第百八十話 「不在とは、失ったものを数える時間ではなく、自分が何者であるかを突きつけられる刃である」という話
拓海の夏、エドワードの夏
【拓海編:日本の夏】
七月。日本。
蝉の声が、やけに耳につく。
アスファルトの照り返しと、まとわりつくような湿気。英国の乾いた空気とは違う、日本特有の重たい熱が、体の奥にじわじわと入り込んでくる。
拓海は、地元の塾の教室に座っていた。
エアコンは効いているはずなのに、どこか息苦しい。視界の中には、見慣れているはずの風景――黒板、机、参考書、そして同じ制服を着た同年代の生徒たち。
どれも、少し前まで「当たり前」だったはずのものだ。
「よお、拓海」
肩を軽く叩かれる。
振り向くと、佐藤が笑っていた。
「イギリス帰りが塾とか、何の冗談だよ」
「……うるせぇよ」
拓海は軽く返す。
そのやり取りは自然だった。言葉も、間も、昔と何も変わらない。
「たっくん、ここわかる?」
隣から菜摘の声がする。
英単語帳を片手に、いつもの距離感で、いつものように話しかけてくる。
「あー……そこは――」
拓海は問題を覗き込み、説明を始めた。
ちゃんと答えられる。言葉も出てくる。理解もしている。
なのに。
(……なんか、浅いな)
自分の声が、どこか遠くにあるような感覚。
自分が話しているはずなのに、少しだけ他人の声を聞いているような、奇妙なズレ。
笑うこともできる。
会話も続く。
周りと同じように振る舞うこともできる。
でも。
(……こんな感じだったか?)
ふと、手が止まる。
周りを見渡す。
みんな同じ方向を見ている。黒板を見て、問題を解いて、未来へと進んでいく「正しいルート」を辿っている。
(……俺、どこ見てたっけ)
ペン先が、ノートの上でわずかに揺れた。
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【エドワード編:英国の夏】
同時刻。英国。
ハミルトン伯爵邸の書庫は、異様なほど静まり返っていた。
拓海がいない。
ただ、それだけのことなのに。
世界は、驚くほど整っていた。
音も、空気も、時間の流れすら、すべてが「正しい位置」に収まっている。
「エドワード」
父の声が、静かに響く。
「お前がその少年に固執する理由を、説明しろ」
エドワードは、本から目を上げた。
いつもなら、迷うことはなかったはずだ。
論理で説明できる。価値で語れる。必要性として整理できる。
だが。
(……違う)
言葉が出てこない。
”拓海がいない”。
それだけで、何かが成立しない。
本を閉じる。
指先に、わずかな震えが残る。
人に頼ること。
笑うこと。
間違えること。
どれも、自分にはなかったものだ。
だが、あいつはそれを、当たり前のように持っていた。
(私は……)
思考が止まる。
羨ましい。
その一言に近いはずなのに、それを認めるには、
自分の積み上げてきたすべてが重すぎた。
「……理由は、ありません」
ようやく口を開く。
声は、いつも通り冷静だ。
「ただ」
わずかに間を置く。
「彼がいなければ、私の世界は完成しない」
それは理屈ではなかった。
初めて自覚した、欠落だった。
■ジョージ幕間(定点観測ログ)
『サエキ事変ノート:分離による再定義編』
「いやー」
ジョージは、ロンドンの自室で笑った。
窓の外には、乾いた夏の空が広がっている。
「いいねぇ、この距離」
スマホをくるりと回す。
「サエキは日本で“普通”やってる」
少し考えるように、目を細める。
「で、ちょっとズレてる」
肩をすくめる。
「ハミルトン様は……」
一拍置いて、軽く笑う。
「自分のこと、少し嫌いになり始めてる」
「最高だね」
スマホの画面に、短いメッセージが表示されている。
『日本、暑すぎて死ぬ』
「……あはは」
小さく吹き出す。
「余裕あるじゃん」
でも、その口調とは裏腹に、目は楽しそうに細められていた。
「帰る気、満々だな」
カメラを手に取る。
シャッターは切らない。
「九月」
ゆっくりと呟く。
「ちゃんと爆発するね、これ」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




