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終わりたがっている風

「曲がってる」


「曲がってない」


「右が下がってる」


「お前の家の壁が曲がってるんだ」


「人の家のせいにするな」


「だったら最初から真っ直ぐ建てろ」


昼前から、シャワルの家には木を削る音が響いていた。


地下へ続く階段の壁には、新しい手すりが取り付けられかけている。


作業をしているのはオルドだった。


数日前に勝手に寸法を測り、今日になって本当に材料を持ってきた。

頼んでいないと言っても聞かず、今では工具を広げて自分の家のように作業している。


シャワルは階段の上から、その手元を眺めていた。


「もう少し上じゃないか」


「使う奴が言うなら今言え。付けてから文句を言ったら殴る」


「老人を殴るな」


「俺も老人だ」


オルドは一度立ち上がり、壁へ仮留めした手すりを自分で握った。


次にシャワルへ顎をしゃくる。


「試せ」


「まだ付いてないだろ」


「高さだけ見ろ」


シャワルは階段を二段下り、右手を添えた。


肩を上げなくても届く。


膝を曲げる時にも邪魔にならない。


「悪くない」


「ならそこで決まりだ」


「最初からそこだっただろ」


「お前が文句を言うから確認したんだよ」


オルドは再びしゃがみ込む。


昔、大型の魔術設備を相手にしていた技師が、今は友人の家の手すりへ真剣な顔で印を付けている。


シャワルが笑うと、すぐ睨まれた。


「何だ」


「いや」


「言え」


「人が階段から落ちないようにする仕事は大事なんだろ」


オルドの手が止まった。


数日前、自分が言ったことを覚えていたらしい。


「そうだよ」


「なら邪魔しない」


「最初からそうしろ」


また木を削る音が始まった。


その直後、玄関の扉が強く叩かれた。


二人ともそちらを見る。


一度。


二度。


少し間が空いて、もう一度。


「客だぞ」


「俺の家だ」


「知ってる」


シャワルが玄関へ向かった。


扉を開けると、作業着姿の男が立っていた。


三十代半ばほどだろう。短い茶髪の額に汗が浮かび、腰には点検用の工具袋を下げている。


シャワルの顔を見るなり、少し戸惑った。


「すみません。オルド・ヴァレンさんはこちらにいると聞いて」


「いる」


奥から本人の声が飛んできた。


「誰だ?」


男が声を張る。


「テオです! 東区保守班の!」


「ああ?」


足音が近づき、オルドが廊下へ顔を出す。


テオを見ると眉を上げた。


「お前、今日勤務だろ」


「勤務だから来たんです」


「俺は退職した」


「相談だけです」


「その言葉で何回呼び出されたと思ってる」


「三回です」


「数えてるならやめろ」


テオは困ったように笑った。


それでも帰る様子はない。


オルドも追い返す様子はなかった。


「何だ」


「共同導路です。この先の東三番路」


オルドの表情が少し変わった。


仕事の顔になる。


「何が出た」


「朝から魔力が落ちます」


「どれくらい」


「一息か二息ですぐ戻るんですが、今朝から四回。街灯と給水側で同時に出ました」


「保守板は見たか」


「最初に」


「分配側は」


「見ました。接続も交換してます」


「圧は」


「正常です」


「熱」


「出てません」


「漏れは」


「見つかってません」


オルドが黙った。


シャワルは二人のやり取りを聞いていた。


テオは何もせず昔の技師へ泣きつきに来たわけではない。


調べるべきところはすでに調べている。


それでも原因が見つからなかったのだろう。


「現役の責任者は何て言ってる」


「危険値じゃないので、今日中に周辺を再点検です。ただ、古い区間だから、オルドさんなら何か知ってるかもしれないって」


「誰が言った」


「班長です」


「あとで文句言っとけ」


「自分で言ってください」


「俺は退職した」


「便利ですね、それ」


オルドが鼻を鳴らした。


それから階段に置いた工具を見る。


手すりはまだ半分しか付いていない。


「十分で済むか?」


