名前を忘れる前に
「ミラは?」
男は、それを五分の間に四回尋ねた。
治療台の上で上半身を起こし、落ち着かない様子で部屋を見回す。
四十代半ばほど。まだ働き盛りの身体だったが、顔にはひどい疲労が滲んでいた。
「娘がいるんだ。ミラっていう。十六歳で……いや、十五だったか?」
ニナは男の右手首へ指を当てたまま答えた。
「十六歳です。外で待っています」
「ああ、そうか」
男――エドム・ラウゼは安心したように息を吐いた。
「十六だ。そうだった」
そして、ほんの少し間を置いた。
「……あんたは?」
ニナの指が止まりそうになる。
だが、止めない。
「ニナです。あなたの治療をしています」
「治療……」
エドムは眉を寄せた。
「俺、怪我したのか?」
「身体の怪我ではありません」
ニナはできるだけ短く答えた。
今、長い説明をしても意味がない。
忘れてしまう可能性があるからではない。
説明している間にも、身体の中で呪いが進んでいるからだ。
エドムの首筋から耳の後ろにかけて、灰色の細い紋様が浮かんでいた。
黒く広がるようなものではない。
むしろ薄い。
よく見なければ、皮膚の下に細い影がある程度にしか見えない。
だが、その一本が脈打つたび、エドムの記憶が一つずつ欠けていた。
朝、何を食べたか。
今日どこへ行こうとしていたか。
職場までの道。
昨日話した相手。
一週間前の出来事。
消える順番は一定ではない。
一度失われたものは、呪いを止めても戻らない。
「先生」
助手が小声で呼ぶ。
ニナは目だけを向けた。
「三つ目です」
手元の記録板には、短い問いと答えが並んでいる。
住所。
不正解。
仕事場の名前。
不正解。
自分の年齢。
答えられた。
娘の名前。
答えられた。
娘の年齢。
一度間違えた。
ニナは奥歯を噛んだ。
治療法は分かっている。
首の後ろに入り込んだ呪いを三箇所から切り離し、最後に中心を抜けばいい。
難しい。
けれど、できる。
問題は、切り離すより速く呪いが記憶へ食い込んでいることだった。
「ミラは?」
まただ。
ニナは顔を上げる。
「外にいます」
「そうか」
エドムが少し笑った。
「心配性なんだ。あいつ。俺がちょっと風邪引いただけでも――」
そこで言葉が止まった。
「……風邪?」
男の顔から笑みが消える。
「俺、最近風邪引いたか?」
ニナは答えなかった。
助手も記録板へ何かを書いた。
エドムはそれを見て、ようやく自分に起きていることを少し理解したらしい。
「俺、忘れてるのか」
ニナは嘘をつかなかった。
「はい」
「どれくらい」
「まだ分かりません」
「戻る?」
一番聞かれたくなかった質問だった。
それでも答えは決まっている。
「呪いを止めれば、これ以上失うことは止められます」
エドムがこちらを見る。
その目だけで、その先を求めているのが分かった。
ニナは続けた。
「今までに失われた記憶が、全部戻るとは言えません」
部屋が静かになった。
エドムはしばらく何も言わなかった。
やがて、自分の両手を見る。
「そうか」
声は思っていたより静かだった。
「ミラは?」
「覚えています」
「そうじゃなくて」
男は扉を見る。
「会わせてもらえるか」
ニナは一瞬迷った。
呪いが人へ移る種類ではない。そこは確認済みだ。
だが治療を始めれば、途中で身体を動かしてほしくない。
「治療が始まったら、そばにいるだけになります」
「それでいい」
「話せない時間もあります」
「いい」
エドムはそこで少し笑おうとして、失敗した。
「忘れる前に顔見ときたい」
ニナの胸が詰まった。
それでも、すぐには扉を開けなかった。
患者の不安だけで手順を変えるわけにはいかない。
「準備ができたら呼びます」
エドムは頷いた。
「分かった」
その直後、灰色の紋様がまた脈打った。
エドムの表情から何かが抜ける。
ほんの一瞬だけ、ここがどこなのか分からなくなったように周囲を見回した。
「……ミラは?」
五回目だった。
治療室の外では、十六歳の少女が椅子へ座っていた。
立ったり座ったりを繰り返していたらしく、ニナが扉を開けるとすぐ立ち上がった。
「父は?」
「今から治療を始めます」
「助かりますか?」
