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三十秒あれば

「全員、その台から離れろ!」


怒鳴り声が荷揚げ場に響いた。


木箱を運んでいた作業員たちが一斉に後退する。

その直後、建物中央を上下していた大型の搬送台が大きく傾いた。


金属が擦れる嫌な音がした。


床から三階ほどの高さ。


四人の作業員を乗せたまま、四角い台が斜めになって止まっている。


片側を支えていた魔術が消え、残った一方だけで辛うじて吊られていた。


「動くな!」


下から男が叫ぶ。


三十九歳の救難隊長、グレン・ヴァイスだった。


肩幅の広い身体に濃紺の救助服を着ている。声は大きいが、慌ててはいない。


視線だけが忙しく動いていた。


昇降台。

取り残された四人。

上階の通路。

落下した場合の範囲。

救助員。

技師。


必要なものを一つずつ拾っていく。


「怪我人は!」


台の上から作業員が答える。


「一人!足を打ってます!」


「立てるか!」


「無理そうです!」


「残り三人は?」


「動けます!」


グレンはすぐ手を上げた。


「下の作業員、全員退避!落下範囲へ誰も入れるな!上階から救助線を二本下ろせ!」


部下たちが走り出した。


昇降台の管理をしていた技師も、開いた制御箱の前へ膝をついている。


グレンが隣へ移動した。


「状態」


「左の支持が完全に抜けています。右側の保持術だけで吊っている状態です」


「戻せるか」


「人が乗ったままでは無理です。今、再起動を掛けたら右まで落ちます」


「修理は」


「台を空にしてからです」


話している最中にも、上から細かな破片が落ちた。


昇降台が一度沈む。


乗っている男たちが声を上げた。


グレンは振り返る。


「動くな!手すりを握れ!」


「隊長!」


上階へ走った救助員が手すりから身を乗り出す。


「救助線、下ろせます!」


「まだ下ろすだけだ!乗り移らせるな!」


「了解!」


技師が制御箱の奥を覗き込み、顔を強張らせた。


「隊長」


「何だ」


「右も保ちません」


「どのくらい」


「分かりません」


グレンの眉がわずかに動く。


「十秒か。五分か」


「そこまで広いです。残った保持術がもう崩れ始めています」


「落ちる直前に分かるか」


「分かります。ですが、分かってからじゃ遅い」


グレンは短く息を吐いた。


上階と昇降台の距離を見る。


最も高い側なら、通路まで一メートル少々。


救助線を付ければ、立てる三人は上から引き上げられる。


問題は足を負傷した一人だった。


台の低い側で座り込み、柱へしがみついている。


担架を下ろす時間はない。


救助員を一人台へ乗せ、身体を固定し、二人まとめて引き上げるしかない。


だが、人が一人増えれば荷重も増える。


「技師」


「はい」


「一人追加できるか」


「救助員ですか」


「ああ」


技師は昇降台を見上げた。


迷っているのではない。


台の傾きと残っている支持を見ている。


「一人なら。ただし、荷物は動かさないでください」


台には大きな木箱が二つ残っていた。


「軽くするために捨てるのは?」


「駄目です。今の重さで釣り合っている可能性があります。急に片側を軽くすると傾きが変わります」


「分かった。箱には触らせない」


グレンは即座に受け入れた。


「救助員一人、上へ!」


「はい!」


「命綱を二本。一本は本人、一本は負傷者用。台へ降りたら勝手に動かすな。俺の指示を待て」


そこまで準備を進めた時、荷揚げ場の入口から別の声がした。


「グレン隊長!」


振り向いた部下の向こうを、一人の老人が歩いてくる。


灰色の外套。

細身の身体。

こめかみに混じる白髪。


グレンは名前を知っていた。


実際に同じ現場へ立ったことはない。


だが、救難隊に長くいれば知らない方が難しい。


シャワル・ミレイス。


