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第二百三十九話 「偶然とは、取るに足らぬ出来事の顔をして、後から人生の根を静かに奪っていくものである」という話

あの日あなたに出会わなければ、みたいな?

二月。放課後。

卒業に向けた荷物整理が少しずつ始まり、寮の廊下には段ボール箱や

使い古したトランクが目立つようになっていた。


別れの準備は、いつだって本人より先に風景から始まる。


そんな中、エドワード・ハミルトンは自室の本棚の奥から、一冊の和綴じの本を取り出していた。


古びた表紙。

角の擦れた紙。

大切にされてきた時間だけが残る、静かな存在感。

亡き母の遺品――『枕草子』だった。


彼が「日本」という未知の国へ興味を抱いた、最初の入口。

そして、佐伯拓海という暴風雨に人生ごと巻き込まれる、すべての発端でもある。


ページを開けば、几帳面すぎる筆跡で書き込まれた過去の解析跡が現れる。


『春はあけぼの』


エドワードはその一文を見つめたまま、暖炉の火が二度爆ぜるまで動かなかった。


「おい、何してんだよ」


ラグビー練習帰りの拓海が、濡れた髪のまま部屋へ戻ってきた。


エドワードは顔を上げず、古いページを指先でなぞる。


「……これを見ていた」


「あー、懐かし」


拓海は鞄を放り投げ、覗き込んだ。


「それ、お前が俺に絡み始めた頃ずっと持ってたやつだろ。最初さ、“あけぼの”を天気予報だと思って、俺に『明日のあけぼのの時刻を教えろ』って真顔で聞いてきたよな」


「……言うな」


珍しく低い声だった。


「当時の私は、母が愛したものの中に、母という人間の答えがあると信じていた」


拓海の動きが少し止まる。


エドワードは本を閉じ、膝の上に置いた。


「この言葉の美しさを理解できなければ、私は……母の見ていた世界へ、一生届かぬ気がしていたのだ」


夕暮れの光が、翡翠色の瞳を淡く照らした。

そこにあるのは、いつもの傲慢さではなく、少年じみた孤独だった。


「タクミ」


「……なんだよ」


「もし、あの日。私がこの本を手に取らなければ」


静かな声だった。


「あるいは、お前があの時、面倒くさそうな顔で立ち止まってくれなければ」


拓海は視線を逸らした。


「私は今も、読めない文字の迷路で―独り、立ち尽くしていたのだろう」


部屋が静かになる。

暖炉の音だけが、妙に大きかった。


やがて拓海は鼻を鳴らし、窓の外の冬空を見た。


「……本がなくても、どうせお前は俺に絡んできただろ、バーカ」


「……」


「初めて声かけてきた時、お前、すげぇ必死な顔してたし」


「……否定できんな」


エドワードは少しだけ口元を緩めた。


「だが、この一冊がなければ、私の理性はお前という暴風雨を

理解しようとする努力すら放棄していただろう」


「人を災害みてぇに言うな」


「事実だ」


「ムカつくなw」


エドワードは再び本を見下ろした。


「私の人生は、数学的には別の線を進むはずだった」


「また始まった」


「だが」


翡翠の瞳が、まっすぐ拓海を射抜く。


「私自身が、この随筆をお前という光で誤読したことで、すべての計算が狂ったのだ」


拓海は一秒黙り、それから顔をしかめた。


「……重てぇ話を放課後にすんな。腹減るだろ」


そう言って、鼻の奥がつんとしたのをごまかすように、濡れたタオルを投げつけた。


エドワードは鮮やかにそれを受け止める。


「間違いに気づいた時点で引き返せばよかっただろ、バーカw」


「不可能だ」


「なんで」


「既に手遅れだった」


即答だった。


拓海は笑った。


「災難だったな」


「光栄だ」


エドワードは本棚へ『枕草子』を戻す。


その手つきは、母の遺品に対してか。

それとも、自分の人生を狂わせた起点に対してか。

もはや本人にも、わからなかった。


■ジョージの機密ログ(二月:翡翠の魔王、誤読の果てに)

二月。夕暮れの部屋。


僕は見ていたよ。

ハミルトン様が、お母様の形見をまるで聖遺物のように扱っているのを。


サエキ。

彼にとってその本は、ただの古典じゃなかった。

母の記憶の中で迷子になっていた少年にとって、君は唯一の出口であり、

今を生きる理由をくれた案内人だったんだね。


エドワード・ハミルトン。

君は「あけぼの」を天気予報だと誤読し、結果としてサエキ拓海という太陽を、

自分の人生に昇らせてしまった。

世紀の誤読が招いた、最高の人生事故だよ。


■ジョージ幕間(観測ログ:始祖の古典編)

二月。本棚の前。


エドワード:

『枕草子』を前に十五分停止。恋する男は清少納言にも弱い。


拓海:

途中までしおらしく聞いていたが、「暴風雨」呼ばわりされた瞬間に通常営業へ戻った。


ジョージ:

「いやー、良い話だったね(笑)。ハミルトン様、サエキが出ていった後、

“この誤読こそ、私の人生で唯一正しかった”って本気で呟いてたよ」


(追記)

ジョージは、『枕草子』の「あけぼの」の余白へ、こっそり

“サエキ(永久予約)” と書き込みかけて消したハミルトン様を激写した。

「ハミルトン様。君が一番予報したいのは、明日の天気じゃない。明日のサエキの機嫌なんだよ(笑)」


ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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