第百五十五話 「執行猶予という名の春待つ檻、あるいは三月の解体新書」という話
拓海君はどっちの手を取るんだろうね。
どっちをとってもダメな気がするけどね。
【二月末:寮への帰還と、新たな支配の始まり】
外交官レジデンスから、マットレス目がけてダイブし、
ボロ自転車でロンドンの街を爆走したあの日。
拓海たちは、勝ち誇ったような顔で寮の扉を押し開けた。
―そこにあるはずだったのは、解放だった。
騒がしくて、どうでもよくて、誰にも管理されない、ただの“日常”。
しかし。
彼らを出迎えたのは、それとはあまりにも違うものだった。
「……おかえり、タクミ。予定より10分遅いな」
食堂の隅。
ジャージ姿のエドワードが、静かにそこに座っていた。
目の前には、湯気を立てるカップ麺。
それは、彼の存在とあまりにも不釣り合いな光景だった。
「父から資金の使用を制限された」
淡々とした声。
「だから私は、今日からお前と同じ生活水準を共有することにした」
一拍。
「お湯の温度、待ち時間。……すべて、お前の好みに合わせて管理した」
沈黙。
寮の連中の笑い声も、どこか遠くに聞こえる。
本来なら。
金で用意された豪奢な何かであれば、拓海は迷いなく蹴り飛ばしていたはずだった。
だが。
慣れない手つきで、
自販機の熱湯に四苦八苦しながら、
正確に三分を測り、用意された一杯。
その「甲斐甲斐しさ」に似た異常は、あまりにも質が悪い。
「……おう」
視線を逸らしたまま、言う。
「……ありがとな、バカ」
その一言。
それが、どこまでも底の見えない沼への―
静かな第一歩だった。
【三月初頭:実家からの“正義”と、三ヶ月の猶予】
数日後。
寮に現れたのは、場違いなほど整った男だった。
日本から派遣された、父の秘書官。
「佐伯拓海様」
その声音には、一切の揺らぎがない。
「治安維持上の懸念に基づき、帰国を要請いたします」
言葉は柔らかい。だが、その内容は完全に強制だった。
「証人保護プログラムの適用も視野に入っております。……安全のため、ご同行を」
“安全”。
その言葉の意味を、誰よりも拓海自身が理解している。
連れて行かれようとした、その瞬間。
「――それは実家の都合だ」
声が落ちた。
階段の上。
エドワードが、そこに立っていた。
「タクミ」
静かに、しかし確実に。
「選べ」
一拍。
「実家の用意した『檻』に戻るか」
さらに一拍。
「私の用意した『隣』に残るか」
秘書官が眉を動かす。
「これは正式な――」
「分かっている」
エドワードは遮る。
「だからこそ、選ばせる」
彼は、何も差し出さなかった。
金も、契約も、拘束も。
ただ。
「私はお前を縛らない」
静かに言う。
「お前の“意思”を、ここで確定させる」
提示されたのは条件だった。
夏までの三ヶ月。
その間に、拓海自身が“選ぶ”かどうか。
実家側も、それを受理する。
「三ヶ月の執行猶予とします」
秘書官は淡々と告げた。
「帰国後、最終判断を仰ぎます」
選択は先送りされた。
だが、それは同時に。
逃げ場が三ヶ月分、延びただけだった。
拓海は、どちらにも頷けないまま。
三月の冷たい風の中へと、再び放り出された。
********************
【三月中旬:テスト前、解凍される境界線】
ロンドンの三月は、静かに骨まで冷える。
自習室。
暖房が効いているはずなのに、指先がかじかむ。
その机の上に。
カップが置かれる。
「……タクミ」
顔を上げる。
エドワードが立っている。
「紅茶だ。適温にしてある」
それが、毎日のように繰り返される。
そして始まる、一対一の授業。
「三月の模擬試験で結果を落とせば」
淡々とした解説の合間に、言葉が差し込まれる。
「実家はそれを理由に帰国させるだろう」
問題用紙に視線を落としたまま。
「だから、試す」
一拍。
「お前の脳が、私の“不在”に耐えられるか」
ペン先が止まる。
エドワードの解説は、異様なほど明晰だった。
曖昧さがない。
迷いがない。
思考が一直線に、正解へと導かれる。
「……なるほど、そういうことか」
気づけば、声が漏れている。
問題が、解ける。
理解できる。
その感覚は、暖かい紅茶と同じ温度で、ゆっくりと体に染み込んでいく。
金ではない。
圧でもない。
ただ、自分の時間と知能だけで。
「……」
気づいたときには。
それを“拒否できない理由”が、増えていた。
一方で。
日本から届く写真。
桜の下で笑う、菜摘。
『春になったら、一緒にあそぼうね』
その言葉は、あまりにもまっすぐで。
あまりにも“正しい”。
なのに。
今の拓海には、それが遠い。
紅茶の温かさよりも。
この机の向こうにあるものの方が、
ずっと現実に近く感じられてしまう。
■ジョージ幕間
『サエキ事変ノート:三月の解凍編・総括』
サエキ拓海、ハミルトンの熱量と実家の郷愁に挟まれ、全方位から分解中。
現状:
サエキ:
寒さと試験への圧力により、ハミルトンの“正攻法な優しさ”を拒否できない状態へ移行。
ハミルトン:
“不在=敗北”という構図を利用し、恩義という名の接続を強化中。
ジョージ:
ポップコーンを食いながら観測。
(追記)
「……ひゅー、冷えるね」
ジョージはラウンジで足を組み、呟く。
「サエキの脳内、今ごろすごいよ」
一拍。
「“エドワードの解説”と“菜摘ちゃんの笑顔”が――」
にやりと笑う。
「デッドヒートしてる」
さらに一拍。
「で、どっちに転んでも」
軽く肩をすくめる。
「自由は、ないね(笑)」
「タクミ」
静かな声。
「紅茶が冷める前に解け」
一拍。
「お前の“正解”は――」
わずかに目を細める。
「すべて、私の手のひらの上にある」
「……早く、テスト終わらんかな…」
ペンを握り直しながら、拓海は小さく呟いた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