壊れきる寸前の魔術現象だけを、不自然なほど長くそこへ留める老人。


グレンの部下の一人が、ほっとしたような顔をした。


「シャワルさんです」


「見れば分かる」


グレンはそう返したが、自分まで安心するつもりはなかった。


来れば全部何とかなる人間などいない。


そういう考え方をする指揮官は、いずれ部下を殺す。


シャワルは昇降台を見上げた。


「何人」


「四人。三人は動ける。一人は足を負傷」


「下ろせないのか」


技師が答えた。


「片側支持が死んでいます。残りも崩壊中です」


「直すには」


「台を空にする必要があります」


シャワルが次にグレンを見る。


「救助は?」


「上から抜きます」


「何秒」


問い方が妙だった。


何分掛かるかではない。


何秒か。


グレンは一度だけ昇降台を見た。


準備はほぼ終わっている。


救助員は上階に到着。

救助線もある。

負傷者の位置も分かっている。

動ける三人の順番も決められる。


問題は、台が途中で落ちることだけ。


「三十秒」


グレンは答えた。


周囲にいた何人かがこちらを見る。


シャワルだけは表情を変えなかった。


「三十で全員出せるか」


「出します」


「分かった」


それだけだった。


グレンは逆に眉を寄せた。


「持つんですか」


「知らん」


一瞬、言葉が途切れた。


「……知らない?」


「俺は今から、落ちる最後だけを止める」


シャワルは台を見上げた。


「どれだけ押してくるかは、止めてみないと分からん」


「三十秒と言ったでしょう」


「言ったのはお前だ」


グレンが黙る。


確かにそうだった。


「俺に何分持つか聞いてから作戦を作るな」


シャワルは淡々と続けた。


「お前が何秒で終わらせるか決めろ」


グレンは老人の顔を見る。


叱られたとは思わなかった。


現場の役割を確認されただけだ。


シャワルが時間を決めるのではない。


救助側が必要な時間を決め、その時間を作れるか老人が引き受ける。


順番が逆だった。


グレンは上階へ顔を向けた。


「配置確認!」


救助員たちが返事をする。


「一人目、最も高い側!二人目は中央!救助員が台へ降りた後、負傷者を固定!三人目は最後まで動くな!」


台の上から返事が来る。


「分かりました!」


「箱には絶対に触るな!」


「はい!」


「上の二人、引き上げる時に一気に引くな!台が揺れる!」


「了解!」


グレンは全部を確認した。


それからシャワルへ向く。


「準備できました」


「俺もだ」


老人が前へ出る。


昇降台を支えている右側の保持術は、目で見ても分かるほど明滅していた。


灯りが弱くなっているのではない。


崩れている。


魔力の流れが何度も途切れ、最後の細い繋がりだけが台を支えている。


シャワルが右手を上げた。


その指が、ほんの少し震えていることにグレンは気づいた。


老いなのか。


疲労なのか。


考える間に、上から大きな音がした。


保持術の光が一気に薄くなる。


技師が叫んだ。


「来ます!」


シャワルの周囲を風が抜けた。


強風ではない。


服の裾が少し揺れただけだった。


その風が昇降台の右側へ伸びる。


壊れようとしている魔術の最後へ、透明な薄膜が重なった。


一瞬だけ、紙の縁のように白く見える。


保持術は壊れ続けた。


光はさらに弱くなる。


台も軋む。


それでも落ちない。


最後の一線だけが、来ない。


「止めた」


その声と同時に、グレンが腕を振り下ろした。


「開始!」


上階から救助線が伸びる。


最も高い側にいた男が、自分の腰へ留め具を掛けた。


「一人目!」


救助員二人が引く。


男の身体が台を離れ、上階の縁へ届く。


「上がった!」


グレンは時計を見ない。


見る必要はなかった。


救助員の動きと自分の呼吸で、およその時間は分かる。


「二人目!」