「見るだけなら」


「その言葉も信用ならん」


「でも近いです」


オルドはシャワルを見る。


「続きは帰ってからだ」


「別に明日でもいいぞ」


「途中で放っとく方が気持ち悪い」


工具をまとめ始める。


シャワルも上着を取りに行こうとした。


「お前は留守番だ」


「なぜ」


「お前の家だから」


「理由になってない」


「手すりの依頼主だから」


「頼んでない」


「なら余計についてくる理由がない」


シャワルは外套を羽織った。


オルドが露骨に嫌そうな顔をする。


「来る気か」


「散歩だ」


「東三番路まで?」


「近いんだろ」


テオが二人を交互に見る。


「シャワル・ミレイスさんですよね」


「そうだ」


「あの、来ていただけるなら保守班としては助かります」


オルドがテオを睨んだ。


「余計なこと言うな」


「でも魔力の異常なら――」


「こいつは昨日今日も働いてんだ」


「昨日は働いてない」


シャワルが訂正する。


「一昨日もだ」


「そういう問題じゃない」


「見るだけだ」


オルドはしばらくシャワルの顔を見た。


最終的には諦めたらしい。


「変だったらすぐ帰るぞ」


「何が」


「お前が」


「設備じゃないのか」


「両方だ」


三人で家を出た。


東三番路は、シャワルの家から歩いて十分ほどの場所にあった。


商店と住宅が混じる通りで、昼時ということもあって人通りは多い。


見た限りでは何も起きていない。


店先の照明も点いている。


水場では桶へ普通に水が落ちている。


通りの一角だけが柵で囲まれ、その内側に地下へ下りる点検口が開いていた。


保守班の二人が待っている。


テオが戻ると、一人がすぐに声を掛けた。


「また出ました」


「何回目?」


「五回目。さっきより少し長い」


テオの表情が引き締まる。


「街灯側だけ?」


「いや。水も」


オルドがしゃがみ込み、点検口を覗いた。


「同じ瞬間か」


「ほぼ」


「記録は」


「取ってあります」


「よし」


オルドはそこで初めて、シャワルを振り返った。


「下りるか?」


「そのために来た」


「散歩じゃなかったのか」


「途中で目的が変わった」


「便利だなお前も」


地下へ続く階段は十数段ほどだった。


狭いが、人が作業するには十分な幅がある。


壁沿いにいくつかの魔術設備が並んでいるが、シャワルは一つ一つを見るようなことはしなかった。


必要なのは、この場所が町へ魔力を送る途中にあること。


そして今、その流れが時々途切れていること。


それだけ分かればいい。


オルドは先に下り、壁際へ寄った。


テオから記録板を受け取る。


数字を何度か追ったあと、指で一箇所を叩いた。


「落ちる前に上がってないな」


「はい」


「なら過負荷じゃない」


「自分たちもそう見ています」


「圧も普通」


「ずっとです」


オルドは記録板を返した。


「お前らの見方で合ってると思う」


テオの顔に安堵は出なかった。


原因が分からないということでもある。


「なら、何で落ちるんでしょう」


「それを今から見るんだろ」


オルドは壁際を調べ始めた。


古い設備だからといって、いきなり叩いたり開いたりはしない。


表面の熱を確かめ、異音を聞き、接続された箇所を順番に見る。


テオたちも反対側から確認する。


シャワルは少し離れた位置に立った。


手を出さない。


今ここで必要なのは技師の仕事だ。


自分は技師ではない。


数分後、オルドが腰を伸ばした。


「少なくとも、ここで割れてる感じはしないな」


「ですよね」


「嬉しそうにするな。分からんってことだ」


「はい……」


シャワルは壁へ近づいた。


手を触れず、その前へ右手をかざす。


「何する」


オルドが尋ねる。


「風を通す」


「中には入れるなよ」


「分かってる」


設備そのものへ風を押し込むことはしない。


狭い通路に薄い流れを作る。


壁を撫で、継ぎ目を通り、床際を抜ける風。


その流れへ、周囲から漏れるわずかな魔力の気配が混じる。


