第二百五話 「恋歌とは、愛を詠むものではなく、会えない時間に耐えきれなかった者たちの悲鳴を、美しい言葉へ整形した記録である」という話
菜摘ちゃんも遠くで自分の立ち位置がこうなってるとは思うまい
十一月末。
霧雨まじりの夕方。図書室の窓は白く曇り、外の芝生は早くも夜の色へ沈みかけていた。
拓海は暖房の効きすぎた室内で、ラグビー帰りの身体を椅子へ投げ出していた。
濡れた髪。雑に開いた参考書。
そして片手には、食堂から持ってきたジャムパン。
「……腹減った」
「さっき夕食を食べただろう」
向かいの席で本を読んでいたエドワードが、呆れたように視線を上げる。
「運動部なめんな。食っても腹減るんだよ」
「野生動物の理屈だな」
「うるせぇ」
拓海がパンを齧る。
苺ジャムが端から少しはみ出した。
エドワードは眉をひそめ、本を閉じた。
古い和歌集。
母の蔵書から持ち出してきた日本語版と英訳注釈つきの一冊。
「……今夜は万葉集だ」
「また始まった」
「教養だ」
「お前の感情処理だろ、それ」
エドワードは立ち上がり、暖炉の前へ移動すると、朗々と読み上げた。
「“君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の
簾動かし 秋の風吹く”」
「おお」
「意味は、待っている相手が来たかと思えば、ただ風が吹いただけだった……ということだ」
「へぇ、切ねぇな」
「そうだ」
エドワードは本を胸元で閉じ、静かに言った。
「二千年前から、人は待たされる苦しみに耐えてきた」
「急に被害者ヅラすんな」
「私は事実を述べている」
「誰に待たされたんだよ」
「……郵便にだ」
「まだそこ引きずってんのかよ!」
拓海は盛大に笑い、ジャム付きパンを机へ置いた。
「お前さ、菜摘の手紙一通で万葉集まで巻き込むなよ」
「巻き込んでいない。人類史的視点だ」
「視点が私情まみれなんだよ」
エドワードは平然としている。
だが耳だけ少し赤い。
「遠くの者は有利だ」
「なんで」
「姿が見えない。現実の欠点も見えない。記憶だけが美化される」
「へぇ」
「近くにいる者は不利だ。パンを食い、課題から逃げ、
ジャムを口元につける姿まで見せつけられる」
「それ俺のことか?」
「お前以外に誰がいる」
拓海は数秒黙り、それから吹き出した。
「つまり何だ」
「……何だとは」
「お前、“遠くの理想像”に負けるの嫌なんだろ」
「違う」
「めちゃくちゃ今そう言ったぞ」
「断じて違う」
「はいはい」
拓海は立ち上がり、暖炉前まで歩くと、エドワードの顔を覗き込んだ。
「でも残念だったな」
「何がだ」
「遠くのやつにはできなくて、近くのお前にしかできねぇことあるぞ」
「……例えば?」
拓海は親指で、自分の口元を指した。
「ジャム取れ」
「…………は?」
「見えてんだろ。近くにいるんだから」
数秒、沈黙。
そのあとエドワードは顔をしかめながら、ハンカチを取り出した。
「お前は本当に下品だ」
「早くしろ」
「命令するな」
そう言いながら、口元のジャムを丁寧に拭き取る。
拓海は満足げに笑った。
「ほらな。手紙じゃ無理だろ」
「……お前は」
「ん?」
「勝ち方が雑すぎる」
「勝ったならいいだろ」
エドワードは深く息を吐き、万葉集を閉じた。
「訂正しよう」
「何を」
「恋歌とは、待つ者の悲鳴ではない」
「おう」
「近くにいる愚か者へ、なぜ離れないのか問い続けた記録だ」
「それもうお前の日記じゃねぇか」
■ジョージ幕間(観測ログ:万葉集、私物化される編)
『サエキ事変ノート:二千年越しの嫉妬』
十一月末。
ハミルトン様、万葉集を読破。
学んだこと:
待つのはつらい
手紙は危険
遠距離は卑怯
ジャムは不潔
だいたい私情である。
現状:
エドワード
古代日本人の恋心を、自身の嫉妬へ転用。
拓海
ジャム付きパン一個で論破。ついでに世話まで焼かせる。
ジョージ
「いやー……雅だね(笑)。万葉歌人たちも、自分たちの切実な恋歌が最終的に
“口元拭け”へ着地するとは思わなかっただろうね(笑)」
(追記)
その夜、ハミルトン様は万葉集にしおりを挟んだ。
次は“嫉妬に使えそうな歌”から読むらしい。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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