中央にいた男が移動する。


台がわずかに揺れた。


技師が叫ぶ。


「ゆっくり! 右へ寄りすぎないで!」


男が足を止める。


一歩だけ位置を直す。


救助線が張る。


二人目が上がる。


「十五秒!」


部下が時間を叫んだ。


半分。


グレンは負傷者を見る。


「降りろ!」


上階から救助員一人が台へ滑り降りる。


増えた重さで昇降台が沈んだ。


シャワルの腕もわずかに下がる。


薄い風が大きく撓んだ。


「シャワルさん!」


技師が思わず声を上げる。


「そっちを見るな」


老人は台から視線を外さない。


「仕事しろ」


技師はすぐに制御箱へ向き直った。


グレンもシャワルを見なかった。


今必要なのは心配ではない。


「負傷者、固定!」


台へ降りた救助員が男の脇へ入り、身体へ救助帯を回す。


「足は触るな!上半身だけ起こせ!」


「了解!」


「三人目、まだ動くな!」


最後に残った作業員は手すりを握り、歯を食いしばっている。


自分だけなら上がれる。


それでも指示を守っていた。


負傷者を先に動かせば重心が変わる。


今はその場所にいてもらう必要がある。


「固定完了!」


「二人まとめて上げろ!」


上階の救助員たちが線を引く。


負傷者と救助員の身体が少しずつ浮いた。


昇降台がまた傾く。


木箱が数センチ滑った。


技師の顔色が変わる。


「箱が動く!」


「触るな!」


グレンが叫んだ。


台に残った作業員が反射的に箱へ手を伸ばしかけ、止める。


木箱は途中で引っ掛かった。


負傷者が上階へ届く。


「二十五秒!」


「最後!」


残った男が救助線を自分へ付ける。


焦って留め具が一度滑った。


「落ち着け!」


グレンの声が飛ぶ。


男が息を吐く。


今度は掛かった。


「引け!」


身体が浮く。


その瞬間だった。


右側の保持術から光が完全に消えた。


魔術としてはもう終わっている。


本来なら台は落ちている。


だが、薄い風だけが最後の部分へ残っていた。


シャワルの右腕が目に見えて震え始める。


左手が右手首を支えた。


「二十八!」


最後の男の手が上階の縁へ届く。


救助員が腕を掴む。


「二十九!」


身体が通路へ転がり込む。


「全員離脱!」


グレンが叫んだ。


シャワルが手を下ろした。


次の瞬間、昇降台が落ちた。


大きな金属音が荷揚げ場全体を揺らす。


床へ叩きつけられた台が跳ね、積まれていた木箱が割れた。


中身が辺りへ散らばる。


誰もその下にはいなかった。


数秒、誰も声を出さなかった。


やがて上階から声が響く。


「四人とも確保! 負傷者も意識あります!」


下にいた救助員たちから一斉に息が漏れた。


グレンもようやく肩の力を抜く。


「治療班、上へ!残りは落下物を確認!技師は設備を完全停止!」


指示を出してから振り返る。


シャワルは少し離れた柱へ手をついていた。


右手がまだ震えている。


グレンはそちらへ歩いた。


「大丈夫ですか」


「その質問、最近よくされる」


「理由があるんでしょう」


「歳だ」


「それだけには見えません」


シャワルは返事をせず、呼吸を整えた。


グレンは老人の右手を見る。


救助中、最後の数秒は明らかに余裕がなかった。


もし救助帯を掛けるのにもう一度失敗していたら。


木箱がもう少し滑っていたら。


自分の見積もりが五秒ずれていたら。


そう考えていると、シャワルが言った。


「三十秒で足りたな」


グレンは顔を上げた。


「ぎりぎりです」


「足りたなら同じだ」


「違います」


「何が」


「二十九秒で終わったからです」


シャワルは一瞬黙った。


それから小さく笑う。


「細かいな」


「現場なので」


どこかで聞いたような返しだったのか、シャワルは少しだけ面白そうな顔をした。


グレンは落ちた昇降台を見る。


「もっと持たせられましたか」