正常な設備でも、完全に何も外へ出ないわけではない。


熱。

振動。

魔力。


長く現場にいれば、それぞれに癖があることが分かる。


シャワルは目を閉じた。


右から来る流れ。


左へ抜ける流れ。


上の通りへ散る空気。


異常な熱はない。


魔力が吹き出している場所もない。


「どうです?」


テオの声に、シャワルは首を振った。


「まだ分からん」


老人が何でも一目で見抜くと思っていたのか、テオが少し意外そうな顔をした。


オルドが笑う。


「そんな便利な爺じゃねえよ」


「お前も爺だろ」


「俺は技師だ」


「元だ」


「黙れ」


いつもの調子で言い合っている最中だった。


通路の灯りが一瞬だけ弱くなった。


三人の声が止まる。


空気の中にあった低い振動が消えた。


ほんの二秒ほど。


すぐに灯りが戻る。


テオが記録板を見る。


「今のです」


シャワルは返事をしなかった。


目を閉じたまま、さっき通した風の感触を追う。


変だった。


力が漏れた感じがない。


普通、どこかが壊れれば、流れていたものは行き場を失う。


ぶつかる。


漏れる。


別の方向へ逃げる。


何かしら余計な動きが出る。


今の二秒には、それがなかった。


魔力は暴れなかった。


押し戻されてもいない。


まるで、そこまで続いていた流れそのものが一度きれいに途切れ、それから何事もなかったように再び繋がった。


シャワルは目を開けた。


「もう一回、同じのを待つ」


テオが時計を見る。


「間隔はばらばらです。十分後かもしれないし、一時間出ないかもしれません」


「なら一時間待つ」


オルドが横を見る。


「散歩の割に長くなったな」


「途中で目的が変わった」


「二回目だぞ」


シャワルは壁へ背を預けた。


結局、次の異常は二十分ほどで来た。


その間にテオたちは別の接続も確認した。


一人が地上と連絡を取り、別の通りでも同じ瞬間に灯りが弱くなっていないか確認する。


全員がそれぞれ仕事をしていた。


シャワルだけが、薄い風を通路の中へ流し続ける。


そして二度目。


低い振動が消えた。


今度は三秒ほど。


シャワルは流れの始まりと終わりを追った。


ここではない。


少なくとも、この区画だけの異常ではない。


「テオ」


「はい」


「この先、どこへ繋がる」


「二つに分かれます。片方が住宅側、もう片方が商店街。その手前は東区の主線です」


「落ちた時、両方止まったな」


「はい」


「なら枝の故障じゃない」


テオの表情が変わる。


「主線ですか?」


「まだ決めるな」


オルドがすぐに挟んだ。


「上流で同じ落ち方をしてるか確認してからだ」


「はい」


「一箇所見ただけで町中掘り返すなよ」


テオは頷き、地上にいる仲間へ伝えるため階段へ向かった。


シャワルはその背中を見送る。


オルドが隣へ来た。


「お前は何を見た」


「流れが消えた」


「そりゃ見れば分かる」


「違う」


シャワルは壁を見る。


「壊れて消えた感じがしない」


オルドの眉が寄る。


「どういう意味だ」


「普通、割れればどこかへ逃げる。詰まれば手前に溜まる。切れれば端で乱れる」


「今回は?」


「何もない」


「急に無くなる?」


「ああ」


オルドはしばらく考え込んだ。


自分の専門へ引き寄せて考えているのだろう。


「供給側が止めてる可能性は」


「ある」


「中央制御の誤作動」


「それもある」


「なら調べればいい」


「そうだな」


オルドの答えは現実的だった。


分からないなら、分かる範囲を広げるしかない。


シャワルもそれ以上を断定するつもりはなかった。


「今日ここで止める物はないな?」


オルドが尋ねる。


シャワルは周囲の流れをもう一度確かめた。


完全に崩れようとしている魔術はない。


亀裂もない。


暴発もない。


今すぐ誰かが逃げなければならない状態ではなかった。


「ない」


「なら俺らがここに立ってても仕方ない」


「そうだな」


「現役に任せるぞ」


「ああ」


二人で階段を上がる。


地上ではテオが別班と話していた。