ニナはその問いに、少し考えてから答えた。
「呪いは止めます」
少女――ミラの唇が強く結ばれる。
賢い子だった。
その言い方に含まれていない部分まで分かったらしい。
「忘れたものは?」
「……戻らない可能性があります」
ミラは俯いた。
泣かなかった。
代わりに両手を強く握る。
「私のことは?」
「今は覚えています」
その瞬間、少女が顔を上げた。
「会っていいですか」
「お父さんもそう言っています」
扉を開ける。
ミラは走り込みそうになって、一歩目で自分から速度を落とした。
治療台まで歩く。
エドムが娘を見た。
「ミラ」
その声だけで、少女の顔が歪んだ。
「うん」
「来たのか」
「来るよ」
ミラは治療台の横へ座る。
「お父さんが仕事場で倒れたって聞いたんだから」
「仕事場……」
エドムが眉を寄せる。
「どこだった?」
ミラの表情が止まった。
ニナは何も言わない。
ここで娘に「試さないでください」と止める必要はなかった。
ミラもすぐに意味を理解した。
「大丈夫」
父の手を握る。
「仕事のことはあとで話すから」
「悪いな」
「謝らなくていい」
「でも――」
「今は覚えてなくていい」
少女はそう言った。
声は震えていた。
それでも手は離さなかった。
「私が知ってるから」
エドムは娘をじっと見た。
「強くなったな、お前」
「前から」
「そうだったか」
「そうだよ」
「そうか」
エドムが笑った。
その会話を聞きながら、ニナは治療具を準備する。
助手が入口へ目を向けた。
「来ました」
灰色の外套を着た老人が入ってくる。
シャワルだった。
治療台へ近づき、まずエドムを見る。
次に灰色の紋様。
そしてニナ。
「どこまで」
「三箇所に食い込んでいます。二つは処置できます。問題は最後です」
「最後まで行くと?」
「記憶を削る呪いが身体の魔力へ完全に定着します。そうなれば切り離せません」
「それまでに治せるか」
「今の速度なら間に合いません」
「俺が止めたら?」
ニナは一度、手順を頭の中で組み直した。
前と違う。
今回、シャワルに止めてもらいたいのは今ある呪い全部ではない。
すでに進んでしまった侵食はどうしようもない。
「完全定着だけ止めてください」
「ああ」
「途中の侵食は?」
シャワルが尋ねる。
「私が切ります」
「止めなくていいのか」
「止められるなら助かります。でも、あなたが全部を抱える必要はありません」
ニナは首筋を見る。
「最後だけください」
シャワルの口元がわずかに動いた。
「分かった」
それで役割は決まった。
ミラが二人を見比べる。
「何をするんですか」
ニナが答える。
「私が、お父さんの中に残っている呪いを取り除きます」
「シャワルさんは?」
「最後まで進むのを抑える」
シャワル本人が答えた。
ミラが息を呑む。
「じゃあ、忘れなくなる?」
誰もすぐには答えなかった。
シャワルが少女を見る。
「今から先はな」
ミラの目が少し揺れた。
「今から先……」
「もう無くなった物を戻す力じゃない」
声は穏やかだった。
けれど曖昧にはしなかった。
「残ってるものを守る時間を作る」
ミラは父の手を見る。
それから握り直した。
「分かりました」
エドムが娘の横顔を見ている。
「ミラ」
「何?」
「ミラ」
「うん」
「……いや」
何か言おうとしたらしい。
出てこなかった。
だから名前だけ呼んだ。
少女はまた、
「うん」
と返した。
治療が始まった。
ニナが首筋の最初の箇所へ光を入れる。
灰色の線が細かく震えた。
エドムが顔をしかめる。
「痛みます」
「平気だ」
「無理に強がらなくていいです」
「娘の前だからな」
「聞こえてるよ」
ミラが言う。
「痛かったら痛いって言って」
「厳しいな」
「お父さんが言うこと聞かないから」
その会話の間にも、ニナの指は動く。
一つ目は浅い。
切り離す。
灰色の線が一本消える。
二つ目へ移る。
ここは深い。
記憶と直接繋がっているのではない。
身体の魔力へ根を張り、そこから記憶に干渉している。
根を傷つけず、呪いだけを剥がす。
ニナの額に汗が滲む。
「エドムさん」
「何だ」
「娘さんの名前を言えますか」
