第百七十五話 「侵食とは、境界線が消えることではなく、自分自身の輪郭を相手に委託してしまうことである」という話
楽に乗りたい気持ちはわかるよ拓海君!
クレストフィールド学院
期末試験が終わった。
静けさが戻った図書室。
積み上げられていたものが、一気にほどけるような、あの独特の空気。
拓海の手元には、夏休みの予定表。
日本への航空券。
日付。
時刻。
スマホの画面には、未読のメッセージ。
『いつ帰ってくるの?』
短い一文。
それだけで、向こう側の空気が思い出せる。
返さなきゃいけない。
わかっている。
―なのに。
指が、動かない。
画面の上で、止まる。
考えることが、少し面倒だった。
どう返すか。
何を言うか。
帰ったあと、どうするか。
全部。
少しだけ、重い。
「……タクミ」
声が落ちてくる。
静かに。
十メートル先から。
「その端末を、裏返せ」
本を開いたまま。
視線は上げない。
「……あ?」
「不純だ」
一言。
「お前の意識が、そこに取られている」
ページをめくる音。
それだけが、やけに響く。
「夏休みの四十日間」
淡々と続く。
「お前の思考を、私の知らない場所に分散させる理由がない」
拓海は、少しだけ眉をひそめた。
めちゃくちゃだ。
いつも通り。
「……日本への連絡だよ」
軽く返す。
だが、言葉に力が乗らない。
「日本」
小さく繰り返される。
「その二文字に、お前の時間を割く必要があるか?」
そこで、初めて。
エドワードが顔を上げた。
視線が合う。
逃げ場が、ない。
「……タクミ」
名前を呼ばれる。
それだけで、思考が一瞬止まる。
「お前は、ここにいればいい」
静かに。
「それ以外は、今のお前には不要だ」
否定でも、命令でもない。
ただ、当然のことを言っているだけの声音。
拓海は、言い返そうとする。
「いや……」
言葉が、続かない。
別に、正しいとは思っていない。
おかしいに決まっている。
―なのに。
少しだけ。
楽だ、と思った。
考えなくていい。
決めなくていい。
このまま、ここにいればいいなら。
それでいい気がした。
「……」
スマホを見る。
画面は、まだ光っている。
『いつ帰ってくるの?』
もう一度、読む。
意味は分かる。
ちゃんと分かるのに。
少し遠い。
「……まぁ」
小さく息を吐く。
「あとで返すわ」
そう言って。
スマホを、裏返す。
カチ、と小さな音。
それだけで。
少しだけ、静かになった。
(……ああ)
余計なことを考えなくていい。
楽だ。
そう思った瞬間。
どこかの輪郭が、わずかに曖昧になる。
気づかないまま。
■ジョージ幕間(図書室・境界線消失ログ)
『サエキ事変ノート:非接触バイアウト編』
「……あーあ」
ジョージは、机に頬杖をついたまま呟く。
「やってるねぇ」
視線の先。
スマホを裏返した拓海。
その向こうで、何も言わずに本を読むエドワード。
「今の、見た?」
誰にともなく。
「“やめろ”じゃないんだよね」
一拍。
「“いらない”って言った」
くすりと笑う。
「選択肢ごと削るタイプ」
肩をすくめる。
「サエキもさ」
小さくため息。
「別に納得してないのに」
指先で机を叩く。
「楽だから、乗っかってる」
視線を細める。
「危ないねぇ」
外を見る。
校門の方。
黒塗りの車が、静かに停まる。
「……来た」
口元が歪む。
「強制終了プログラム」
立ち上がる。
「サエキ、君のその“快適な侵食”」
小さく笑う。
「一回、全部ぶっ壊されるよ」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




