風見鶏の街道
シャワルの家の扉を叩く音は、昼食を終えて本を開いた直後に聞こえた。
三度。少し間を置いて、さらに二度。
オルドなら最初からもっと遠慮がない。そう考えながら椅子を立ち、玄関へ向かう。
扉を開けると、見覚えのある少女が紙袋を胸に抱えて立っていた。
「おじいさん、こんにちは」
シャワルは無言で少女の左腕を見た。
袖口から出た手の色は普通だ。
黒い紋様もない。顔色も悪くない。
先日まで治療院の寝台にいたとは思えないほど、目にも力が戻っている。
「名前は覚えなかったのか」
「覚えてるよ。シャワルさん」
「なら最初からそう呼べ」
「だって、おじいさんなのも本当でしょ」
後ろに立っていた母親が慌てて娘の肩へ手を置いた。
「フィア!」
「事実ではある」
「シャワルさんまで……」
母親は困ったように眉を下げ、それから深く頭を下げた。
「突然すみません。どうしても本人がお礼を言いたいと聞かなくて」
「昨日まで治療院にいた子供を連れ回していいのか」
「昨日じゃないよ。退院したの、一昨日」
フィアがすぐ訂正する。
「走るな、重い物を持つな、疲れたら休む。ニナ先生に全部言われた」
「守ってるのか」
「今は」
「今だけか」
「帰りも守る」
母親が横からため息をついた。
「朝からずっとこの調子です」
「元気ならいい」
シャワルは身体をずらし、二人を中へ入れた。
フィアは靴を脱ぐなり家の中を見回した。
前に会ったのは治療室だけで、家へ来るのは初めてだ。
廊下には特別な飾りもなく、魔術師らしい道具もほとんど見当たらない。
そのことが意外だったらしい。
「もっとすごいの置いてると思ってた」
「何を」
「魔術の道具とか。光ってる石とか。勝手に動く時計とか」
「時計ならそこにある」
壁の時計を指す。
「普通のだ」
「普通だね」
「時間が分かればいい」
フィアはあからさまにつまらなそうな顔をした。
シャワルは笑いそうになりながら、二人を居間へ通した。
母親が持ってきた紙袋には、小さな焼き菓子が入っていた。
「本当に大した物ではないんですが」
「礼なら治療院で聞いた」
「これはわたしの」
フィアが袋を机へ押し出した。
「お母さんが焼いたけど、選んだのはわたし」
「そこは胸を張るところか?」
「一番おいしいの選んだ」
「なら大事だな」
フィアが満足そうに頷いた。
シャワルは茶を淹れ、三人で机を囲んだ。
しばらくは治療後の話になった。
痛みはほとんどないこと。
夜になると少し腕が重く感じること。
ニナから、しばらくは一人で遠出しないよう言われていること。
シャワルは専門家ではないので、余計な口は挟まなかった。
「ニナがいいと言うまで言うことを聞け」
「シャワルさんも人のこと言えないって、ニナ先生が言ってたよ」
茶を飲もうとしていた手が止まる。
「何の話だ」
「無理するから見張ってくださいって、お母さんに」
「余計なことを」
母親が申し訳なさそうに笑った。
「かなり念を押されました」
「俺は患者じゃない」
「でも、この前すごく疲れてた」
フィアがじっと見る。
「手、震えてたよね」
思ったよりよく見ている。
シャワルは杯を置いた。
「歳を取れば少しくらい震える」
「魔術使った時はもっとだった」
「それでも止められた」
「うん」
フィアは少し考えてから笑った。
「じゃあ、ちゃんと仕事できたね」
治療室で自分に言われた言葉を返したらしい。
シャワルも口元を緩めた。
「そうだな」
話が途切れたところで、フィアの視線が本棚へ向かった。
家へ入った時から何度か見ていたが、今度は椅子から身を乗り出すほどだった。
「本、いっぱいある」
「見れば分かる」
「読んでいい?」
「どれを」
「見るだけ」
「なら手を洗ってこい」
フィアはすぐ立ち上がった。
「そこまで?」
「焼き菓子食った手で触るな」
「あ、そっか」
納得すると素直だった。
母親が「走らない」と声を掛け、フィアは途中で歩幅を小さくする。
戻ってきた少女は、今度こそ慎重に本棚の前へ立った。
魔術理論の本や古い事故記録、旅行記が並び、その中には料理本が一冊だけ混じっている。
その中で、一段だけ同じ装丁の本が並んでいた。
一巻から十一巻。
どれもかなり傷んでいる。
「これ、すごい古い」
「俺よりは若い」
「でもぼろぼろ」
「読んだからな」
「何回?」
「覚えてない」
「十回?」
「もっと」
「二十?」
「もっとだろうな」
「五十?」
シャワルは少し考えた。
「たぶん」
フィアが振り返る。
「そんなに同じ本読むの?」
「読む」
「内容変わらないよ」
「変わらん」
「じゃあ何で?」
シャワルは第五巻へ手を伸ばした。
背表紙はつい先日直したばかりで、糸はきれいに馴染んでいる。
「書いてあることは変わらんが、読む方は変わる」
