助けたのは誰か
フィアが眠っている間に、ニナは三度礼を言われた。
最初は母親からだった。
「本当に、本当にありがとうございました」
両手を握られ、何度も頭を下げられた。
二度目は治療院の受付で、フィアを運び込んだ男からだった。
「先生が助けてくれたって聞きました」
三度目は、夕方になって治療記録を受け取りに来た院長からだった。
「よく間に合わせたね」
どれも嬉しくないわけではなかった。
治療は成功した。
少女は生きている。
黒い紋様も残っていない。
それはニナが自分の手で確かめたことだった。
それでも三度目の言葉を聞いた時、彼女は少しだけ返事に詰まった。
「……私だけじゃありません」
院長は書類から目を上げる。
「もちろん。助手もいたし、外部の術師も呼んだと聞いているよ」
「はい」
それで話は終わった。
院長は悪くない。
治療担当者の欄に名前があるのはニナだ。実際、治療を完了させたのも彼女だった。
けれど、自分だけが褒められるたび、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
あの九分がなければ、治療は間に合わなかった。
それも事実だ。
では、助けたのは誰なのか。
ニナは治療記録を閉じた。
翌日、ニナは治療院の記録室にいた。
昨夜の件を正式な症例記録へまとめるためだった。
記録室は治療院の一階奥にあり、窓は小さい。
壁一面の棚には過去の治療報告や魔術事故の記録が年度ごとに並んでいる。
ニナは机へフィアの記録を置き、必要な項目を埋めていった。
患者の年齢。
呪いの侵入経路。
進行速度。
施した治療。
治療後の状態。
そこまでは迷わない。
問題は最後だった。
『外部協力者』
その欄に、
シャワル・ミレイス。
と書く。
続けて、
『対応内容』
まで来て手が止まった。
呪術進行の停止。
そう書きかけて、ニナは筆先を浮かせた。
違う。
呪い全体が止まったわけではない。
腕や肩の黒い紋様は動いていた。
痛みも続いていた。
止まったのは、胸へ届く最後だけだった。
彼が何をしたのか、正確に書こうとすると妙に難しい。
ニナは筆を置いた。
「どうしたの?」
向かいの机で古い記録を綴じていた年配の記録官が尋ねる。
「シャワル・ミレイスさんの対応って、過去の記録ではどう書かれていますか?」
「ああ、シャワルさん?」
記録官は慣れた様子で立ち上がり、奥の棚へ向かった。
「事故記録なら何件もあるよ。どの種類が欲しい?」
「種類?」
「設備。封印。呪術。魔力炉。結界。いろいろ」
ニナは思わず瞬いた。
「そんなに?」
「そりゃあ、長いこと現場にいる人だからね」
記録官は棚から厚い束を三つ抱えて戻ってきた。
「最近のならこの辺。古いのは別棟に移してある」
机へ置かれた束は、思っていたよりずっと多かった。
「全部シャワルさんが?」
「全部に名前があるわけじゃないよ。でも、困った時に呼ばれる人ではあるね」
ニナは一番上の記録を開いた。
十年前。
公共浴場の地下で魔力炉が暴走しかけた事故。
結果は、死者なし。
重傷者なし。
協力者の欄にシャワルの名前がある。
ニナは本文を読む。
暴発直前の魔力炉を一時的に封じ、その間に炉の担当技師が内部魔力を抜いた。
次の記録。
山間部の輸送路に掛けられた大型結界の崩壊。
シャワルが消失直前の結界を保たせ、その間に巡回隊が通行者を退避させ、結界術師三名が新しい支点を作った。
その次。
工房街で発生した高位呪術の誤作動。
対象者二名。
シャワルが呪いの完全定着を抑え、治療師四名が処置。
二名とも生還。
ニナの指が止まった。
フィアの治療と似ている。
さらに読む。
事故。
事故。
また事故。
名前は毎回違った。
技師。
治療師。
救難隊員。
結界術師。
運搬員。
現場責任者。
けれど、シャワルの記録だけは似ている。
止めた。
持たせた。
抑えた。
その後には必ず別の誰かの仕事が続いていた。
「……これ」
記録官が顔を上げる。
「何?」
「シャワルさんだけで解決した記録って、ありますか?」
少し考えてから、記録官は首を傾げた。
「さあ。私は見たことないね」
「ないんですか」
「だって、あの人は直せないでしょう」
あまりに当然のように言われ、ニナは口を閉じた。
記録官は書類を揃えながら続ける。
「壊れる寸前のものを持たせる人であって、壊れた設備を直す人じゃない。呪いを止めても治せないしね」
「……はい」
「だから現場じゃ、あの人が来たら安心するっていうより、忙しくなるんだよ」
「忙しく?」
「止まったなら、今のうちに何とかしろってことだから」
記録官は笑った。
「昔、技師の人が言ってたよ。『シャワルが来たら休めると思うな。そこからが本番だ』って」
ニナは思わず笑った。
その言い方なら、本人も否定しなさそうだった。
昼を過ぎても、ニナは記録を読み続けた。
