第百八十三話 「残響とは、遠ざかったはずの音が、最も静かな場所で自分を規定し続ける」という話
菜摘ちゃんはつらいだろうなぁ
七月下旬。
茹だるような午後の塾。
冷房の効きすぎた自習室の中で、拓海は淡々とペンを走らせていた。
周囲には、ページをめくる音と、押し殺された溜息が時折混じる。
かつて自分が当たり前にいた「日本の受験生の空気」が、そこには確かにあった。
「……拓海、これ」
隣から、そっと付箋が差し出される。
『この構文、ハミルトン君に教わったやつ?
拓海、解き方がすごく……向こうの人みたい』
その文字を見て、拓海の手が一瞬止まる。
視線が、自分のノートへ落ちる。
無意識に選んだ解法。
無駄のない論理の流れ。
(……ああ)
思い当たる。
あの男の声が、ほとんど反射のように蘇る。
『……タクミ。その愚鈍な思考を、私が(正面から)洗練してやる』
「……あ。……あぁ、そうかもな」
軽く笑う。
「あいつ、教え方だけは無駄に完璧だったからさ」
いつも通りの軽口。
だが、その言葉の中に、ほんのわずかに混じる温度を、菜摘は聞き逃さなかった。
「……そっか」
小さく頷く。
それ以上は、何も言わない。
視線を参考書へ戻す。
本当なら、もっと聞けたはずだった。
「どんな人なの?」とか、
「そんなにすごいの?」とか、
「拓海、楽しそうだね」とか。
でも、言葉が出てこない。
(……違うな)
そうじゃない。
聞こうと思えば、聞ける。
ただ。
(聞いたら、戻れなくなる気がする)
その感覚だけが、はっきりとあった。
隣にいるのに、少し遠い。
同じ机に向かっているのに、見ている景色が違う。
(……ああ)
静かに理解する。
(たっくん、もう一人で歩いてるんだ)
寂しさはあった。
でも、それよりも先に来たのは、妙な納得だった。
無理に引き止めるものじゃない。
あれはもう、「選んで進んでる人の顔」だ。
菜摘は、ペンを持つ手を少しだけ強く握り直す。
(……じゃあ、私は?)
言葉にはならない。
ただ、ほんの少しだけ距離を取る。
同じ場所にいながら、少しだけ後ろに下がるような感覚。
それが、自分にできる一番自然な位置だった。
拓海は、ふと顔を上げ、窓の外を見た。
入道雲が高く積み上がっている。
蝉の声は、ガラス越しに遠く響くだけだ。
(……九月、か)
ぼんやりと浮かぶ。
左手の手首に触れる。
何もない。
でも。
あの「十メートル」という、目に見えない距離だけは、確かに残っていた。
皮膚の裏側に、じんわりとした熱を伴って。
■ジョージ幕間(観測ログ:残響の追跡編)
『サエキ事変ノート:不可視のハッキング完了ログ』
「いやー……」
ジョージは小さく笑う。
「いいね」
スマホを見下ろしながら、軽く肩をすくめる。
「サエキ、戻れなかったか」
「戻る気も、ないね」
一拍。
「でもさ」
視線を少しだけ遠くへ向ける。
「それでいいでしょ」
「ちゃんと混ざってる」
「日本と、ハミルトン様」
くすりと笑う。
「一番厄介な形で」
スマホを軽く叩く。
「菜摘ちゃんも、気づいたね」
少しだけ声が柔らぐ。
「引き止めないやつ、一番強いんだよ」
一拍。
「……まあ」
口元が歪む。
「その分、戻ってきた時に全部持ってかれるけどね」
カメラを手に取る。
「九月」
小さく呟く。
「誰が一番“近い”か、ちゃんと撮らないと」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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