第百三十七話 「同一とは、境界が消えることではなく、境界が無意味になるほど相手を侵食した結果である」という話
エドワードくん、、、
クレストフィールド学院
放課後。図書室。
冬の光はすでに力を失い、窓の外の景色は色彩を奪われ、冷たい濃淡だけで構成されていた。
室内の灯りは安定した明るさを保っている。それにもかかわらず、この場所にはどこか現実感が欠けている。
紙の匂いと、暖房の乾いた空気。
それらが静かに混ざり合い、音のない膜のように空間を満たしていた。
拓海は、椅子に深く身を沈めていた。
参考書は開いている。
だが、その内容は一行として頭に入ってこない。
視線は文字の上を滑るだけで、意味を結ばない。
(……いる)
考えるまでもない。
(……今日も、そこにいる)
ゆっくりと、視線を上げる。
図書室の奥。窓際。
影と光の境界線。
エドワード・ハミルトンが、そこにいた。
距離、正確に十メートル。
近づかない。
話しかけてこない。
ただ。
視線だけが、固定されている。
それは、ただ見ているというよりも、
焦点を合わせたまま動かない―
高出力のレーザーのように、逃げ場を与えない視線だった。
「……なぁ、ジョージ」
拓海は、視線を外さないまま呟く。
「……あいつ、今日は何に触発されて、あんな岩みたいになってんだよ」
「んー?」
隣でページをめくりながら、ジョージが気楽に答える。
「今日のエドワード様はね、嵐が丘をインストール中」
一拍。
「たぶん今、クライマックスの地獄に到達したところかな」
「……ああ」
拓海は目を閉じる。
「終わったな」
低く吐き出す。
「よりによって、あれかよ」
「いいじゃないか」
ジョージは肩をすくめる。
「死んでも離れられない、究極の愛の話だよ」
「それをあいつに読ませるなっつーの」
すぐに返す。
「墓を予約し始めるだろ」
「……もうしてると思うよ」
軽く笑う。
「ほら、立った」
その言葉の直後。
本を閉じる音が、静かに響いた。
エドワードが立ち上がる。
だが、距離は変わらない。
境界線の十メートルを、正確に保ったまま。
「タクミ」
呼ばれる。
「……そこから動くなよ」
「動かない」
即答。
「境界は維持している」
一拍。
「……だが、理解した」
声が、わずかに深くなる。
「この物語が示す、真理を」
「やめろ」
反射的に遮る。
「それ以上、理解するな」
「“I am Heathcliff.”(私はヒースクリフそのものなのよ)」
低く、なぞるように。
呪文のように、その言葉が落ちた。
「……は?」
「私は、彼だ」
一拍。
「そして、お前は」
わずかな間。
「……私だ」
空気が、一瞬で凍りついた。
「……意味わかんねぇこと言うな」
即座に返す。
「俺は俺だ。お前はお前だ。別人だろうが」
「否定する」
揺らがない。
「物理的な個体差は、単なるインターフェースの違いに過ぎない」
言葉が、距離を越えて侵入してくる。
「お前がどこにいても」
「何を選択しても」
「その結果は、私の内部に反映される」
「……」
「ならば、分離している意味はない」
静かに、結論が落ちる。
「我々は、同一だ」
「……違ぇよ」
今度は、声が低くなる。
「それ、一番やべぇやつだぞ」
「安心しろ」
エドワードは淡々と続ける。
「侵食は、すでに最終段階に入っている」
「……は?」
「お前は今、私を意識している」
「……」
「それが、第一段階だ」
沈黙。
(……やばい)
拓海は理解する。
(これ、距離の問題じゃねぇ)
(中に入ってきてる)
「……やめろ」
低く言う。
「勝手に、俺の中に入ってくるな」
一瞬だけ。
エドワードの表情が、わずかに揺れた。
だが、それは躊躇ではなかった。
「拒絶は受理した」
静かに言う。
「だが、影響は停止しない」
一拍。
「お前が私を拒絶するほど」
「お前の中で、私の解像度は上がる」
「……」
「つまり、同一性は強化される」
完全な断定。
「それが、この『嵐が丘』の結論だ」
周囲の生徒たちが、息を潜めて囁き合う。
「今度は人格侵食かよ……」
「距離意味ねぇじゃん……」
「もうサエキ、逃げられなくね……?」
「ねぇサエキ」
ジョージが、楽しそうに言う。
「これ、もう距離取っても無駄だね」
一拍。
「……だって、内側にいる」
「……それを言うな」
即座に返す。
拓海は視線を逸らした。
でも、逃げている感覚はなかった。
距離はある。
接触もない。
それなのに。
思考のすぐ隣に、
エドワードの気配が、常駐している。
(……近ぇ)
物理とは無関係な距離。
「……ほんと、最悪だな」
小さく呟く。
その言葉は、静かに空気へ溶けていった。
「タクミ」
エドワードの声が、最後に届く。
「お前が私を嫌うその感情も」
「……私のものだ」
一拍。
「すべて、同期済みだ」
「……感情の著作権、主張すんなよバカか!!」
ジョージの記録(書架の影、閉館のベルとともに)
【サエキ事変・嵐が丘(同一化侵食)編】
エドワード・ハミルトン、嵐が丘を“自己同一理論”として誤読。
現状:
・物理距離:維持
・精神距離:消滅
・境界:概念的に無効化
結論:
離れている。
だが、分離できない。
(追記)
「……サエキ」
ジョージが、小さく笑う。
「それ、“一緒にいる”より厄介だよ」
一拍。
「逃げ場が、“内側”にしか残ってないんだから」
「……お前のその笑い方が、一番不吉なんだよ……」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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