第二百六十話 「春とは、終わる直前になってようやく美しいと気づく季節である」という話
次は卒業式かな
クレストフィールド学院
五月末。
卒業式を数日後に控えた、早朝。
鳥の声すらまだ疎らな時間に、拓海は珍しくアラームより先に目を覚ました。
重いカーテンを開ける。
石造りの校舎の向こう。
地平線が、淡い紫を溶かしながら白み始めていた。
「……あ、これか」
思わず、そんな声が漏れる。
窓を大きく開けると、五月の英国の朝気はまだ冷たい。
けれど、その冷たささえ妙に心地よかった。
背後で、音もなく扉が開く。
「タクミ。早起きか」
聞き慣れた声だった。
「予約外の事態に、私の理性が若干乱れている」
「朝っぱらからうるせぇな、バカ」
拓海が振り返ると、エドワードがいつもの無表情で立っていた。
談話室で最初に出会ったあの日より、少しだけ近い距離。
少しだけ高くなった視線。
二人は並んで、同じ窓の外を見る。
「……何をしている」
「春はあけぼの、見てんだよ」
拓海は鼻をすする。
「お前に教えられた通りにな」
エドワードは何も言わなかった。
白みゆく空。
細くたなびく紫の雲。
朝にしか存在しない、曖昧で儚い色。
拓海はぽつりと呟く。
「……綺麗なのって、なくなる直前になってようやく気づくんだな」
その言葉に、エドワードはすぐには返さなかった。
ただ静かに空を見つめる横顔に、昔の面影が滲む。
枕草子の一行目でつまずいていた少年。
傲慢に「お前が必要だ」と言い放った次期当主。
無茶苦茶な理屈で、他人の人生に土足で入り込んできた男。
「……タクミ」
やがて、低い声で口を開く。
「枕草子には続きがある」
「知ってるよ」
拓海は笑った。
「やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて――だろ」
エドワードがわずかに目を見開く。
「……紫だちたる雲の、細くたなびきたる」
拓海は肩をすくめた。
「一万回くらい、お前の音読に付き合わされたからな」
「そうか」
エドワードは小さく息を吐く。
「……何度も反芻した記憶だ」
そう言って、拓海の肩に手を置いた。
重たく、確かな重みだった。
「この空の色を、私は忘れん」
声は静かだった。
「二年後、再会の日まで。一欠片も失わず持っていく」
「……大袈裟なんだよ、バーカ」
拓海は笑いながら、その手を軽く叩いた。
最初は地獄だと思っていた学園生活。
終わってみれば、それは“あけぼの”のようだった。
短く。
眩しく。
二度と同じ形では戻らない。
けれど、一生消えない色だけは、確かに心へ焼き付いていた。
■ジョージの機密ログ(五月末:あけぼのの記憶)
五月。最後の早朝。
僕はレンズ越しに、二人の背中を見ているよ。
サエキ。
君が「綺麗だ」と言ったのは、空の色だけじゃない。
孤独だった君が、この場所で手に入れた時間そのものだろうね。
ハミルトン様。
君が黙って空を見ていたのは、理屈では処理できない寂しさを、
古典の言葉で必死に整えていたからなんだろう。
そして僕も思う。
始まりの言葉が、別れの朝を飾るなんて。
……いやー、文学だね(笑)。
■ジョージ幕間(観測ログ:00-BAKA・原点回帰編)
五月。朝の廊下。
エドワード(感傷的魔王):
『枕草子』第一段を“サエキ拓海・永久保存指定文化財”に認定。心拍数の乱れも記録済み。
拓海(素直な野生児):
少し泣きそうになっていたが、欠伸で誤魔化した。分かりやすい。
ジョージ(情報分析官):
「いやー、実質告白だね(笑)。ハミルトン様、“この一瞬を国章にしたい”って
真顔で言ってたよ。重いね」
(追記)
ジョージは、朝日の中で小さく拳を合わせる二人を、新しいライカで切り取った。
「ハミルトン様。君がどれだけ古典を読み耽っても。本当に伝えたかった言葉は、
三年前、彼に教わったあの四文字なんだろうね」
「タクミ。再会の予約を――」
「ヨロシク、バカ!!」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