男が怪訝そうにする。
「ミラ」
「はい」
助手が記録する。
数十秒後。
「もう一度」
「ミラ」
さらにしばらくして。
「名前は?」
「……ミラ」
少し遅くなった。
娘の指が強くなる。
エドムも握り返した。
「忘れんよ」
「喋らないで」
ミラが言った。
「何だそれ」
「先生が治療してるんだから」
「名前は言わせるだろ」
「聞かれた時だけ!」
「分かった」
そう返した直後、灰色の線が強く脈打った。
エドムの目が揺れる。
ニナは変化を見逃さなかった。
「シャワルさん」
「ああ」
最後が近い。
耳の後ろから伸びていた線が、首筋中央の一点へ集まり始めている。
そこまで繋がれば、呪いは身体の中へ完全に定着する。
シャワルが右手を上げた。
薄い風が治療台へ流れる。
何かを吹き飛ばす力はない。
灰色の紋様が集まろうとする最後の一点へ、薄い膜だけが重なった。
灰色の線は動いている。
途中の侵食も完全には止まらない。
だが最後の一点へ届かない。
「止めた」
ニナは二つ目を切り離す。
「次、最後に入ります」
シャワルから返事はない。
必要もなかった。
ニナは首筋中央へ両手を添えた。
そこには三本目が深く絡んでいる。
引けば身体を傷つける。
弱くすれば逃げる。
前の治療より細かい。
だが、自分の仕事だ。
一つずつほどく。
エドムの呼吸が荒くなる。
「ミラ」
「ここにいるよ」
「ミラ」
「いる」
また少しして。
「……ミラ?」
今度は問いかけるような声だった。
少女の目から、初めて涙が落ちた。
「ここにいるよ」
エドムは娘を見る。
何かを確認するように。
「俺の……」
ミラは答えを教えなかった。
父が続けるのを待った。
「娘だ」
「うん」
「ミラ」
「うん」
ニナは手を止めない。
あと一本。
絡んだ根を少しずつ外す。
助手が呼吸を確認する。
シャワルの風が最後を押さえている。
それぞれが、自分の場所で仕事を続ける。
エドムだけが何度も娘の名前を呼んだ。
「ミラ」
「ここにいる」
「ミラ」
「いるよ」
「ミラ」
「うん」
最後の根が外れた。
ニナはすぐに声を上げる。
「抜きます」
灰色の線を包み、そのまま身体の外へ引き出す。
一度抵抗が返る。
離さない。
もう一度。
細い灰色の光が首筋から抜けた。
同時に、皮膚に残っていた紋様が消える。
「シャワルさん」
老人が風を解いた。
何も起きなかった。
灰色の線は戻らない。
ニナはすぐエドムの状態を確認する。
脈。
呼吸。
魔力の流れ。
安定している。
「終わりました」
ミラが顔を上げる。
「治った?」
「呪いは取りました」
「じゃあ――」
言葉が続かなかった。
ニナにも、その先は分かっている。
どこまで記憶が残ったのか。
それは確認しなければならない。
エドムは疲れたように目を閉じていた。
しばらくして開く。
最初に見たのは天井だった。
次にニナ。
その次に、自分の手を握っている少女。
「……ミラ」
少女が息を詰める。
「うん」
「ここにいたか」
「ずっといた」
「そうか」
ミラが笑った。
涙で顔を濡らしたまま笑った。
「ずっといたよ」
エドムも少し笑った。
「そうか」
今度は、それだけだった。
確認には時間が掛かった。
自分の名前。
覚えている。
年齢。
覚えている。
住んでいる町。
覚えている。
住所。
途中までしか出てこない。
職場の名前。
分からない。
そこで何をしていたか。
仕事の種類は分かる。
一緒に働いていた人間。
数人の名前が出ない。
昨年の出来事。
かなり曖昧。
娘の誕生日。
覚えている。
娘が幼い頃に好きだった食べ物。
覚えている。
亡くなった妻と初めて会った場所。
答えられなかった。
そこでミラが質問を止めた。
「もういい」
「でも確認を――」
エドムが言う。
「今日はもういいよ」
娘は父の手を握った。
「忘れたなら、あとで私が話す」
「お前、覚えてるのか」
「全部じゃないけど」
「そうか」
ミラは少しだけ笑った。
「二人分くらいなら覚えてる」
エドムが娘の頭へ手を伸ばした。
昔からそうしていたのかどうか。
ニナには分からない。
少女は何も言わず、その手を受け入れた。
親子が病室へ移った後、ニナは治療室に残った。
