第二百三十七話 「進むべきか戻るべきかとは、王子の苦悩ではなく、優しすぎる野生児には少し重すぎる問いである」という話
ちょっとしんみり回
二月。深夜。
寮の中庭には、音もなく雪が降り積もっていた。
常夜灯の淡い光の下、ベンチには佐伯拓海が一人、肩に雪を積もらせたまま座り込んでいる。
昼間の喧騒はもうどこにもない。
聞こえるのは、遠くで風が鳴る音と、自分の息が白くほどけていく気配だけだった。
家のこと。
菜摘の覚悟。
そして、隣で当然のように自分を縛り、守り、振り回し続けるエドワードの執着。
どれを立てれば、誰が傷つくのか。
どれを選べば、自分は後で何を失うのか。
「……結局、俺がどうしたいか、なんて……」
呟きは白い息になって、夜の闇に溶けた。
その時だった。
雪を踏む音が、ひとつだけ近づいた。
「タクミ。雪に埋もれて、そのまま凍死するつもりか」
振り向けば、厚手のコートを羽織ったエドワードが立っていた。
手には一冊の古びた本。シェイクスピアの『ハムレット』。
「……うるせぇよ、バーカ」
拓海は前を向き直る。
「一人で考えさせろ」
エドワードは隣に座らなかった。
ただ、拓海の前に立ったまま、本を開く。
雪が、その翡翠色の瞳をいつもより静かに見せていた。
「デンマークの王子は問うた」
低い声が、冬の空気を真っ直ぐ裂く。
「“To be, or not to be, that is the question.”
―生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」
拓海は鼻を鳴らした。
「で?」
「で、じゃない」
「悪ぃけど、俺はそこまで深刻じゃねぇよ」
「いいや」
エドワードは本を閉じた。
「お前にとっては同義だ」
「は?」
「進むべきか、戻るべきか。
英国に残るか、日本へ帰るか。
誰の期待を取って、誰を置いていくか」
一歩、雪を踏む。
「それが今のお前にとっての“生きるか死ぬか”だ」
拓海は苦笑した。
「……絶対違うだろ、バカ。お前の解釈、全部自分に都合いいだけじゃねぇか」
「否定はせん」
「せんのかよ」
けれど、その声にいつもの勢いはなかった。
エドワードは拓海を見下ろしたまま、静かに言った。
「悩むこと自体は恥ではない」
「……」
「だが、何も決めぬままただ流され続けるのは、お前自身への侮辱だ」
雪が、静かにベンチの端へ積もっていく。
拓海はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりとこぼした。
「……わかってるさ」
間。
「……でもよ、エド」
「なんだ」
「俺、誰もがっかりさせたくねぇんだよ」
その言葉だけは、妙に素直だった。
日本で待つ家族。
自分のために未来の形まで変えようとする菜摘。
そして目の前で、重たい理屈のくせに本気で自分を離す気のない男。
全員を救う道なんて、きっと最初からない。
それでも、誰か一人を選ぶってことは、誰か一人を置いていくことみたいで。
それが、拓海にはずっと引っかかっていた。
エドワードは、すぐには答えなかった。
ただ、しばらく拓海を見ていた。
その沈黙は珍しく、押しつけがましいものじゃなかった。
やがて、静かに口を開く。
「不可能だ」
「……」
「万人に優しい結末など、この世には存在しない」
拓海は顔を上げた。
エドワードの声は低く、けれど妙に澄んでいた。
「だから選べ」
「簡単に言うなよ」
「簡単ではない」
即答だった。
「だが、それでも選ばねばならん」
雪がまたひとひら、拓海の肩に落ちる。
「誰も傷つけずに済む道を探して、何も決めぬまま時間だけ失う方が、よほど残酷だ」
「……」
「ならば、お前自身が、最も後悔しない道を選べ」
エドワードはそこで少しだけ目を細めた。
「たとえその選択が、誰かを―あるいは私を絶望させるものであったとしてもだ」
拓海は何も言えなかった。
冗談じゃなく。
茶化しでもなく。
今のその言葉だけは、ちゃんと胸に落ちたからだ。
エドワードが手を伸ばし、拓海の肩に触れた。
コート越しでもわかる、確かな体温。
「お前が選んだ地獄なら」
声が、少しだけいつもの調子に戻る。
「私がそこを天国へ改築してやる」
数秒の沈黙の後。
拓海は、吹き出すように笑った。
「……お前、最後で全部台無しなんだよ、バカ」
「光栄だ」
「褒めてねぇ」
拓海は立ち上がった。
肩の雪を払う。
王子みたいな苦悩なんて似合わない。
そう思っていたし、今も思っている。
けれど、この雪の夜に投げつけられた問いは、確かに胸の奥に残った。
まだ名前のつかない、小さな決意の種みたいに。
「帰るぞ」
「命令するな」
「寒ぃんだよ」
「それは同意する」
エドワードは自分のコートを広げ、当然のように拓海をその中へ引き込んだ。
「うおっ、近いわ!」
「黙れ。凍死されると面倒だ」
「言い方ぁ!」
二人の足跡だけが、白い中庭に並んで残った。
■ジョージの機密ログ(二月:雪夜のハムレット)
二月。深夜の中庭。
僕は見ていた。
迷える野生児と、その地獄への同行を当然のように宣言する翡翠の魔王を。
サエキ。
君の“誰もがっかりさせたくない”という優しさは、確かに綺麗だ。
でも同時に、それは少しだけ傲慢でもある。
誰も傷つけずに進もうとするのは、優しさに見えて、
実は誰にも決めさせないってことだから。
ハミルトン様。
君はサエキに「私を絶望させてもいい」と言った。
でもその目は、まるで疑っていなかったね。
こいつが本当に自分を切り捨てるはずがないって。
そういう、救いようのない確信に満ちていた。
……“進むべきか、戻るべきか”。
その答えが出るまで、あと少し。
雪が溶ける頃、サエキがどの扉を開けるのか。
僕は最後まで、この悲劇か喜劇かわからない物語の記録係でいようと思う。
■ジョージ幕間(観測ログ:深夜・メンタルケア編)
二月。雪の中庭。
エドワード:
珍しく本気でメンタルケアをしていた。
シェイクスピアを持ち出している時点で十分面倒くさいが、
今日に限っては内容がだいぶ正しい。気味が悪い。
拓海:
「誰もがっかりさせたくない」という本音をついに吐いた。ようやく、
自分が優しいだけではどうにもならない地点に来ていると認め始めた模様。
ジョージ:
「いやー、いいシーンだったね(笑)。ハミルトン様、あんなに格好いいこと言ったくせに、最後は即“暖炉の前に回収”しようとしてたよ。通常運転で安心した」
(追記)
「やれやれって事かなぁwwww」
ジョージは、コートの中へ半ば無理やり押し込まれ、
文句を言いながら歩いていくサエキを激写した。
「ハミルトン様。君がどれだけ『ハムレット』を引用してもね、、」
「君が一番言いたかったのは、“冷えたお前を一秒でも早く自分の体温圏内へ戻したい”
ってことなんだよなーw」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




