第百二十七話 「不在とは、距離によって生まれるものではなく、その場所に“いるはずの自分”を失ったときに初めて成立する」という話
ジョージが一番ヤバイ説
ロンドン、外交レジデンス。
分厚い石壁に守られた室内は、外の冷気や喧騒を完全に遮断していた。
暖炉の火が、規則的に爆ぜる。
その音はあまりにも整いすぎていて、どこか現実味が薄い。
まるで、この空間そのものが「正しく整えられた静寂」を再生しているようだった。
「……で?」
書類に目を落としたまま、詩織が言う。
「何が“で”だよ。……ただお茶飲んでるだけだろ」
「顔」
短い一言。
「……あんた今、“考えないようにしてる顔”してる」
拓海は、何も返さなかった。
カップの縁を見つめたまま、視線を動かさない。
「……別に。……静かすぎて落ち着かねぇだけだ」
「別に、じゃないのよ」
カチリ、とカップがソーサーに戻される。
その小さな音が、やけに鋭く響いた。
「逃げてるときのあんたは、昔からそういう顔する」
沈黙が落ちる。
暖炉の火の音だけが、やけに規則正しく続く。
「……姉貴」
「何」
「“戻る場所”ってさ」
一拍。
「……一個じゃないとダメなのか?」
詩織が、ようやく顔を上げた。
その視線は、迷いを一瞬で仕分けるように冷たい。
「ダメじゃないわよ」
即答。
「ただし」
わずかに、間。
「どっちにも中途半端に足をかけたままだと」
視線が、逃げ場を塞ぐ。
「……あんたは、どっちからも『不在』になる」
静寂。
「……今のあんた、それ」
そのとき、テーブルの上のスマートフォンが短く震えた。
画面に浮かぶ名前。
―『菜摘』
指が、わずかに止まる。
「……見ないの?」
「……見る」
ためらいを押し込むように、画面をタップする。
再生。
映し出されるのは、冬の空。
澄みきった青と、朱塗りの鳥居。
人のざわめき。鈴の音。
風が、音を運んでくる。
赤と白。
『たっくん見てるー?』
画面の中の菜摘が、いつもの調子で笑う。
『めっちゃ忙しいんだけどさ!』
軽い声。
変わらないテンポ。
『今年、人多くてさー、もう死にそう(笑)』
笑っている。
変わっていない。
「……」
『でもさ』
ほんの一瞬だけ、音が途切れる。
『……やっぱり来なかったね』
名前は呼ばれない。
それでも、逃げ場はなかった。
すぐに、笑顔が戻る。
『まぁいいけど! 次は絶対ね!』
動画が終わる。
暗転した画面に、自分の顔が映る。
「……元気そうじゃない」
詩織の声。
「……ああ」
短く答える。
だが、胸の奥では、まったく別のものが軋んでいた。
(……違う)
(音が違う)
(空気が違う)
(……俺、あっちにいたはずなんだよな)
指先に触れるカップは、もう冷えている。
(……なんで俺、ここにいるんだろ)
同時刻。夜。ハミルトン邸。
広大な空間は、どこまでも静かだった。
人の気配はあるはずなのに、それは音になる前に消され、
すべてが“最適な状態”に制御されている。
「……」
エドワードは、窓辺に立っていた。
動かない。
ただ、そこに在る。
「……変数が、一つ」
低く、言葉が落ちる。
「欠落している」
その瞬間、完成されていたはずの空間が、わずかに歪む。
「……タクミ」
名を呼ぶ。
それだけで、静寂の質が変わる。
エドワードは、ゆっくりと窓へ歩み寄った。
指先が、ガラスに触れる。
冷たい。
だが、その冷たさすら、意味を持たない。
「……この空間は」
言葉が、わずかに遅れる。
「お前がいない時点で、未完成だ」
外。夜空。
白く、硬質な月が浮かんでいる。
「……補完が必要だ」
静かな断定。
「……観測を開始する」
視線が上がる。
焦点は、月ではない。
その向こう。
「……逃がさない」
一歩、踏み込むように。
「……だが」
わずかな間。
「……縛れない」
初めて生じた、ズレ。
「……ならば」
その揺らぎを、塗り潰すように。
「回収する」
拳が、静かに握られる。
「……タクミ」
その名は、祈りでも願いでもない。
ただの、確定事項。
「お前がいなくても成立する世界など」
一拍。
「……認めない」
月光が、室内に差し込む。
柔らかなはずの光が、どこか鋭く、空間を切り裂いていた。
完璧な世界。
しかし、その中心には、決定的な空白がある。
そして、その空白だけが。
エドワードという存在を、動かしていた。
ジョージの記録(屋根裏部屋。暖炉の熱がかすかに届く場所にて)
窓の外には、同じ月が浮かんでいる。
「……あーあ」
小さく、息を吐く。
画面には、二つの座標。
ロンドンと、ハミルトン邸。
どちらも、同じ一点へ収束している。
「壊れ始めてるな、これ」
キーを叩く。
サエキ拓海:帰属先、不安定。
エドワード・ハミルトン:管理対象欠損により、内部構造に歪み発生。
一拍。
「……どっちも、限界」
Enter。
【状態:臨界】
椅子にもたれ、天井を見上げる。
「……年明け、面白くなるな」
画面を閉じる。
その顔には、いつもの軽さが残っているのに。
目だけが、わずかに冷えていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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