上の情報を得て、震える手でシャッターを構えた。
「ハミルトン様。君がどれだけ彼を束縛したくても、彼を一番支配しているのは、
理屈じゃなく母親なんだね(笑)」
スマホが震える。
『ジョージ。母上の排除を検討しろ』
「……無理だよ。僕が消されるよ、バカ(笑)」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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