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老いぼれ二人

翌朝、シャワルは湯を沸かしている途中で、右手の震えに気づいた。


気づいた、と言っても珍しいことではない。

何もしなくても指先がわずかに揺れる日はある。

昨日のように大きな魔術を使った翌日は、それが少し強く残る。


だから慌てもしなかった。


棚から茶葉の缶を取ろうとして、指先が蓋の縁を一度滑った。


「……面倒だな」


独り言を漏らし、左手で缶を支える。


できないわけではない。


少しやりにくいだけだ。


湯を注ぎ、茶を蒸らす間に居間へ戻る。

机の上には昨夜途中まで読んだ『風見鶏の街道』第八巻が開いたまま伏せずに置いてある。


シャワルは頁を折らない。


途中で眠くなった時も、薄い紙片を栞にして閉じる。


昨夜もそうしたつもりだったが、机の上を見る限り、閉じる前に眠気へ負けたらしい。


「歳だな」


今度は少し笑った。


本を閉じようとしたところで、玄関の扉が叩かれた。


一度目から強い。


二度目はさらに強い。


三度目が来る前に、相手が誰か分かった。


「壊すな」


扉を開ける。


オルドが立っていた。


片手に紙袋。もう片方には新聞と細長い木箱を抱えている。


顔を見るなり言った。


「座れ」


「おはようは」


「あとだ。座れ」


「俺の家だぞ」


「知ってる。だから椅子の場所も知ってる」


シャワルの横を通り抜け、そのまま居間へ入っていく。


シャワルは扉を閉めた。


「何しに来た」


「お前を怒りに」


「朝から暇だな」


「昨日の昇降台の話を聞いた」


そこで理由が分かった。


シャワルは台所へ戻り、もう一つ杯を出した。


「誰から」


「テオ」


「東区の保守班がなぜ荷揚げ場の事故を知ってる」


「お前が最後に供給記録を回せって言ったんだろうが。そこから話が回った」


「ああ」


「『ああ』じゃない」


オルドは椅子へ座り、持ってきた紙袋を机に置いた。


中から固いパンと煮た肉、まだ温かい芋が出てくる。


どう見ても朝食ではなく、二人分の昼食まで入っていた。


「また飯か」


「食ってないだろ」


「今から食う」


「茶だけで済ませる顔してる」


「顔で分かるのか」


「四十年見てる」


言われると反論しにくい。


シャワルは自分の杯とオルドの杯を並べ、茶を注いだ。


右手の震えはまだ残っている。


オルドがそこを見る。


何も言わない。


その沈黙の方が面倒だった。


「見ても治らんぞ」


「昨日、何秒止めた」


「二十九秒くらいだ」


「三十だろ」


「救助が二十九で終わった」


「そういうところだけ細けえな」


「現場の隊長がそう言ってた」


オルドは茶を一口飲んだ。


それから正面からシャワルを見る。


「昔なら、あれくらい五分止めてただろ」


シャワルはパンをちぎる。


「かもしれんな」


「かもしれんじゃねえ」


「昔の話だ」


「だから言ってる」


オルドの声が低くなった。


「もう辞めろ」


部屋の中が少し静かになった。


外では荷車が通り、車輪の音が遠ざかっていく。


シャワルはすぐには答えなかった。


パンを口へ運び、噛んで飲み込む。


「何を」


「現場だよ」


「全部か」


「全部だ」


「嫌だ」


即答すると、オルドの眉間に皺が寄った。


「子供かお前は」


「七十四だ」


「知ってるから言ってんだ」


「なら子供扱いするな」


「昨日、最後は両手で支えてたって聞いたぞ」


「誰がそこまで喋った」


「救難隊の若いの」


「口が軽いな」


「問題そこじゃねえ!」


オルドの声が響く。


机の杯が少し震えた。


シャワルは茶を飲む。


オルドが本気で怒っていることは分かっている。


分かっているから、軽く受け流して終わらせるつもりもなかった。


