第百九話 「近代文学は、個体の不安定性を記録しただけのはずが、解釈次第で他者への完全依存を正当化する危険な理論へと変質する」という話
文学シリーズは書いてて楽しい
放課後の図書室。
窓から差し込む秋の光は低く、埃の舞う静寂の中に机の長い影を焼き付けていた。
紙をめくる音だけが、やけに鼓膜に響く。
拓海は、肘をつきながら文庫本に目を落としていた。
(……重いな、これ。胃もたれしそうだわ)
ページをめくる指が、湿り気を帯びた絶望に少しだけ鈍る。
「タクミ」
「うわっ」
顔も上げずに返す。
「なんだよ、集中させろよ」
「その書籍。『人間失格』だな」
「知ってんのかよ。英国パブリックスクールのエリート様が」
椅子を引く音もなく、向かいにエドワードが座る。
いつもの距離。逃げ場のない対面配置。
「当然だ。分析している。これは、人間という種の“脆弱性に関するデバッグ報告書”だ」
「雑にまとめんな。名作だぞ」
「否定する。自己の不安定性を制御できず、外部環境との同期に失敗した個体の末路だ。結果、孤立し、崩壊する。非効率の極みだ」
「あー、うん。まぁ、そういう話だけどさ……」
「ならば」
エドワードが身を乗り出す。瞳に、冷たい光が宿る。
「解決策は明確だ。嫌な予感を抱く必要はない」
「……言ってみろよ」
「その適応不能な個体を、ノイズの多い公共環境から切り離す。私が設計した安定した単一環境へ移行させる」
一拍。
「つまり。私の管理(監禁)下に置けばいい。それが唯一の救済だ。それ以外は、すべて失敗だ」
「違ぇよ!! それ『人間失格』じゃなくて『人生終了』だわ!!」
即座に否定。だが、エドワードは止まらない。
「この個体は、他者との摩擦を避けるために“道化(演技)”を行っている。擬態だ。それは多大なリソースを消費する」
視線が、正確に拓海を射抜く。
「だから。お前は、私の前でのみ存在すればいい。演技は不要だ。私が管理するシェルターこそが、お前にとって最も安定したOSとなる」
「てか、それただの独房だろ」
「合理的だ。不純物のない、純粋な環境だ」
「言い換えるな」
拓海は深くため息をつき、本を閉じた。
「お前さ。これ、そういう“効率化”の話じゃねぇからな。人間がうまくやれなくて、勝手にボロボロになってく悲しみを描いてんだよ」
「理解不能だ。解決できない問題を、わざわざ記録する意図が不明だ。非合理的だ」
「そういうもんなんだよ、文学は」
エドワードは、わずかに目を細めた。
「タクミ。お前も同様の脆弱性を抱えている」
「はあ? 一緒にすんなよ」
「環境への適応。日本と英国の間で揺れ動く帰属。未確定な進路。極めて不安定な状態だ」
「余計なお世話だ」
「だからこそ、私が必要だ。お前の不安定性をすべて肩代わり(バックアップ)する」
「いらねぇって。パンクするわ」
拓海が立ち上がると、エドワードも同時に動く。
「この書籍の結論は、“人間失格”ではない。“環境設計の失敗”だ」
わずかに、口元が歪む。
「ならば、私が設計し直す。お前が二度と壊れないように。完全に、ハミルトン製に」
「やめろって言ってんだろ。それ以上言うと、マジで憲法に触れるぞ」
「既に触れている」
「知ってるよ、バカ!!」
そこへ、隣の棚からひょっこりとジョージが顔を出した。
「はいはい、呼ばれてないけど実況に来たよー。あー、これさ」
本を覗き込み、にやっと笑う。
「ハミルトンが読むと、『人間失格』が秒速で『人権失格』にコンバートされるやつだね」
「適切な要約だ」
「正しくねぇよ!!」
拓海は本をカバンに突っ込んだ。
「帰るわ」
「同行する」
「すんな。一人で太宰の気分に浸らせろ」
「同行する。心中の確率を0.00%にするための護衛だ」
「重いわ!!」
図書室を出て、夕暮れの廊下を歩く。
後ろからついてくる気配は、一歩の狂いもなく拓海の影を繋いでいる。
「タクミ。安心しろ」
「なんだよ」
「お前が人間でなくなっても、私が受け入れる」
「余計なお世話だわ!! 人間やめねぇし、飼われるつもりもねぇよ!!」
秋の夕暮れ、校舎に拓海の叫びが響き渡った。
静寂は一瞬で崩れたが、後ろの気配だけは離れない。
磁石のように。
―最初から、そこにあったかのように。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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