「読む方?」
「昔は嫌いだった奴が、今読むとそうでもなかったりする。逆もある」
フィアはよく分からない顔をした。
「本は同じなのに?」
「俺が同じじゃないからな」
「今のおじいさんと、昔のおじいさん?」
「昔からおじいさんだったみたいに言うな」
母親が堪えきれず笑った。
フィアも笑いながら、棚へ顔を戻す。
「なんて本?」
「『風見鶏の街道』」
「知らない」
「別に珍しくない」
「有名じゃないの?」
「昔はそれなりに売れたらしい。今も図書館へ行けばあるだろ」
「魔術の本?」
「違う」
「冒険?」
「少しは」
「戦う?」
「たまに」
「何する話?」
質問が途切れない。
シャワルは椅子へ戻りながら答えた。
「何人かで町を渡り歩く。仕事して金を稼いで、喧嘩して、誰かを助けて、失敗して、また次へ行く」
「魔王とかは?」
「いない」
「世界を救う?」
「救わん」
「すごい宝物は?」
「たぶんない」
フィアが眉を寄せた。
「普通だね」
「普通だな」
「それを五十回以上読んだの?」
「悪いか」
「悪くないけど……もっとすごい話が好きなのかと思ってた」
「何で」
「シャワルさんがすごい魔術使うから」
その結びつけ方がおかしくて、シャワルは笑った。
「仕事で使う魔術と、好きな本に何の関係がある」
「あると思ったのに」
「残念だったな」
フィアはまだ納得していない様子だったが、すぐ別のものへ興味を移した。
第二巻を少し引き出す。
「これ見てもいい?」
「落とすなよ」
両手で持つように言うと、フィアは慎重に本を抜いた。
古い表紙を撫で、途中に挟まれた挿絵を探す。何枚目かで手が止まった。
旅装の若者たちが街道沿いに並んでいる絵だった。
その端に、濃い色の髪を後ろで束ねた女性が描かれている。
「この人?」
フィアが指を近づける。
「触るなら端にしろ」
「分かった。この人、誰?」
シャワルは挿絵を見る。
何十年も見てきた絵だった。
「セルマ・フィルン」
「仲間?」
「途中からな」
「強い?」
「弱くはない」
「魔術師?」
「違う」
「じゃあ何が得意?」
シャワルは少し考えた。
セルマを一言で説明するのは難しい。
剣が使えて、荷物を運べる。旅慣れていて、仕事もそれなりにこなす。
けれど、どれも彼女を好きになった理由そのものではない。
「困ってる奴を見ると、先に身体が動く」
「助ける人?」
「だいたいな」
「シャワルさんみたい」
「似てない」
シャワルは考える間もなく即答した。
フィアが目を丸くする。
「そんなに?」
「俺はまず状況を見る。あいつは見ながら走る」
「危ないじゃん」
「危ない」
「怒られる?」
「よく怒られる」
シャワルは本の中の場面を思い出しながら、少しずつ話した。
怪我をしているのに別の負傷者を背負おうとする。
重い荷物を勝手に持つ。
腹が立つと口が悪くなる。
短気で、頑固で、素直に謝れない時もある。
フィアが途中から笑い出した。
「いいところ全然言わないね」
「言ってる」
「どこが?」
「人を背負う」
「怪我してるのに?」
「そこは悪いところだ」
「じゃあやっぱり」
「料理も下手だ」
「増えた!」
母親まで笑っている。
シャワル自身も、いつの間にかかなり話していた。
フィアが挿絵へ視線を戻す。
「でも好きなんでしょ?」
「ああ」
返事はすぐに出た。
フィアがにやりとする。
「結婚したいくらい?」
「いや」
「え?」
「したくない」
「好きなのに?」
「好きだな」
「じゃあ恋人になりたい?」
「ならん」
「なんで?」
フィアの顔から冗談っぽさが消えた。
本当に分からないらしい。
十一歳なら当然かもしれない。
シャワルは少し考えた。
難しく言う必要はない。
「俺がそばにいなくても、幸せならそれでいいと思える人だからだ」
フィアは瞬いた。
「……それ、好きなの?」
「俺はそう呼んでる」
「会いたくないの?」
「会えん。そもそも本の中の人だ」
「そうじゃなくて。もし本当の人だったら」
思ったより面倒なところまで来た。
シャワルは腕を組む。
「会えたら嬉しいかもしれん」
「ほら」
「でも俺のところへ来いとは思わん」
「なんで?」
「セルマにはセルマの行きたい場所があるだろ」
「でも、好きなら一緒にいたくならない?」
「なることもあるだろうな」
「じゃあ」
「一緒にいたいことと、相手に幸せでいてほしいことは同じじゃない」
フィアが黙った。
母親も口を挟まず、娘の横顔を見ている。
シャワルは無理に理解させる気はなかった。
自分でも、子供の頃からそう考えていたわけではない。
「分からない」
フィアが正直に言った。
「そうか」
「もっと、好きって、一緒にいたいとか、結婚したいとかだと思ってた」
「それも好きだろ」
