第百七十九話 「日常とは、止まっていた時計の針が、容赦なく自分を追い越していく感覚のことである」という話
拓海君回が続きます
六月の終わり。夕暮れの通学路。
雨上がりのアスファルトが、橙色の光を鈍く反射している。
英国の乾いた夕陽とは違う。
空気が重い。
湿っている。
肌にまとわりつくような、逃げ場のない現実。
拓海は、駅前の雑踏に立っていた。
行き交う人。
制服姿の高校生たち。
見慣れているはずの光景。
それなのに。
どこか、距離がある。
「……あ」
声。
「……拓海?」
振り返る。
菜摘がいた。
手には英単語帳。
背中には塾のリュック。
変わらない。
はずなのに。
「……菜摘」
少し間が空く。
「……おう。久しぶりだな」
「ほんとに久しぶり」
小さく笑う。
でも、その目が一瞬だけ探る。
「……メール、全然返してくれないからさ」
軽い調子で言う。
でも。
完全に冗談ではない。
「まだ向こうにいるのかと思った」
一拍。
「……ねぇ」
少し首を傾げる。
「拓海、変わった?」
まっすぐな問い。
逃げ場はない。
「……」
拓海は、すぐに答えない。
頭の中に浮かぶ。
あの場所。
十メートルの距離。
翡翠色の視線。
笑って、ぶつかって、巻き込まれて。
(……変わった、か)
「……どうだろうな」
視線を逸らす。
「飯が合わなかっただけかもな」
軽く笑う。
逃がす。
「……それより」
話を変える。
「お前も塾かよ」
「当たり前でしょ」
即答。
迷いがない。
「来週、期末だよ?」
一歩近づく。
「こっちは普通に進んでるんだから」
その言葉。
柔らかい。
でも。
確かに、線が引かれる。
「……拓海はいいよね」
少しだけ茶化す。
「英国で優雅に――」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……大変なんだっけ?」
「まぁな」
短く返す。
「お姉さんに聞いた」
続ける。
「塾、行くんでしょ?」
「……ああ」
小さく頷く。
「今日、申し込んできた」
「そっか」
笑う。
今度は、はっきり。
「じゃあ、また一緒だね」
その一言。
軽い。
でも。
まっすぐすぎる。
「……嬉しいな」
拓海は、何も返せない。
(……ああ)
この感じ。
知ってる。
前は、当たり前だった。
でも今は。
少しだけ。
遠い。
「……まぁ、そうだな」
やっと出た言葉は、それだけだった。
菜摘は気にしない。
気づかない。
そのまま話し続ける。
塾のこと。
テストのこと。
クラスのこと。
全部。
普通の話。
拓海は、それを聞きながら。
どこかで、別の景色を見ていた。
(……静かだな)
誰も、踏み込んでこない。
誰も、勝手に決めない。
誰も、十メートル先に立たない。
それが。
少しだけ。
物足りない。
夕焼けが、さらに色を濃くする。
■ジョージ幕間(ロンドン・自宅書斎/遠隔観測ログ)
『サエキ事変ノート:対比される日常編』
「……へぇ」
ジョージは、自宅の書斎で椅子に深く沈みながら、スマホの画面を眺めた。
窓の外は、乾いたロンドンの夕暮れ。
英国の空気は、相変わらず軽い。
「菜摘ちゃん、か」
画面をスクロールする。
誰かから回ってきた断片的な情報。
「いいねぇ、この“普通”」
くすりと笑う。
「サエキ」
ぽつりと呟く。
「ちゃんと戻れてるじゃん」
一拍。
「一応ね」
スマホを軽く回す。
「でも」
にやりと笑う。
「戻りきってない」
天井を見上げる。
「隣にいるのに」
「違う場所見てる顔」
「最高に中途半端」
小さく笑う。
「で」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「ハミルトン様は――」
視線を横に向ける。
そこにいるわけじゃない。
でも、想像できる。
「……何もしてないだろうね」
くすりと笑う。
「何もしてないのが、一番重い」
カメラを手に取る。
意味もなく、シャッターを切る。
「サエキ」
小さく呟く。
「その“普通”」
一拍。
「どこまで保てるかな」
目を細める。
「九月」
にやりと笑う。
「ちゃんと壊れるといいね」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
いいねや感想など、いつも励みになっています。
この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