こちらを見ると駆け寄ってくる。


「上流側でも同時刻に落ちてました」


オルドが表情を引き締める。


「どこまで」


「今確認できたのは東区の主線までです」


「責任者へ上げろ。今日の局所点検だけで終わらせるな」


「もう伝えました。主線側も調べます」


「ならいい」


テオは次にシャワルを見る。


「危険なんでしょうか」


シャワルはすぐには答えなかった。


怖がらせるために曖昧なことを言うつもりはない。


安全だと決めつける材料もない。


「今すぐ壊れるとは思わん」


テオの肩が少しだけ下がる。


「ただ、原因は見つけろ」


「はい」


「壊れてないから放っていい異常でもない」


今度の返事は、さっきより強かった。


「分かりました」


テオは保守班へ戻っていく。


オルドとシャワルは柵の外へ出た。


帰り道。


町はいつも通りだった。


店先では客引きの声がする。


共同水場では子供が桶から水を零し、母親に怒られている。


街灯は昼なので目立たない。


誰も、地下で数秒だけ魔力が途切れたことなど気にしていない。


それでいい。


今は保守をする者が気にすればいい。


しばらく歩いてから、オルドが口を開いた。


「結局、壊れるのか」


「まだ分からん」


「さっきは今すぐ壊れないって言っただろ」


「今すぐはな」


「嫌な言い方するな」


シャワルは足を止めた。


通りの端にある街灯の柱へ目を向ける。


昼間でも中にはわずかに魔力が流れている。


今は正常だ。


きちんと動いている。


だからこそ、さっきの三秒が気に掛かった。


オルドも立ち止まる。


「何だ」


「昔、壊れる設備を何度も見ただろ」


「お前よりは直した」


「壊れる前は、どんな音がした」


オルドは怪訝な顔をした。


「物による」


「そうだな」


「軋むのもある。圧が逃げるのもある。魔力が跳ねるのもある」


「さっきのはどれだった」


返事がない。


オルドの顔から、少しずつ冗談が消えた。


「……どれでもないな」


「ああ」


「だから気になるのか」


シャワルは頷いた。


「壊れる物の音じゃない」


オルドが眉を寄せる。


「じゃあ何だ」


シャワルは少し考えた。


正しい言葉かどうかは分からない。


ただ、自分の手に残っている感触へ一番近い言い方だった。


「終わろうとしてる物の音だ」


オルドは数秒黙った。


「お前、それ人前で言うなよ」


「なぜ」


「気持ち悪いからだ」


「俺もそう思う」


「じゃあもっと普通に言え」


「普通の言い方が分からん」


「七十四年生きて何やってんだ」


二人はまた歩き始めた。


けれど、今度はオルドも何も笑わなかった。


家へ戻ると、地下階段の手すりは朝と同じところで止まっていた。


オルドは外した上着を椅子へ掛けると、何事もなかったように工具を取り出す。


「まだやるのか」


「途中だろ」


「明日でもいい」


「今日終わる」


「疲れてないのか」


「お前ほどじゃない」


作業が再開された。


穴を開け、支えを固定し、最後に手すりを強く引いて確かめる。


オルドは自分の体重を少し預けても動かないことを確認すると、ようやく手を離した。


「よし」


シャワルも握ってみる。


朝よりしっかりしている。


「終わったな」


「ああ」


オルドは満足そうに工具を片付けた。


シャワルは新しい手すりへ手を置いたまま、少しだけ笑った。


「これは終わっていい」


オルドが振り返る。


「当たり前だ。手すりを永遠に作らされてたまるか」


「そうだな」


地下の金庫には、最後まで開かない本が一冊ある。


今日、町の地下で聞いたものは、それとはまったく違う。


開かないと自分で決めているものではない。


まだ動くはずのものが、ほんの数秒だけ、自分から役目を終えたように静かになった。


シャワルはその違いだけを覚えておくことにした。


今はまだ、止めるものは何もない。


だから、止めなかった。


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