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第百六十九話 「捕獲とは、自由を守るための盾ではなく、対象を永遠に停滞させるための罠である」という話

もう少しで夏休み回かなー

クレストフィールド学院

四月。サマータームの喧騒が本格的に動き出す直前、学園には、どこか落ち着かない静けさが漂っていた。

嵐の前の、妙に澄みきった空気だ。


部室棟の一角。

着替えを終えた拓海は、ベンチに腰を下ろし、課題図書を膝の上に放り出したまま、ぼんやりと天井を見上げていた。


手元にあるのは、ライ麦畑でつかまえて。

ページの端は折られ、ところどころに雑に読み返した跡が残っている。


「……なぁ、ハミルトン」


声をかけると、ほとんど間を置かずに返事が来た。


「……聞いている」


十メートル先。

部室の入り口に、制服の皺ひとつ許さない姿で、エドワードが立っている。


「このホールデンって奴さ。結局、どこにも行けねぇんだな」


拓海は本を指先で軽く叩いた。

その声音には、呆れと、わずかな引っかかりが混じっている。


エドワードは、ほんの一拍だけ沈黙し、それから静かに口を開いた。


「……むしろ逆だ、タクミ。彼は“行かない”ことを選んだ。

 汚濁に満ちた大人の世界から、子供たちを守るために」


翡翠色の瞳が、わずかに細められる。


「崖から落ちそうになる子供を、捕まえる。

 それは極めて合理的で、崇高な管理(予約)だ」


その言葉には、評価ではなく、共鳴があった。


拓海は小さく息を吐き、足元に転がっていたサッカーボールを軽く蹴った。

乾いた音を立てて、それがゆっくりと床を転がる。


「……お前さ」


少しだけ考えてから、続ける。


「崖の上で捕まえるんじゃなくてさ。

 落ちたあとに拾うって選択肢はねぇの?」


エドワードの視線が、わずかに動いた。


「……どういう意味だ」


「俺なら、下に回るかな」


拓海は、ボールの動きを目で追いながら言う。


「でっかいネットでも張ってさ。

 落ちたやつを、まとめて受け止める」


少し笑う。


「んで、そのまま泥まみれで笑ってりゃいいだろ。

 落ちるなって見張ってるより、そっちの方がよっぽどマシだ」


部室の空気が、ほんの少しだけ揺れた。


エドワードは、即座には答えなかった。

その代わりに、ゆっくりと一歩、踏み出す。


「……非合理だ」


低く、抑えた声。


「落下の可能性を前提にする時点で、管理として破綻している。

 最善は、落とさないことだ」


さらに一歩、影が濃くなる。


「タクミ。お前がその崖から、自ら降りようとするなら――」


わずかな間。


「私は、キャッチャーにはならない」


静かに言い切る。


「……崖そのものになる」


空気が、音を立てて止まったように感じられた。


「お前の進む先、そのすべてを、ハミルトンという地平で包囲(予約)する。

 どこへも行かせない。それが最も完全な保護だ」


拓海は、ほんの一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。


「……お前、ホールデンよりタチ悪いな」


苦笑混じりに言って、立ち上がる。


部室の扉を押し開けると、外から一気に光と声が流れ込んできた。


「おーい、サエキ! 遅ぇぞ!」


「今行く!」


振り返らずに手を振る。


「じゃあな、ハミルトン。

 俺は“下”で遊んでくるわ」


そのまま、光の中へ飛び出していく。


笑い声と、足音が遠ざかる。


残された部室に、再び静寂が戻った。


床の上では、拓海が蹴ったボールが、まだわずかに回転を続けている。


エドワードは、その動きを、目で追った。


やがてそれが止まるまで、ただ、じっと。


(タクミ。……お前が外へ混ざるなら)


指先が、わずかに震える。


(その外側すべてを、私の内側に取り込めばいい)


ゆっくりと、目を閉じる。


(世界ごと密封すれば、お前はどこにも行けない)


静かに、息を吐いた。


■ジョージ幕間(部室棟・文学的防衛線の観測)

『サエキ事変ノート:キャッチャーの拒絶編』


部室の扉が閉まったあと、廊下の陰から、軽い足音がひとつだけ近づいてきた。


「……いやー、今のはなかなかだったね」


ジョージは、壁にもたれかかりながら、静まり返った室内を覗き込む。


床に転がるボール。

その傍らに立つエドワード。


「サエキが“落ちてもいい”って言って、

 エドワード様が“落ちる場所ごと消す”って言った」


くすり、と笑う。


「うん、方向性としては完璧に真逆だ」


ゆっくりと部屋に入り、ボールをつま先で軽く止める。


「でもさ、これちょっと面白いんだよね」


視線だけでエドワードを見上げる。


「普通、“守る”って言ったら外敵を排除するでしょ?

 でもエドワード様の場合、それじゃ足りない」


指を一本立てる。


「環境ごと固定する。

 変化そのものを許さない」


一拍。


「……それ、もう“保護”じゃなくて“標本化”だよ」


軽く肩をすくめる。


「サエキが望んでるのは“転んでも笑える世界”で、

 エドワード様が作ろうとしてるのは“転ばないように動けない世界”」


視線が、扉の向こうへ向く。


「どっちも正しいけどさ」


小さく息を吐く。


「一緒にはいられないよね、これ」


沈黙。


そして、少しだけ楽しそうに笑う。


「……さて、どうするのかな」


ボールを拾い上げ、軽く放る。


「崖の上に閉じ込めるのか。

 それとも――」


キャッチして、転がす。


「一緒に落ちる覚悟を決めるのか」


振り返りもせず、部室を出ていく。


「どっちにしてもさ、エドワード様。

 今のままじゃ、どっちも選べないでしょ?」

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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