初めはフィアの記録を書くためだった。
いつの間にか目的が変わっていた。
ある事故では、シャワルが二十秒だけ持たせていた。
別の事故では三分。
一番短いものは十二秒だった。
たった十二秒。
それでも、その十二秒で作業員二人が扉の外へ出ている。
反対に、十数分に及ぶ記録もあった。
ただし、その時は複数の術師が交代で内部の負荷を減らし続け、シャワル一人が力で押さえていたわけではない。
記録を追うほど、一つだけはっきりしてくる。
彼の仕事は、いつも途中にある。
始まりでもない。
最後でもない。
誰かが「もう間に合わない」と思ったところへ入り、その先にもう一つ仕事を置く。
ニナは手元の紙へ視線を落とした。
フィアの時も同じだった。
九分を渡された。
だから治せた。
けれど、九分あれば誰でも治せたわけではない。
呪いの絡み方を見て、順番を変え、最後はシャワルへ細かく緩めるよう頼んだ。
あれを決めたのは自分だ。
「でも……」
ニナは小さく呟いた。
では、どちらが助けたのだろう。
考えても、答えが一人に決まらない。
「何を難しい顔してる」
背後から声がした。
ニナが振り向く。
記録室の入口に、シャワルが立っていた。
今日は外套ではなく、濃い色の上着を着ている。昨日より顔色もいい。
片手には一枚の書類。
「シャワルさん」
「署名が要ると言われた」
記録官が奥から顔を出した。
「ああ、こっちです。フィアさんの治療の協力記録」
「俺の名前はもう書いたんじゃないのか」
「本人確認がまだです」
「面倒だな」
「規則です」
「なら仕方ない」
シャワルは素直に机へ向かった。
その途中で、ニナの前に積まれた過去記録へ目を落とす。
「何してる」
「あなたの昔の記録を見てました」
「何で」
「気になったので」
「暇だな」
「仕事です!」
半分だけ本当だった。
シャワルは椅子へ座り、渡された書類へ目を通す。
名前だけ見て署名するのかと思ったが、意外にも上から下まで読んでいる。
「ここ」
「何です?」
「『呪術進行を九分間停止』は違う」
ニナは身を乗り出した。
「やっぱり?」
「腕の方は進んでただろ」
「そうなんです。それで書き方に迷って」
シャワルは少し考え、筆を取った。
文章の横へ短く書き足す。
『最終定着のみ保留』
「これでいい」
ニナはその言葉を見た。
自分が感じていた違和感がきれいに収まった。
「本当に、最後だけなんですね」
「そう言ってる」
「でも、あのままならフィアは――」
「治したのは君だ」
また同じことを言われた。
ニナは今度こそ、すぐに引き下がらなかった。
「それ、ずっと考えてたんです」
「何を」
「助けたのは誰なのか」
シャワルの筆が止まる。
「フィアのお母さんは、私にありがとうございましたって言いました。院長も私を褒めました。でも、あなたがいなかったら間に合わなかった」
「そうだな」
「過去の記録も読みました。あなたがいなければ死んでいた人がたくさんいる」
「いるだろうな」
「なのに、どの記録でも最後に解決してるのは別の人です」
「そうだな」
「……何でそんなに普通なんですか」
シャワルが眉を上げた。
「何が」
「そこです!」
思わず声が大きくなった。
奥の記録官がちらりとこちらを見る。
ニナは少し声を落とした。
「あなたが止めなかったら、治療する時間も修理する時間もなかったんですよ」
「俺が一人でいたら?」
「え?」
「あの治療室に俺だけいたら、フィアはどうなった」
答えはすぐに分かった。
「……治せません」
「だろ」
「でも私一人でも間に合わなかった」
「だから二人とも要った」
シャワルは当たり前のように言う。
ニナは黙った。
「助手も要った。患者本人も動くところは動いた。それでいいだろ」
「そんなに簡単に分けられます?」
「分けてない」
「え?」
「逆だ」
シャワルは署名を終え、筆を置いた。
「一人にまとめようとするからおかしくなる」
ニナは目を瞬いた。
シャワルは積まれた記録の一冊を指先で軽く押す。
「その事故、何人名前がある」
「……七人です」
「なら七人いたんだろ」
「でも、中心になった人はいるでしょう」
「いることもある」
「英雄とか」
「そう呼びたいなら呼べばいい」
興味が薄そうな返事だった。
ニナは少し苛立つ。
「あなたは呼ばれたくないんですか」
「別に嫌じゃない」
意外な答えだった。
「嫌じゃない?」
「褒められれば嬉しい時もある」
シャワルはそこで少し笑った。
「酒を奢られるならもっといい」
ニナの肩から力が抜ける。
「なんですか、それ」
「人間だからな」
「だったら、もっと自分が救ったって言ってもいいじゃないですか」
「救ったとは思ってる」
ニナは完全に黙った。
シャワルは、自分が誰も救っていないと思っているわけではない。
「俺の仕事で助かった人間はいる。そこは否定せん」
シャワルは続ける。