「五分はいらなかった」


「何?」


「昨日だ」


シャワルは杯を置く。


「三十秒で足りた」


「そういう話をしてない」


「俺はそういう話をしてる」


オルドの顔が固まる。


「昔なら五分止められた。今は五分止められない。それはそうだ」


シャワルは右手を机の上へ置いた。


細かな震えが残っている。


隠すつもりはない。


「でも昨日、必要だったのは五分じゃない。二十九秒だ」


「結果論だろ」


「違う。救難隊が三十秒で出すと決めた」


「途中で失敗してたら」


「もっと必要だった」


「持たなかったかもしれない」


「そうだな」


「だったら!」


「だから、三十秒で出せる奴らが先に準備した」


シャワルの声は大きくない。


ただ、そこで言葉を切った。


昨日の荷揚げ場を思い出す。


グレンはシャワルが来る前から救助線を用意し、技師と重さを確認し、誰をどの順番で上げるか決めていた。


シャワルがやったのは、最後の落下を抑えただけだ。


「昔の俺なら、もっと早く手を出してたかもしれん」


オルドが眉を寄せる。


「何だそりゃ」


「止められるからな」


「今は止められないから待つのか」


「違う」


シャワルは首を振った。


「止める必要がある場所まで待つ」


オルドが黙る。


「昨日の台は、俺が来た時点ではまだ落ちてなかった。技師が状況を見て、救難隊が準備してた。そこで俺が勝手に止め始めたら、その瞬間から俺の消耗が始まる」


「……ああ」


「五分持たせられる時なら、それでも間に合っただろうな」


「今は?」


「無駄な四分半を使うほど余裕はない」


オルドの目がわずかに細くなった。


シャワルは自分の手を見る。


若い頃より弱くなった。


それを言い換える気はない。


魔力を長く維持する力も、身体の回復も落ちている。


朝まで疲れが残ることも増えた。


だが、現場で見てきたものは増えた。


何が壊れる前触れか。


どこまでなら待てるか。


誰が何を準備しているか。


今止めれば時間を浪費するだけなのか。


今止めなければ、本当に最後まで行くのか。


若い頃は力で埋められた部分を、今は判断で削っている。


「五分持たせるより」


シャワルが言う。


「必要な二十九秒を外さない方が、今の俺には大事だ」


オルドはしばらく何も言わなかった。


納得した顔ではない。


ただ、さっきまでとは違う顔になっている。


「格好つけんな」


「つけてない」


「聞こえはいいぞ」


「ならお前の聞き方が悪い」


「やっぱり腹立つな」


少しだけ空気が戻った。


オルドは芋を一つ取り、皮を剥く。


「で、その二十九秒のあとに手ぇ震わせて帰ったわけだ」


「帰ってない。設備確認までいた」


「余計悪い!」


「座ってた」


「誰に言われて」


「グレン」


「その隊長に礼言っとく」


「やめろ。面倒になる」


「お前が面倒なんだ」


オルドは芋を半分に割り、一つをシャワルの皿へ置いた。


乱暴な手つきなのに、ちゃんと大きい方をこちらへ寄越す。


昔からそうだった。


シャワルがそれを指摘したことはない。


オルドも言わない。


「俺はな」


オルドが皮を机の端へまとめながら言う。


「お前が弱くなったから辞めろって言ってるんじゃねえ」


「さっき五分が三十秒になったと言ったぞ」


「そうだよ。でもそれだけじゃねえ」


芋を一口食べる。


少し熱かったのか、顔をしかめた。


「お前が、自分が止められるからって現場に出続けるのが嫌なんだ」


シャワルは視線を上げた。


「どういう意味だ」


「代わりがいないから。呼ばれたから。まだできるから。そうやって全部引き受けて、ある日そこで終わるのが嫌だって言ってんだ」


言葉の最後だけ、少し荒くなった。


シャワルは返事をしなかった。


オルドは若い頃から、こういう話を綺麗に言えない。


