第百五十二話 「正常とは、強制され続けることで、やがて自分のものだと誤認される」という話
そのうち一度菜摘ちゃんイギリスにくる回をやろうかな。
外交官レジデンス、防音仕様の書斎。
暖炉の火は変わらず静かに燃え、
先ほどの「バニラアイス通話」という名の惨劇は、
まるで何事もなかったかのように、上質な壁紙の奥へと吸い込まれていた。
「……続けるわよ」
「……は?」
拓海は机に突っ伏したまま、ゾンビのように顔だけをわずかに上げる。
「今のが“第一段階”」
詩織の声は、変わらない。
「表層のバグを取り除いただけ。……まだ、あなたの脳の“核”には、あの翡翠色のノイズが居座っているもの」
「……核ってなんだよ」
「無意識よ」
一拍。
「あなた、さっきの通話のあと……“誰の声”を先に思い出した?」
沈黙。
(……あいつだ)
(……『バニラアイスは不適切なコードだ』とか抜かした、あのストーカーの声だ)
答えは、出ている。
「顔に出てるわね」
詩織は、わずかに目を細めた。
「……第二段階に入るわ」
「やめろ」
即答。
「今度は“継続”」
拒否は無視される。
「単発の爆撃じゃなく、日常という名の占領よ」
「……俺の日常を、勝手に軍事作戦みたいに扱うな」
詩織は答えず、端末を差し出した。
そこには、すでに整えられた文章。
『さっきはごめん。ちょっと変だったかも。でも、声聞けて安心した』
「……いや無理。キャラじゃねぇ」
「送りなさい」
静かな命令。
「あなたの“キャラ”なんて、今は書き換えの途中でしょう?」
一拍。
「……ほら」
逃げ場のない圧。
拓海は、ゆっくりと指を動かした。
送信。
数秒。
既読。
『ううん、大丈夫だよ!びっくりしたけど、ちょっと面白かったかも(笑)』
あまりにも普通で、あまりにも健康的な返信。
その瞬間。
拓海の脳内で、何かが軋む。
(……タクミ)
かすかに響く声。
(……その通信は……)
一瞬、ノイズが走る。
(……私の、領域に……)
「……っ」
拓海が眉をひそめる。
「……いい傾向ね」
詩織が、静かに言った。
「干渉が弱まってる」
一歩、距離を取る。
「“上書き”が始まっている証拠よ」
拓海は何も言わない。
ただ、画面を見る。
そこにあるのは、“普通”の言葉。
(……なんだよ、これ)
胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ静まっている。
「いい?」
詩織の声が、落ちる。
「あなたは今、“選ばされる側”から」
一拍。
「自分で選ぶ側に戻る途中なの」
「……どっちも地獄だろ、それ」
拓海は、力なく笑う。
「結局、俺に平穏はねぇのかよ」
「そうね」
否定はしない。
「でも」
わずかに、声が柔らかくなる。
「後者の方が、まだマシよ」
暖炉の火が、静かに揺れる。
拓海は、手元の画面を見つめる。
「(笑)」の文字。
その軽さが、今は妙に現実的だった。
ほんの少しだけ。
胸の奥の波が、凪ぐ。
でも。
それが別の“依存”の入口であることには、
まだ気づいていない。
■ジョージ幕間(微調整)
『サエキ事変ノート:距離侵食編・第16節』
サエキ拓海、「菜摘パッチ」の継続適用により、ハミルトン回路の減衰を確認。
現状:
詩織:
“日常の反復”による再定義を実行中。
対象の思考優先度を書き換えつつある。
サエキ:
「普通」に安堵を感じ始める。
なお、それが設計された反応であることには未気づき。
ハミルトン:
外部ノイズの増加を検知。
静かに不快。
(追記)
「……ふーん」
ジョージは、換気口から流れる暖炉の匂いを嗅ぎながら呟く。
「“正常”っていう名の、別の“予約”か」
一拍。
「……サエキ、君の脳」
「今、綱引きされてるね(笑)」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
また気が向いたときに覗いていただけたら嬉しいです。