助手が片付けをしている。
シャワルは壁際の椅子へ座っていた。
今日は長時間止めたわけではない。
それでも右手を軽く握ったり開いたりしている。
ニナは記録板を見た。
失われた記憶。
分からない。
それが一番正確だった。
一つずつ全部確認することなどできない。
本人自身、忘れたことを覚えていないのだから。
「全部は戻らなかったな」
シャワルの声がした。
ニナは記録板を下ろす。
「はい」
答えた声が、自分で思ったより小さかった。
「治療は成功です」
「そうだな」
「呪いも残ってません」
「ああ」
「これ以上失うこともないはずです」
「ならよかった」
シャワルは普通に言った。
ニナは少しだけ腹が立った。
「よくないです」
老人が顔を上げる。
「何が」
「忘れてるんですよ」
自分でも、誰に怒っているのか分からなかった。
「職場も。友達も。奥さんとのことも」
「そうだな」
「もっと早く治療できてたら、残ったかもしれない」
「かもしれんな」
「私がもっと早く――」
「いつから治療した」
ニナが口を閉じた。
「治療院へ来てから、すぐです」
「手順を間違えたか」
「いいえ」
「遅くしたか」
「してません」
「なら、君が早くする場所はどこにあった」
答えられない。
なかった。
運び込まれた時には、すでに記憶は失われ始めていた。
自分がそこへ遡ることはできない。
シャワルにもできない。
「全部助けたかったです」
ニナが言う。
シャワルは少し黙った。
「そうか」
「何ですか、その返事」
「そう思うのは悪くないだろ」
慰めるでも、否定するでもなかった。
「でも全部じゃなかった」
「はい」
「だから失敗か?」
ニナは答えられない。
治療は成功した。
呪いは消えた。
患者は生きている。
娘の名前も覚えている。
しかし、無くなったものはある。
どちらも本当だった。
シャワルが立ち上がった。
「全部は戻らなかった」
「……はい」
扉の方を見る。
病室の向こうから、微かに親子の声が聞こえる。
「でも、あの名前は残った」
ニナもそちらを見た。
ついさっきまで、何度も聞いた名前。
ミラ。
忘れまいとしていたのか。
ただ不安で呼んでいたのか。
本人にも分からないだろう。
それでも残った。
「それで十分だって言うんですか」
ニナが尋ねる。
シャワルは首を振った。
「俺には決められん」
意外な答えだった。
「十分かどうかは、あの親子が決めることだ」
ニナは黙る。
「俺なら全部欲しいと言うかもしれん」
シャワルは扉の向こうを見る。
「でも、全部なかったからって、残ったものまで無かったことにする必要もない」
それだけ言って、外套を取った。
ニナは引き止めなかった。
病室の前を通る時、扉が少しだけ開いていた。
中からミラの声が聞こえる。
「じゃあ、家までの道も忘れた?」
「途中から分からん」
「じゃあ私が案内する」
「情けないな」
「いいじゃん。小さい頃はお父さんが連れてったんでしょ」
少し間があった。
「覚えてない」
「私は覚えてるよ」
声は泣いていなかった。
「だから今度は私の番」
シャワルは立ち止まらなかった。
ニナだけが扉の前で少し足を止めた。
それから、また歩き始める。
数日後。
エドムの退院の日。
治療院の玄関で、ミラが父の隣を歩いていた。
エドムは道を覚えていない。
だから娘が先に出る。
「こっち」
「本当か?」
「家と逆に連れてってどうするの」
「お前ならやりそうだ」
「私の何を覚えてるの、それ」
「口が悪い」
ミラが笑う。
「それは合ってる」
二人は並んで歩いていく。
途中、エドムが何か不安になったのか娘を見る。
「ミラ」
少女が振り返った。
「何?」
男は少し考える。
「……いや。呼んだだけだ」
ミラは呆れたような顔をした。
それでも歩幅を少しだけ父へ合わせる。
「いるよ」
その返事を聞いて、エドムは前を向いた。
ニナは治療院の入口から、二人が角を曲がるまで見送った。
全部は戻らなかった。
その事実は消えない。
けれど、娘の名前を呼べる男と、その声に返事をする娘がいる。
今日は、それを救えたものとして覚えておこうと思った。