「シャワルさんのは違うの?」
「少し違うんじゃないか」
「変なの」
「そうだな」
否定されなかったので、フィアが困った顔をした。
シャワルは挿絵のセルマを見る。
「別に正しい答えじゃない。俺がそう思ってるだけだ」
「セルマさんは知ってる?」
「何を」
「シャワルさんが好きなこと」
「知るわけないだろ」
「本の人だもんね」
「俺はあいつの人生にいない」
それを言っても、寂しいとは思わなかった。
初めからそうなのだから。
セルマが物語のどこかで笑っているなら、自分がその場に存在する必要などない。
フィアはしばらく挿絵を眺めていた。
やがて頁を戻し、第二巻を閉じる。
「読んでみようかな」
「そうか」
「これ貸して」
「嫌だ」
あまりに早い拒否に、フィアが口を開けた。
「なんで!?」
「古いから持ち歩かせたくない」
「さっき読んでいいって言ったじゃん」
「ここで読むならいい」
「ずるい」
「図書館で借りろ。新しい版がある」
「自分は古いの読んでるのに?」
「俺のだからな」
フィアは本を棚へ戻しながら唇を尖らせた。
「じゃあ図書館行く」
「そうしろ」
「一巻から?」
「好きなところからでもいいが、初めてなら一巻から読め」
「十二巻あるんだよね?」
シャワルの手が茶の杯へ伸びたところで止まった。
棚に並んでいるのは十一冊だ。
フィアも数えて気づいたらしい。
「十一までしかない」
「十二もある」
「どこ?」
「しまってある」
「なんで?」
「開かないから」
フィアが振り返る。
「読んでないの?」
「読んでない」
「五十回も読んでるのに、最後だけ?」
「そうだ」
「なんで?」
オルドに聞かれたのと同じ問いだった。
けれど、相手は十一歳だ。
シャワルは少しだけ言葉を選ぶ。
「読んだら、そこで俺の中でも最後になるからだ」
フィアの眉が寄る。
「本はもう終わってるんでしょ?」
「終わってる。作者はちゃんと十二巻を書いた」
「じゃあ最後あるじゃん」
「ある」
「でも読まない?」
「読まん」
「変なの」
今日二度目だった。
「知ってる」
「セルマさんがどうなるかも知らないの?」
「ああ」
「死んじゃうかもしれないよ」
「そうかもしれん」
「すっごく幸せになるかもしれない」
「それもある」
「気にならない?」
「気になる」
「じゃあ読めばいいのに!」
シャワルは笑った。
「嫌だ」
フィアは完全に理解できない顔をした。
それでいい。分からないものを、今ここで分からせる必要はない。
「フィア」
母親が時計を見る。
「そろそろ帰りましょう。長く歩かない約束だったでしょう」
「まだ平気」
「平気なうちに帰るの」
ニナの指示を出されると、フィアは渋々頷いた。
玄関へ向かう前に、もう一度『風見鶏の街道』の棚を見る。
「図書館に十二巻もある?」
「ある」
「借りてもいい?」
「俺に聞くな」
「シャワルさんは読まないのに?」
「お前まで読まない理由はないだろ」
「最後まで?」
「好きにしろ」
フィアは少し考え、それから笑った。
「じゃあ十二まで読む」
「そうか」
「面白かったら教える」
「感想はいい。最後の内容だけ言うな」
「分かった」
「本当に分かってるか?」
「言わないって」
靴を履き終えたフィアが立ち上がる。
「でも、セルマさん好きになるかは分かんないよ」
「別に好きにならなくていい」
「え?」
「お前が誰を好きになるかは、お前が決めろ」
フィアはしばらくシャワルを見ていた。
それから、少し嬉しそうに頷いた。
「うん」
母親と一緒に外へ出る。
数歩進んだところで、フィアが振り返った。
「シャワルさん!」
「何だ」
「焼き菓子、一番丸いのがおいしいから!」
「先に言え」
「残しておいてね!」
「帰れ」
笑い声を残して、少女は母親と通りを歩いていった。
走らずに歩いている。
少なくとも今は、ニナとの約束を守っているらしい。
シャワルは姿が角を曲がるまで見てから扉を閉めた。
居間へ戻ると、机の上にはフィアが持ってきた焼き菓子と、途中まで冷めた茶が残っていた。
本棚の第二巻は、きちんと元の位置へ戻されている。
シャワルはそれを一度確認し、自分の椅子へ座った。
読みかけだった第五巻を開こうとして、少し迷う。
結局、第二巻へ手を伸ばした。
フィアが見ていた挿絵の頁を開く。
若い頃から何度も見たセルマが、同じ場所に立っている。
短気で、頑固で、料理が下手で、人を見ると勝手に助けに行く女。
「いいところも言ったんだがな」
誰もいない部屋で呟く。
もちろん返事はない。シャワルは少し笑って、その頁から続きを読み始めた。
一方、十二巻は今日も地下にある。
それは開かなくていい。
けれど一巻は、明日には別の誰かの手で開かれるかもしれなかった。