「分からん」


「またそれですか」


「さっきよりはもう少し持ったかもしれん」


「かもしれない」


「ああ」


「駄目だったかもしれない?」


「ああ」


シャワルは平然と答える。


グレンはそこでようやく、この老人の扱い方を少し理解した。


三十秒持つ魔術師ではない。


一分持つ魔術師でもない。


そもそも、保証された時間を渡してくれる人物ではない。


終わるはずだった瞬間へ立ち、可能な限りそこを抑える。


その間に何を終わらせるかは、こちらの仕事なのだ。


「次に同じ現場になったら」


グレンが言う。


「何分持つかは聞きません」


「助かる」


「代わりに、こちらが何秒で終わらせるか先に言います」


シャワルがグレンを見る。


「それでいい」


短い返事だった。


上階から負傷者を運ぶ担架が降りてくる。


足を痛めた男は顔をしかめていたが、意識ははっきりしている。


その後ろを、自分で歩ける三人が続いた。


最後まで台に残っていた男がシャワルを見つけ、頭を下げようとした。


「あとにしろ」


シャワルが先に言った。


「まず治療と確認だ」


「でも――」


「俺は帰らん。礼ならあとでも言える」


男は少し迷ってから頷いた。


治療班の方へ向かう。


グレンはその背中を見送った。


「帰らないんですね」


「設備が完全に死んだか見るまでな」


「さっき柱につかまってた人が?」


「立つのと見るのは別だ」


「座って見てください」


シャワルがグレンを見る。


「命令か」


「救難現場では」


「俺は隊員じゃない」


「でも倒れたら救助対象です」


シャワルは数秒黙った。


近くの木箱へ腰を下ろす。


「面倒な隊長だな」


「よく言われます」


「なら直す気はないか」


「ありません」


今度はシャワルがはっきり笑った。


しばらくして、技師が完全停止を確認した。


落下した昇降台は使い物にならない。


修理ではなく、大部分を交換することになるだろう。


それでも人は全員出た。


グレンが現場を引き継いでいる間、シャワルは壊れた支持部を少し離れた場所から眺めていた。


技師が近づく。


「シャワルさん」


「何だ」


「少し気になることがあります」


「言え」


「左側が抜けた原因なんですが」


技師は壊れた設備を見る。


「部品そのものの破損だけじゃないかもしれません」


グレンも会話へ加わった。


「どういう意味だ」


「故障する直前、供給魔力が一度落ちています」


シャワルの目がわずかに細くなる。


「何秒」


「ほんの二、三秒です。すぐ戻りました」


数日前、東区の地下で感じたものとよく似ている。


魔力が暴れず。


漏れず。


ただ、一度だけ消える。


シャワルはすぐに結論を出さなかった。


「記録を残せ」


「はい」


「保守班にも回せ。時間も正確にな」


グレンが尋ねる。


「何か知ってるんですか」


「まだ知らん」


「まだ?」


「似たものを一度見た」


シャワルはそれ以上言わなかった。


分からない段階で、不安だけを増やす必要はない。


今は記録を残す。


調べる人間へ渡す。


それで十分だった。


グレンも追及しなかった。


代わりに部下へ声を掛ける。


「事故発生前の供給記録も全部確保。技師の報告と一緒に残せ」


「了解!」


シャワルが横を見る。


「仕事が早いな」


グレンは落下した昇降台を見ながら答えた。


「三十秒しかないかもしれませんから」


その言葉に、シャワルは何も返さなかった。


ただ少しだけ口元を上げた。


次に同じ現場へ立つことがあれば、この男はきっと、自分が何秒必要なのかを先に決めている。


それなら止める側としても、ずいぶん仕事がしやすい。


壊れた昇降台の横では、もう次の仕事が始まっていた。


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