第百八十二話 「欠落とは、失ったものではなく、初めて自分の内側に存在していたと気づかされる空白である」という話
好きっていうのとちょっと違うんだろうなぁ
英国、ハミルトン伯爵邸。
広大な書庫には、埃一つない静寂が満ちていた。窓から差し込む午後の光は、計算し尽くされた角度で床を照らし、整えられた空間のすべてが、寸分の狂いもなく「正しさ」の中に収まっている。
エドワードは椅子に腰掛け、開いたままの稀覯本に視線を落としていた。
だが、そのページはしばらくの間、一度もめくられていない。
十メートル先に、あのノイズはいない。
予定を狂わせる笑い声も、境界を越えてくる無遠慮な言葉も、何一つ存在しない。
世界は、ようやく本来の「完全」を取り戻したはずだった。
それなのに。
(……成立しない)
その感覚は、最初は違和感にも満たないほど微かなものだった。
だが、意識した瞬間、ゆっくりと、確実に広がっていく。
視線を本へ戻す。
文字は読める。内容も理解できる。構造も把握できている。
だが、それが自分の内側で意味を結ばない。ただ処理されていくだけで、何も残らない。
(……なぜだ)
指先が、ページの端で止まる。
「エドワード」
背後から、低く抑えられた声が落ちた。
振り返るまでもない。父・ハミルトン伯爵だ。
「説明しろ」
間を置かずに続く。
「その少年に固執する理由を。ハミルトンの資産を動かしてまで手元に置く合理性があるのか」
正しい問いだった。
これまでの自分なら、迷うことなく答えられたはずだ。
価値、能力、将来性――すべて論理的に並べ立てることができる。
だが。
「……」
言葉が出ない。
(違う)
それでは、足りない。
喉の奥に、説明できない何かが引っかかっている。
「……価値など、ありません」
ようやく絞り出した声は、思っていたよりも低く、静かだった。
「彼は、不完全で、無知で……私の脚本を、ことごとく踏みにじる」
事実だ。
否定のしようもない。
だが。
「……ですが」
その先の言葉が、わずかに遅れる。
「彼がいなければ、静かすぎる」
口にした瞬間、その言葉が自分の中に深く沈む。
「……私は」
続けようとして、わずかに言葉が詰まる。
(私は――)
初めて、自分の内側に手を伸ばす。
「……認識できないのです」
「私が、私であることを」
書庫に沈黙が落ちる。
父は何も言わない。ただ、その言葉の意味を測るように、静かに見ている。
「……感情で動くというのか」
ようやく、低い問いが返ってくる。
エドワードは、ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ」
短く否定する。
「これは、感情ではありません」
一拍置く。
「……生存本能です」
その言葉は、どこか乾いていた。
「私は」
そこで、ほんのわずかに言葉が揺れる。
「……彼になりたい」
はっきりと、言い切る。
「人に頼り、笑い、間違えながら、それでも前に進む……ただの一人の人間に」
視線は逸らさない。
父を、正面から見据える。
「彼がいなければ」
言葉が、わずかに遅れる。
「私は……完成してしまう」
それ以上は言わない。
だが、その一言で、すべては十分だった。
■ジョージ幕間(定点観測:伯爵邸・システムダウン編)
『サエキ事変ノート:天才の告白ログ』
「いやー……」
ジョージはロンドンの自室で、スマホを見下ろしながら小さく笑った。
「ついに言ったね」
椅子にもたれ、軽く息を吐く。
「完成しちゃう、か」
その言葉を、少しだけ転がすように繰り返す。
「それ、終わりって意味なんだけどね」
くすりと笑う。
「ハミルトン様」
「やっと気づいた?」
視線を窓の外へ向ける。曇り空が、どこまでも平坦に広がっている。
「サエキがいないと、自分が“動いてるだけの何か”になるって」
小さく肩をすくめる。
「いいじゃん」
「そこからが、本番でしょ」
スマホを軽く叩く。
「九月」
静かに呟く。
「ちゃんと欲しがる顔、見せてよ」
カメラを手に取りながら、ジョージは楽しげに笑った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




