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第百七十一話 「伝統とは、生き残った者が勝手に定めた生存証明であり、その実態は、狂気を様式美で包み隠しただけの奇行である」という話

これ、死人出ないんだろうかとふと思った

五月、晴天。

サマータームの光が、学園のクリケット場を容赦なく照らしていた。


―そして、その光の下で。


およそスポーツとは思えない「刺激臭」が、ゆっくりと広がっていた。


「……なぁジョージ」


拓海は、フルフェイスのヘルメット越しに目を細める。


「これ、本当に伝統なのか? 目が痛いんだけど」


グラウンド中央。

白いユニフォームのはずが、既にうっすら赤く染まり始めている。


原因は明確だった。


ボール。


正確には――

激辛ソースを塗りたくられたボール。


「サエキ、君はわかってないね」


審判席。

なぜかガスマスクを装着したジョージが、カメラを構えながら笑う。


「これは“大英帝国の不屈の精神”と“カプサイシン耐性”を同時に試す、極めて合理的な伝統行事だよ」


「どこが合理的なんだよ……!」


その時。


背後、正確に十メートル。

白いクリケットウェアを完璧に着こなしたエドワードが、何事もない顔で現れた。

空気が、少しだけ整う。


「……タクミ」


声は低く、静かだ。


「その軟弱な防具は外せ。粉塵の流れが読めない」


「脱げるか!!」


即答だった。


「これ、当たった瞬間に辛い霧になるんだぞ!? 殺意しかねぇだろ!!」


「……案ずるな」


エドワードは一歩だけ近づく。


「お前に向かうすべての粒子は、私が正面から処理する」


「どうやってだよ!!」


「超大型送風機を手配した。既に搬入経路も――」


「ルール守れ!!」


開始のホイッスルが鳴る。


次の瞬間。

地獄が始まった。

バットが振られる。


―弾ける。


赤い霧。


「目がぁぁぁ!!」

「誰だ今の!? 何も見えねぇ!!」


風に乗って、粉塵が広がる。

視界は赤く、呼吸は辛く、誰もボールを正確に追えていない。

それでも、拓海は笑っていた。


「おらぁ!!」


振る。

当たる。

また弾ける。


後輩が崩れ落ちる。


「サエキさん! 味方です!!」


「すまん!!」


全く悪びれていない。

むしろ楽しそうだった。


「ひゃはは! サエキ、ナイスショット!」


ジョージの笑い声とシャッター音が止まらない。


「今ので三人落ちたよ! 完全に兵器だね!」


その喧騒の外。


十メートルの距離を維持したまま、エドワードは動いていた。


優雅に。


そして意味不明に。


マイ箸で。


空中のボールを掴もうとしている。


「……タクミ」


息が、少し荒い。


「この空気中のカプサイシン濃度は――」


言いながら、一歩踏み出す。


霧の中へ。


「――お前の肺を侵食している」


さらに一歩。


「……私が、すべて吸収する」


「やめろ!!」


拓海が叫ぶ。


「吸い込むな!! 死ぬぞ!!」


エドワードの動きが止まる。


一瞬。


次の瞬間、ぐらりと揺れた。


「……問題ない」


「問題あるだろ!! 白目向いてるぞ!!」


結局。

試合は。


誰もボールが見えなくなったことにより、強制終了となった。


試合後。

談話室。


そこには、赤い顔をしたバカたちが転がっていた。


氷嚢。

濡れタオル。

開け放たれた窓。


静かだ。


さっきまでの騒音が嘘みたいに。


「……なぁ、エド」


拓海が、鼻をすすりながら横を見る。


「さっきから何してんだよ」


十メートル先。


エドワードが、小瓶を手に立っていた。


『ハミルトン家専用・緊急毒物中和剤』


と書かれている。


「……タクミ」


声はまだ少し掠れている。


「安心しろ。お前の粘膜損傷は、すでに医療チームを手配済みだ」


「呼ぶなよ!!」


「ヘリで来る。あと七分だ」


「呼ぶなって言ってんだろ!!」


エドワードは近づかない。


距離は保ったまま。

ただ、視線だけが離れない。


「……他者の物質による汚染は、許容できない」


小瓶を持つ手に、わずかに力が入る。


「すべて洗浄する必要がある」


「ただの激辛だって言ってんだろ……!」


拓海はため息をつく。

氷嚢を持ち上げて、自分で顔に当てる。


「ほら、これでいいんだよ」


しばらく沈黙。


エドワードはそれを見ている。


じっと。


「……それでは不完全だ」


「うるせぇよ」


拓海は笑う。


少しだけ、疲れた顔で。


「生きてるからいいだろ」


――間。


エドワードは何も言わない。


ただ。


一歩だけ、近づきかけて。

止まる。


氷嚢を持つ手を見て。


視線を外す。


「……来年は出ねぇ」


拓海がぼそっと言う。


すぐに、誰かが笑う。


「どうせ出るだろ!」

「絶対担ぎ出されるって!」


「うるせぇな……」


拓海も笑う。


その声を、エドワードは聞いていた。


少し離れた場所で。


■ジョージ幕間(観測ログ)


『サエキ事変ノート:激辛クリケット・バースト編』


「いやー、最高だね」


ジョージはカメラを下ろさない。


「スポーツマンシップが、物理的な激痛で上書きされる瞬間」


一枚、また一枚。


「これぞ青春だ」


(追記)


「……ああ、なるほど」


少しだけ、声が落ちる。


「サエキがどれだけ壊れても、あいつは“笑って戻ってくる”んだ」


シャッター音。


「だからエドワード様は、壊れたくないんだね」


一拍。


「壊れたら、同じ場所に立てなくなるから」


小さく笑う。


「――面白いなぁ」

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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