第二百六話 「余韻とは、美しい記憶を反芻するための時間ではなく、無神経な一撃によって“今”という現実へ引き戻されるためにだけ存在する、残酷な猶予である」という話
エドワード君色々拗らせてるよねぇ
十一月末、深夜。
図書室には、もう二人しかいなかった。
暖炉の火が静かに爆ぜ、古い本の背表紙に赤い光を揺らしている。
窓の外は霧。
時計の針だけが、小さく時を刻んでいた。
万葉集の一件以来、二人のあいだには妙に穏やかな空気が流れていた。
拓海は課題を投げ出し、椅子に深く座って半分眠そうに目を閉じている。
エドワードはそんな横顔を見つめたまま、本を開いているふりをしていた。
「……タクミ」
「んー?」
気の抜けた返事。
エドワードは、本を閉じた。
今夜こそ、と決めていた。
文学も理屈も借りない。
歌人も哲学者も使わない。
自分の言葉で言うのだと。
「……認めよう。私はこれまで、言葉を飾りすぎていた」
「へぇ」
「比喩に逃げ、歴史に隠れ、他人の名言で自分を武装していた」
「だろうな」
「だが今夜は違う」
エドワードは立ち上がり、拓海の前まで歩いた。
暖炉の光を背負い、翡翠色の瞳が真っ直ぐに揺れない。
「……今ここで、私自身の、飾らない言葉を――」
そっと、拓海の手に自分の手を重ねる。
距離はあとわずか。
空気は静まり返り、薪の爆ぜる音さえ遠い。
エドワードが、生涯でもかなり上位に入る勇気を振り絞った、その瞬間。
――ギュルルルルルルルルルルッ!!
図書室中へ響き渡ったのは、拓海の腹から放たれた、あまりにも雄大な空腹の咆哮だった。
沈黙。
暖炉が、ぱち、と乾いた音を立てた。
「…………」
「……あ」
拓海がゆっくり目を開く。
「わりぃ。今の絶対聞こえたよな」
「聞こえた」
「なんか、安心したら急に腹減った」
「安心した?」
「おう」
エドワードは手を離した。
「……私は今、人生でもかなり重大な話をしようとしていたのだが」
「マジか」
「マジだ」
「そっか」
拓海は数秒考え、それから真顔で言った。
「じゃあ、その前に夜食にしねぇ?」
「…………タクミ」
「腹減ってると大事な話、頭入んねぇだろ」
「お前は本当に」
「ん?」
「最悪のタイミングで最適解を出すな」
十分後。
図書室の隅には、なぜか持ち込まれた小型コンロ。
鍋の中では、怪しげな灰色の液体がぐつぐつ煮えていた。
「……それは何だ」
「プロテイン粥」
「帰れ」
「昨日お前が置いてったバナナ味、使ってやったぞ」
「私の善意を煮込むな!」
「塩ちょっと足すか?」
「やめろ!」
結局、塩も足された。
エドワードは匙を持ったまま、遠い目をしていた。
本音を告げる夜。
心を開く瞬間。
特別な沈黙。
そのすべてが、今、バナナ味の湯気になって立ち上っている。
「……タクミ」
「ん?」
「私の告白は、お前の胃袋に敗北した」
「告白だったのか」
「もう二度と言わん」
「へぇ」
拓海は一口すすり、目を丸くした。
「……これ、意外とうまいぞ」
「嘘だろ」
「お前も食え」
差し出された匙を、エドワードはしばらく睨んだあと、諦めて口に運んだ。
「…………」
「どうだ」
「……不本意だが、悪くない」
拓海が腹の底から笑った。
その笑い声に、さっきまでの完璧な空気は跡形もなく消えた。
だが代わりに、もっと厄介で、もっと温かい何かが、そこには残っていた。
■ジョージ幕間(観測ログ:言霊、腸に敗北編)
『サエキ事変ノート:情緒より胃袋』
十一月三十日。
ハミルトン様、一世一代の本音タイムを敢行。
結果:
サエキの腹が先に喋った。
現状:
エドワード
比喩を捨て、本心を語る覚悟を決めた数秒後、腸音に敗北。
たぶん数日は引きずる。
拓海
雰囲気が良くなるほど安心して腹が減る男。
ある意味、全幅の信頼である。
ジョージ
「いやー……傑作だね(笑)。愛の告白が“バナナ味のお粥”に着地するなんて、誰が予想したかな(笑)」
(追記)
翌朝、サエキは言った。
「また作ろうぜ、あれ」
ハミルトン様は五分ほど黙っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




