第二百四話 「文(ふみ)とは、想いを伝えるためのものではなく、届いた瞬間に届かなかった者の理性を静かに焼き払う凶器である」という話
菜摘ちゃん案外威力があるのか?
十一月下旬。
霧雨の残る夜。図書室の窓には、外灯の光が滲んでいた。
拓海は長机に肘をつき、英作文の課題と格闘していた。
三行書いて止まり、消して、また止まる。
「……なんで英語って、知ってる単語ほど並べると急に知らない顔すんだよ」
「それはお前の語彙が貧弱だからだ」
向かいで本を読んでいたエドワードが、涼しい顔でページをめくる。
「うるせぇな。なら代わりに書け」
「断る。これは教育だ」
「どこがだよ」
拓海が睨む。
エドワードは気にも留めず、本を閉じた。
古びた和綴じ風の装丁。
母の遺品から引っ張り出した、日本文学の英訳対照本だった。
「……今夜は『伊勢物語』だ」
「また始まった」
「名作だ」
「お前の感想会がだるい」
エドワードは立ち上がると、静かに拓海の隣へ回り込み、その机に腰を預けた。
「在原業平。実に厄介な男だ」
「急に悪口から入るな」
「歌を送り、女の心を揺らし、姿を見せず、また去る」
「まぁ昔のモテ男なんじゃねぇの」
「違う」
エドワードは真顔だった。
「文だけで人の感情を管理しようとした、極めて危険な思想犯だ」
「解釈が物騒すぎるだろ」
拓海は吹き出し、ペンを置いた。
「で? 今回は何にキレてんだ」
「決まっている」
エドワードは一冊の本を机へ置き、低く言った。
「遠くにいる者が、紙一枚で存在感を主張することにだ」
「……あー」
「何だその顔は」
「いや、菜摘の手紙まだ効いてんだなって」
「違う」
「伊勢物語出した時点で違わねぇよ」
エドワードは咳払いを一つした。
「タクミ。古来より文は危険だ」
「へぇ」
「会えぬ者ほど美化される。声も届かぬ者ほど記憶に残る」
「ふーん」
「よって、今後お前宛ての手紙は」
「嫌な予感」
「私が先に読んで内容を要約する」
「ただの検閲じゃねぇか」
「防災だ」
「何の災害だよ」
「私の不快感だ」
「正直すぎんだろ、バカ」
拓海は笑いながら、エドワードの袖を引いた。
不意を突かれ、エドワードが少しよろめく。
「な、何をする」
「ほら」
「何だ」
「紙より近い」
「……は?」
「手紙ってのは遠いから届くんだろ。お前、今ここにいんじゃん」
そのまま拓海は、エドワードの肩へ額を軽くぶつけた。
「だったら騒ぐな。うるせぇ」
一瞬、エドワードは言葉を失った。
耳が赤い。
「……お前は」
「ん?」
「そういう雑な正解を、唐突に出すな」
「知らねぇよ」
しばらく沈黙が落ちた。
暖房の音。
外の風。
紙の匂い。
やがてエドワードは小さく息をついた。
「……伊勢物語は訂正しよう」
「何を」
「文とは、遠くの者が使う苦肉の策だ」
「おう」
「近くにいる者には、必要ない」
「そうかよ」
「……そうだ」
拓海はまたペンを持ち直した。
「じゃあ英作文教えろ」
「断る」
「なんでだよ」
「今、機嫌が悪い」
「面倒くせぇな!」
■ジョージ幕間(観測ログ:平安文学、嫉妬に利用される編)
『サエキ事変ノート:業平も困惑』
十一月下旬。
ハミルトン様、『伊勢物語』を読了。
学んだこと:
手紙は危険
遠距離は不快
近距離こそ正義
だいたい私情である。
現状:
エドワード
千年前の歌物語を現代の嫉妬へ接続。
拓海
二十秒で論破。ついでに赤面させる。
ジョージ
「いやー……雅だね(笑)。平安貴族の恋文文化が、
最終的に“近くにいろ”へ着地するとは思わなかったよ(笑)」
(追記)
その夜、ハミルトン様は郵便受けの確認をやめた。
代わりに、図書室の拓海の隣席を先に確保していた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