「でも、俺の仕事だけで助かった人間はいない」
その言葉は静かだった。
自分を小さく見せるためでもない。
誰かへ手柄を譲るためでもない。
ただ事実として、そう置いている。
ニナは過去記録を見た。
そこには確かに、毎回いくつもの名前がある。
シャワルが止める。
誰かが走る。
誰かが直す。
誰かが治す。
一つ抜ければ助からなかった事故もある。
「じゃあ」
ニナはゆっくり言う。
「フィアを助けたのは、誰ですか」
シャワルはすぐには答えなかった。
少し考える。
「昨日そこにいた連中」
「全員?」
「必要だった奴はな」
「フィア本人も?」
「当然だろ」
シャワルは少し呆れた顔をする。
「怖いのに指示通り呼吸して、腕も動かした。患者が暴れてたら、君はもっと時間が掛かった」
ニナは治療台の上で涙目になっていた少女を思い出した。
『じゃあ、わたしも仕事した』
そう言って、少し得意そうに笑った。
「……そうですね」
「だろ」
ニナは自分の記録へ視線を戻す。
治療担当者。
助手。
外部協力者。
欄は分かれている。
けれど、一人の患者が助かった出来事まで欄ごとに分かれているわけではない。
「じゃあ、私が治したって言うのも間違いじゃない?」
「何で間違いになる」
「あなたが時間を作ったから」
「時間があっても、君が治さなきゃ終わってた」
シャワルは当然のように返した。
「自分の仕事まで他人に渡すな」
その一言に、ニナは少しだけ目を見開いた。
謙遜しろと言われているのだと思っていた。
違った。
むしろ反対だった。
自分がしたことは自分の仕事として受け取れ。
ただし、他人がしたことまで自分のものにするな。
それだけなのだ。
「……難しい人ですね」
「そうか?」
「はい」
「昨日も似たようなこと言われた」
「誰に」
「友人に」
「でしょうね」
シャワルは少し笑った。
記録官から署名済みの紙を受け取り、立ち上がる。
「もう帰るんですか」
「用は終わった」
「ちょっと待ってください」
ニナは自分の記録を引き寄せた。
外部協力者の欄。
その隣にある対応内容を、書き直す。
『呪術の最終定着を九分間保留。治療時間を確保』
その下には、治療担当者として自分の名前。
さらに助手二名の名前。
ニナは少し考え、患者協力の欄にも一文を加えた。
『指示に従い、呼吸・体位調整に協力』
シャワルが横から見る。
「細かいな」
「記録なので」
「記録官みたいなこと言うな」
「仕事です」
今度は胸を張って言った。
シャワルは何も返さず、扉へ向かう。
「シャワルさん」
「何だ」
「ありがとうございました」
「それは聞いた」
「まだあります」
彼が振り返る。
ニナは少しだけ迷ってから言った。
「私、ちゃんと治しました」
シャワルは一瞬黙った。
それから、ほんの少し口元を上げる。
「ああ」
その返事だけだった。
けれど今度は、それで十分だった。
夕方。
ニナはフィアの病室へ入った。
少女は昨日よりずっと元気で、枕を背に起き上がっていた。
左腕にはまだ治療後の薄い布が巻かれている。
母親が椅子から立ち上がる。
「先生」
「状態を見に来ました」
フィアは腕を出す。
「もう黒いのないよ」
「知ってる。でも見る」
「昨日もいっぱい見たのに」
「今日の身体は昨日と違うから」
「変なの」
文句を言いながらも、フィアは大人しく腕を預けた。
ニナは脈を取り、魔力の流れを確認する。
異常なし。
「順調」
「帰れる?」
「明日の朝まで何もなければ」
フィアの顔が明るくなる。
母親もほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
また礼を言われた。
昨日なら、ニナはすぐに「私だけでは」と付け足していたかもしれない。
今日は少し違った。
「はい」
まず受け取る。
「でも昨日は、たくさんの人が一緒に動いてくれました」
それから続けた。
母親は微笑む。
「皆さんに、お礼を言わないといけませんね」
「たぶん、そうです」
フィアが首を傾げる。
「おじいさんにも?」
「もちろん」
「じゃあ、わたしにも?」
ニナは笑った。
「もちろん」
フィアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、わたしも助けたんだ」
「うん。自分をね」
それを聞いた少女は、少しだけ胸を張った。
病室を出る時、母親がもう一度頭を下げた。
今度のニナは、その礼から逃げずに受け取った。
廊下へ出る。
向こうでは、昨日治療を手伝った助手が薬の入った盆を運んでいた。
ニナはその背中を見つけると、少し早足になる。
「ちょっと待って」
助手が振り返った。
「どうしました?」
ニナは追いつき、笑った。
「昨日のこと。あなたにも、ちゃんと言っておこうと思って」
助けたのは誰か。
もう、一人だけを探す必要はなかった。




