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百八十一話 「保留とは、決断を先延ばしにすることではなく、正解を自ら作り出すための猶予を予約することである」という話

拓海君回が続きます

日本の夜は、昼間の熱を逃がしきれず、重く湿っていた。

アスファルトにはまだぬくもりが残り、街灯の光が鈍く滲んでいる。


塾の帰り道。

人気のない交差点の手前で、菜摘がふと足を止めた。


「……ねぇ、拓海」


呼びかける声は、どこかためらいを含んでいる。


「大学、日本で受けるよね?」


振り返ると、そこには迷いのない目があった。


「塾の先生も言ってたよ。今の偏差値なら、いいところ狙えるって」


淡々とした言葉。けれど、その奥にあるのは疑いのない“普通の未来”だった。

それが正しいことを、拓海も理解している。


返事をせず、拓海は自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開けた。

ぬるい。思わず顔をしかめる。


「……悪い」


小さく、息のように漏れる。


「今は、決めねぇ」


菜摘の表情が、わずかに止まる。


「……え?」


「日本も、あっちもさ」


視線を逸らしながら続ける。


「どっちがいいとか、どっちが俺らしいとか……正直、まだよくわかんねぇんだ」


少しだけ言葉を探す。


「……でも」


「どっちか捨てるつもりもねぇよ」


強い言い方ではない。

ただ、そこに置かれただけの言葉。


沈黙が落ちる。


菜摘は何も言わない。ただ、その場に立ち尽くしている。


その空気の中で、拓海はようやく気づく。


もう、自分たちは同じ前提で話していないのだと。


「……戻るよ」


「向こうに」


「あいつとの一年、ちゃんとやる」


言いながら、自分でも少しだけ苦笑する。


「……その先は」


一瞬だけ言葉が途切れる。


「その時、考える」


それは答えではなく、途中だった。


菜摘の横を通り過ぎる。

何も言われないまま。


振り返らない。


背中に残る気配だけが、少しだけ重い。


(……悪いな)


心の中でだけ、呟いた。


夜。

食卓。


「……で?」


父が口を開く。


「さっきの話だが」


箸を置く音が、やけに大きく響いた。


「日本で受けるのか。それとも向こうか」


逃げ場のない問い。

拓海は一度だけ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げる。


「……まだ決めてない」


父は間を置かずに返す。


「決めていない、は答えにならん」


静かな声だった。


怒っているわけではない。ただ、事実として突きつけてくる。


「どちらにも準備がいる」


「どちらも選ぶ気なら、どちらもやれ」


一拍。


「中途半端は許さん」


正論だった。

逃げ場はない。


(……どっちもやる、か)


その言葉の重さが、じわりと胸に沈む。


「……わかってるよ」


拓海は短く答えた。


それ以上は言わない。


だが、その声には、昼間よりもわずかに重さがあった。


部屋に戻る。


ベッドに腰を下ろしてスマホを取り出す。


通知はない。何も。


「……は」


小さく笑う。


「あいつらしいな」


エドワードは、連絡を絶つことで、拓海の「自分自身の足」を試している。


励ましも、脅しも、予約もしない。

「私が必要なら、自力で戻ってこい」という、傲慢で、ひどく純粋な沈黙。


スマホを握り、画面を見て、閉じる。


(……まぁいいか)


天井を見上げる。

静かだ。誰もいない。誰も見ていない。誰も、踏み込んでこない。

それが。

少しだけ。

物足りない。


■ジョージ幕間(観測ログ:保留という名の反逆編)


『サエキ事変ノート:未確定の未来編』


「いやー……いいね」


ジョージはロンドンの自室で、スマホの画面を眺めながら笑った。


「決めなかったか」


椅子にもたれ、指先で端末を軽く回す。


「逃げずに、決めない」


小さく肩をすくめる。


「一番面倒で、一番面白いやつ」


視線を横に向ける。


そこにエドワードがいるわけではない。だが、その様子は容易に想像できた。


「ハミルトン様も、これ困るだろうね」


「管理できない未来」


一拍。


「でもさ」


少しだけ声のトーンが柔らぐ。


「自分で戻ってくるやつって、嫌いじゃないでしょ?」


スマホを見下ろす。


そこに残る、短いログ。


「……九月か」


カメラを手に取る。


今はまだ、シャッターは切らない。


「いい絵になるよ、これ」


静かに呟き、ジョージはわずかに笑った。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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