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第百六十八話 「記録とは、結末を予測するためのデータではなく、そこにあった体温を忘れないための祈りである」という話

文学回は書いてて楽しいから好きなんだなー。

僕の話を読んでる人が「文学回」を読んでくれた時、

本棚の奥から昔読んだタイトルを引っ張り出して再読してくれたらすごくうれしいかもしれない。

四月。

春の嵐に押し込められた生徒たちで、学園の図書室は静かな熱気を帯びていた。


窓を打つ雨音が、一定のリズムで空間を満たしている。

ページをめくる音と、時折の咳払い。それ以外は、ほとんど何もない。


その静寂の中で―


拓海は一冊の本を閉じたまま、しばらく動かなかった。


「……なぁ、ハミルトン」


ぽつりと落ちた声に、反応はすぐに返る。


「……何だ」


十メートル先。

書棚の影から、音もなくエドワードが姿を現す。

その手には、同じ本――付箋がびっしりと貼られた『アルジャーノンに花束を』があった。


拓海は、少しだけ眉を上げる。


「……お前、もう読み終わってんのかよ」


「……既読だ。だが、再読に値する資料ではあった」


淡々とした声。

だが、その言葉の端々には、評価というより“検証”の色が濃い。


一拍。


「……タクミ。この物語は、非効率だ」


静かに告げられたその一言が、図書室の空気をわずかに歪める。


「チャーリイは知能を得て、世界を理解した。だが、最終的にはすべてを失い、元に戻る。……ならば、その過程は無意味だ」


エドワードは本を閉じた。


「劣化が確定している成長に、価値はない。

終焉が約束された変化など、……ただの徒労だ」


そこにあるのは、冷徹な結論だった。


結果だけを抽出し、それ以外をすべて切り捨てる思考。

“完成”以外を認めない、ハミルトンの美学。


だが。


拓海は、ゆっくりと顔を上げた。


「……あるだろ」


短い言葉。

けれど、それは迷いなく返された。


「価値」


エドワードの視線が、わずかに揺れる。


「お前さ、チャーリイが賢かった間のこと、全部無駄だって言うのかよ」


「論理的には、そうなる」


「ふざけんな」


小さく、だが確かに熱を帯びた声だった。


拓海は椅子の背に体重を預けながら、言葉を探すように続ける。


「……そいつ、その間、ちゃんと生きてただろ」


雨音が、一瞬だけ強くなる。


「人を好きになったり、悩んだりさ。

自分が何者か考えて、苦しんで――それでも前に進もうとしてた」


一拍。


「最後に全部忘れるとしても、さ」


拓海は本を指で軽く叩いた。


「そのとき笑ったり泣いたりしたのは、嘘じゃねぇだろ」


沈黙。

エドワードは答えない。


拓海はさらに続ける。


「お前、“元に戻った”って言うけどさ。俺は違うと思う」


静かに。


「チャーリイは、“花を供えることを知ってる自分”になったんだろ」


その言葉は、まっすぐだった。


「それが一瞬でもさ。

そこに意味があったって、俺は思う」


―意味。


その単語だけが、妙に重く響いた。


エドワードは、言葉を失う。


拓海が肯定しているのは、彼が最も忌避してきたもの。

“崩れていく前提の成長”。


同時に―


彼が最も欲しているものでもあった。


「……お前は」


かすれた声。


「……消えていく輝きすら、肯定するのか」


拓海は、少しだけ肩をすくめた。


「消えてもいいんだよ」


あっさりと。


「生きてる間に、面白いことやれてればさ」


そして、少しだけ笑う。


「お前みたいにさ、ずっと同じ形で保存してる方が、よっぽどつまんねぇだろ」


その言葉は、軽い。

だが、深く刺さる。


「……」


エドワードは何も返せなかった。


窓の外では、雨が強くなっている。


拓海は立ち上がり、窓辺へと歩いた。

外を眺めるその横顔は、どこまでも無防備で――自由だった。


(タクミ……)


エドワードの思考が、静かに軋む。


(お前は、変わることを恐れないのか)


(知らない場所へ進み、形を変え、……やがて、私の手の届かない場所へ行くことを)


手の中の本が、わずかに震える。


(……それを、私は)


言葉にならない。


ただ一つだけ、確かなことがあった。


それは―


その未来を、受け入れることはできない、という事実だった。


■ジョージ幕間(図書室・思想衝突の観測記録)

『サエキ事変ノート:アルジャーノンの墓標編』


図書室の隅。

嵐を避けた生徒たちのざわめきに紛れて、ジョージは一冊の本を閉じた。


視線の先には、窓辺に立つ拓海と、その背後に静かに佇むエドワード。


距離、約十メートル。


「……いやー、いいね。最高に噛み合ってない」


小さく笑う。


「サエキは“過程”を愛してる。途中で壊れても、その間に何かを感じたなら、それでいいっていうタイプ」


指先で机を軽く叩く。


「で、エドワード様は“結果”しか見てない。完成しないなら全部無意味。途中の感情なんてノイズ扱い」


一拍。


「……そりゃ、交わるわけないよね」


ジョージは頬杖をつきながら、二人を眺め続ける。


「でもさ」


少しだけ、声のトーンが落ちる。


「面白いのはここからなんだよ」


視線が、わずかに細くなる。


「サエキは“変わってもいい”と思ってる。

 エドワード様は“変わるな”と思ってる」


くす、と笑う。


「つまりこれ、未来の話なんだよね」


ページを指でなぞる。


「サエキは前に進む。

 エドワード様は、今のサエキを固定したい」


そして、ぽつりと。


「……で、どっちも間違ってない」


沈黙。


雨音が、また少し強くなる。


「ひどいよねぇ」


ジョージは肩をすくめた。


「正しい者同士って、一番面倒くさい」


(追記)


ジョージは、拓海が席を立ったあとに残された本を、そっと手に取った。


ページの端には、無意識に付けられた小さな折り目。


「……あーあ」


苦笑する。


「サエキ。君さ、自分で思ってるより、ちゃんと影響受けてるよ」


視線が、今度はエドワードへ向く。


「で、エドワード様はそれを全部見てる」


一拍。


「だから余計にタチが悪いんだよね」


小さく笑う。


「“変わる過程”まで愛せるか、

 それとも“変わる前”で閉じ込めるか」


本を閉じる。


「どっちを選ぶかで、この話、たぶん全部決まるよ」


「……まあ、どっちに転んでも、僕は観測するだけだけどね(笑)」

ここまで読んでいただきありがとうございます。


悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。


いいねや感想など、いつも励みになっています。

この話もゆるく続いていく予定なので、

また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。

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