心配している、と一言で済ませればいいのに、その前後へ必ず文句が付く。


それでも意味は分かる。


「全部は引き受けてない」


「昨日出た」


「必要だった」


「その前は」


「フィアの治療」


「出てるじゃねえか」


「治療院へ行っただけだ」


「言い訳が細かい!」


シャワルは笑った。


「笑うな」


「悪い」


「全然悪い顔してねえ」


オルドは頭を掻いた。


それから、机に置いていた細長い木箱を引き寄せる。


「これ」


蓋を開ける。


中には、細い金属棒と小さな輪、簡単な測定具が入っていた。


「何だ」


「昔使ってた携帯検査具。倉庫に残ってた」


「まだ動くのか」


「俺が直した」


「暇だな」


「うるせえ」


オルドは金属棒を机の端へ固定する。


先端に小さな輪を掛け、その中央に薄い紙片を垂らした。


「風を通してみろ」


シャワルが眉を上げる。


「俺を検査しに来たのか」


「遊びだ」


「嘘つけ」


「いいからやれ」


シャワルは呆れたが、断らなかった。


昔、現場へ出る前に簡単な制御確認として使われていた道具だ。


紙片へ直接風を当てるのではなく、輪の内側だけに流れを作り、紙を揺らさず向こう側の小さな印を動かす。


力はほとんど要らない。


必要なのは精度だけ。


シャワルは右手を上げる。


わずかな風が生まれた。


紙片は動かない。


その向こうにある細い針だけが、ゆっくり右へ傾く。


オルドが黙って見る。


「もう少し」


「何が」


「右へ」


針がさらに動く。


「戻せ」


中央へ戻る。


「左」


左へ。


「止めろ」


ぴたりと中央で止まった。


紙片は最後までほとんど揺れなかった。


オルドが腕を組む。


「昔より上手いな」


「当たり前だ」


「そこは謙遜しろ」


「なぜ」


「老人らしく」


「お前がやれ」


「俺は魔術師じゃねえ」


「なら黙ってろ」


オルドが笑った。


シャワルも手を下ろす。


右手の震えは消えていない。


それでも風は狙ったところを通った。


若い頃より長くは持たない。


けれど、若い頃より細く使える。


両方とも事実だった。


「だから厄介なんだよ」


オルドが測定具を片付けながら言う。


「何が」


「下手になってりゃ、辞めろで終わる」


「残念だったな」


「ほんとにな」


木箱の蓋が閉じられる。


少しして、オルドがため息をついた。


「完全に辞めろは取り消す」


シャワルは意外に思って顔を見る。


「早いな」


「その代わり条件がある」


「聞くだけ聞く」


「現場へ行くかどうかを、自分一人で決めるな」


「嫌だ」


「即答するな!」


「誰に決めてもらう」


「救難隊でも保守班でもいい。現場の責任者が必要だと言った時だけ入れ」


シャワルは少し考えた。


それは今も、だいたいそうしている。


勝手に危険区域へ飛び込むような仕事はしていない。


ただ、近くにいて必要だと思えば、自分から入ることはある。


「もう一つ」


オルドが続ける。


「終わったら帰れ」


「状態確認は要る」


「専門家がいるなら任せろ」


「場合による」


「そうやって全部場合によるにするな」


「実際そうだろ」


「じゃあ、少なくとも誰か一人に『もう帰っていい』って言われたら帰れ」


シャワルは黙った。


昨日のグレンを思い出す。


座って見てください、と言われた。


もしあの後、「もう帰っていい」と言われていたら。


自分は帰っただろうか。


たぶん、供給魔力の異常を聞くまでは残っていた。


そこから記録を残せと言って、それから帰る。


結局、自分で線を引いていた。


「努力する」


オルドの目が細くなる。


「その返事、前も聞いた」


「便利だからな」


「信用できねえ」


「約束はできん」


