第百八話 「一年という時間は、関係を“日常”に偽装しながら、確実に形を変えていく」という話
エドワード:僕から逃げようなんて無駄さ! 逃げれば逃げるほど僕に近づく! だって、地球は丸いんだもん!!(2回目)
秋の気配は、去年と同じように、何の前触れもなく寮の廊下に入り込んでいた。
窓の隙間から差し込む空気は冷たく、乾いている。
どこか澄んでいて、音がよく通る季節だ。
拓海は、その空気を肺に入れながら、ゆっくりと歩いていた。
(……去年も、こんな感じだったな)
ふと、思い出す。
初めてこの学校に来た日。
妙に静かで、妙に広くて、そして妙に居心地が悪かった。
―そして。
「お前、日本人だろ」
最初にかけられた、あの傲慢な、命令みたいな声。
「……タクミ」
「……うわ」
現実に引き戻される。
振り返るまでもない、耳に馴染みすぎた声。
「……なんだよ」
「去年の、この時期だ」
一歩、後ろ。影が重なるほどのゼロ距離。
「お前という未知の検体を、私が初めて観測した期間の起点」
「記念日かよ。気持ち悪りぃな」
「合理的だ。重要なログの開始点は、常に保全されるべきだ」
「祝うな」
軽く言い返しながらも、拓海は足を止めなかった。
廊下の先、夕方の光が、少しずつ濃度を増した赤に染まっていく。
「……一年、か」
ぽつりと呟く。
「……ああ」
短い返答。
それだけなのに、妙に重い。
いつものような過剰な言葉がない分、余計に逃げ場がない。
「……なんだよ。静かすぎるだろ、お前」
振り返る。
そこには、変わらない顔。
だが、“何か”だけが確実に変わっている。
「ノイズを削減した」
「過剰な干渉は、対象の拒絶反応を増幅させる。
「観測精度の低下を招く。……最適化の結果だ」
「気持ち悪い進化すんな。もっとバカみたいに喋ってろよ」
「……否定する」
間を置かず、切り捨てるように。
「これは改善だ」
「お前の生活圏に、私という存在を“背景”として常駐させるための処理」
「意識されない状態こそ、最も強固な固定だ」
「……」
拓海は、何も言わなかった。
(……なんだよ、それ)
言葉にすると、妙に現実味が出る。
歩きながら、軽く肩を回す。
(……去年より、楽だ)
距離も、会話も、全部。
最初はただの異物だったはずなのに、今は。
「……タクミ」
「なんだよ」
「……お前は、去年よりこの環境に適応している」
「心拍、歩幅、視線の移動範囲、そして、私との距離」
「そりゃ一年いるしな」
「……慣れるもんだよ」
「……」
エドワードの声が、わずかに沈む。
「……それは、“慣れ”ではない。“固定”だ」
「……は?」
「お前の挙動は、既に私の構築した環境に最適化されている」
「お前の意思とは無関係に、お前は、ここから離れにくい構造になっている」
「開き直るな。勝手に人の人生を設計すんな」
ため息。
拓海は、歩みを止めずに言う。
「それでも、決めるのは俺だ」
「一年いたからって、それで未来が決まるわけじゃねぇ」
廊下の先、夕焼けが燃えるように濃くなる。
「……そうか」
エドワードは、ただ頷いた。
「……なら」
一歩だけ、距離が詰まる。
「お前がどこを選んでも構わない」
「日本へ戻ろうと、別の場所へ逃げようと、その全てを、事前に取得し」
「お前の着地点を、私の管理下に置くだけだ」
「……」
「逃げ場は、常に私の内側にある」
「おい、それ、ストーカー宣言って言うんだよ」
「……合理的だ」
「…愛とは、対象の未来を全て先取りし、選択肢を潰す行為だ」
「いや、おい、愛ってなんだよ愛って」
短く、切る。
拓海は前を見る。
去年と同じ景色。
だが、決定的に違う。
背後にいる存在が、もう“外”ではない。
(……一年か)
長いようで、短い。
「……タクミ」
「なんだよ」
「お前がいない未来は」
一瞬、言葉が止まる。
「計算できない。演算外だ」
「……はぁそりゃどうも」
軽く返す。
歩く。
後ろからついてくる気配は、変わらない。
ただ一つだけ、違っていた。
それはもう、追ってくる影ではない。
―逃げても、最初からそこにある前提のようなものだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
悠馬君の父、佐伯拓海と、ノアの父、エドワード・ハミルトンのお話です。
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この話もゆるく続いていく予定なので、
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