「何で」


「本当に俺が必要な時まで帰る気はない」


オルドは口を開きかけた。


シャワルが先に続ける。


「でも、必要じゃない時に残る気もない」


そこでオルドは止まった。


「昔より、その区別はするようになった」


長い沈黙の後、オルドが鼻を鳴らす。


「……それなら、まあ」


「納得したか」


「してねえ」


「してる顔だ」


「してねえ顔だよ」


またいつもの言い合いになった。


食事を終える頃には、右手の震えも朝よりだいぶ小さくなっていた。


午後、二人は近所の市場まで歩いた。


オルドが帰るついでに買い物をするというので、シャワルも本の補修紙を買うことにした。


通りは人が多い。


果物を並べる店。

工具を売る店。

焼いた肉の匂い。

走り回る子供。


シャワルは急がない。


以前なら、人混みの中でも周囲を避けながらもっと速く歩けた。


今はオルドとほぼ同じ速度だ。


途中、オルドが立ち止まる。


「何だ」


「腰」


「老人だな」


「お前に言われたくねえ」


二人で道端の長椅子へ座った。


しばらく休む。


何も喋らない。


長い付き合いになると、沈黙を埋める必要もなくなる。


向かいの店では若い職人が荷物を積んでいた。


一度に持ちすぎて、店主に怒鳴られている。


オルドがそれを見ながら笑った。


「昔のお前なら、あれ見て風で持ち上げてたか?」


「やらん」


「本当か?」


「落とした時に責任取るのが面倒だ」


「そこかよ」


「それに本人が持ててる」


若い職人はふらつきながらも荷物を運び終えた。


店主から「最初から二回に分けろ」とまた怒られている。


シャワルはその様子を眺める。


できるから手を出す。


できないから任せる。


昔はその二つで考えることが多かった。


今は、その間がずいぶん増えた。


自分ができても、他人がやった方がいいこと。


自分ができなくても、ほんの少しだけ手を貸せば届くこと。


今すぐ手を出すより、待った方がいいこと。


待てば本当に終わるから、迷わず手を出すべきこと。


歳を取るというのは、できることが減るだけではなかった。


選ぶものが増える。


それは少し面倒で、悪くない。


「何笑ってる」


オルドが横から聞く。


「笑ってない」


「笑ってた」


「気のせいだ」


「七十四で一人でにやつくな。怖い」


「お前も七十五だ」


「俺は愛想がいい」


「初耳だ」


二人はまた歩き始めた。


夕方。


市場から戻り、玄関前でオルドが荷物を持ち直した。


「次にでかい仕事入ったら言えよ」


「何で」


「見に行く」


「引退したんだろ」


「お前がちゃんと帰るか見る」


「暇だな」


「暇で悪いか」


オルドは数歩進んでから振り返る。


「シャワル」


「何だ」


「三十秒で足りる現場だけにしろよ」


シャワルは少し考えた。


「それは無理だ」


「お前なあ!」


「でも」


オルドが止まる。


「五分必要な現場で、俺が三十秒しか持たないなら、最初から別の方法を考える」


「……ああ」


「昔と同じ仕事の仕方はしない」


今度は、オルドもすぐに文句を言わなかった。


「それ覚えとけよ」


「覚えてる」


「本当に?」


「本よりは忘れるかもしれん」


「そこは逆にしろ」


オルドは呆れながら帰っていった。


シャワルは家へ入る。


居間の机には、朝閉じた第八巻がある。


椅子へ座り、本を開く。


右手にはまだ、ごく小さな震えが残っていた。


頁をめくるには困らない。


一枚めくる。


その一枚に、昔より少しだけ時間が掛かる。


だからどうした、とシャワルは思った。


速くめくる必要などない。


最後へ急ぐ理由もないのだから。


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