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3/31

九分

少女の胸まで、あと指二本分だった。


左手の甲から伸びた黒い紋様が、細い腕を這い、肩を越え、鎖骨の下まで来ている。

枝のように分かれた先端は、呼吸のたびに少しずつ胸の中央へ近づいていた。


治療台の横に立つニナ・フェルは、その先端から目を離さなかった。


「次の波が来ます。フィア、動かないで」


「う、ん……」


十一歳の少女は返事をしたものの、声は震えていた。


額には汗が浮かび、敷布を握る右手の指が白くなっている。

痛みより怖さの方が大きいのだろう。

黒いものが自分の身体を上ってくるのが、本人にも見えている。


フィアを蝕んでいるものを、治療院では便宜上「呪い」と呼んでいた。


けれど、誰かが悪意を持って掛けたものではない。


この世界で呪いと呼ばれる魔術障害には、外から入り込んだ魔力が身体へ絡みつき、本人の魔力と結びついて自力では消えなくなったものも含まれる。


フィアの場合は事故だった。


今朝、古い記録用の魔具が破損し、中に残っていた魔力が異常な形で漏れた。

その場にいたフィアの左手へ触れた魔力が身体へ食い込み、本来とはまったく違う形で広がり始めたのだ。


病気ではない。


誰かに狙われたわけでもない。


ただ、壊れた魔術がフィアの身体を新しい定着先にしてしまった。


そして今、その異常な魔力が黒い紋様となって胸へ向かっている。


ニナは少女の左腕へ両手を添えた。

淡い光が指先から広がり、黒い紋様の途中にある一つ目の結び目を包む。


強引に消してはいけない。


身体へ食い込んだ箇所を一つずつほどく必要がある。

無理に引き剥がせば、呪いと一緒に少女自身の魔力の流れまで傷つける。


やることは分かっていた。


一つ目をほどく。


次に肘の内側。


その次に肩をほどき、最後に胸へ伸びた部分を抜く。


順番も間違っていない。


問題は、時間だけだった。


治療室の扉が開く。


「連れてきました!」


助手の声に、ニナは顔だけを向けた。


入ってきたのは、灰色の外套を羽織った老人だった。

細身で、白髪の多い髪は外の風に乱れている。

急いできたらしく、銀縁の眼鏡も掛けていない。


シャワル・ミレイス。


名前は知っていた。


魔術災害の現場で、壊れきる寸前の術を持たせる老人。

治療院へ呼ばれることは多くないが、今回のように明確な「成立の瞬間」を持つ魔術障害なら、力を借りられる場合がある。


ニナは挨拶を省いた。


「あと三十秒もありません」


「胸まで来たら?」


「全身へ定着します。本人の魔力と完全に絡み合います。そこまで行ったら、今の方法では剥がせません」


「死ぬか」


ニナの手が一瞬だけ止まりかけた。


治療台の上で、フィアの目が見開かれる。


「言い方!」


ニナが鋭く返すと、シャワルは少女を見た。


しまった、という顔はしない。ただ、言葉を選び直すように少しだけ間を置いた。


「悪かった」


老人が素直に頭を下げたので、今度はフィアの方が戸惑った。


シャワルは治療台の横まで来ると、黒い紋様を覗き込んだ。


「胸へ届いたら危険なんだな」


「はい。だから届かせたくありません」


「治すのに何分いる」


「最低でも七分。できれば九分ください」


「九分」


シャワルは一度だけ呟いた。


ニナはその横顔を見た。


「無理ですか」


「分からん」


「分からない?」


「九分保つと言って八分で離したら、君が困るだろう」


それはそうだ。


ニナは言い返せなかった。


シャワルは黒い先端を見つめたまま続ける。


「持たせられるだけ持たせる。君は九分あるつもりで治せ」


「でも途中で――」


「途中で駄目になりそうなら言う」


淡々としているのに、無責任には聞こえなかった。


できると約束しない。


できないとも言わない。


今ある時間を、そのまま渡そうとしている。


ニナは息を一度整えた。


「分かりました」


治療台の上から、小さな声がした。


「わたしは?」


二人が同時に見る。


フィアは泣いていなかった。


けれど、目の端には薄く涙が溜まっている。


「わたし、何してればいいの」


ニナは答えようとして、一瞬迷った。


動かないで。


呼吸して。


大丈夫。


どれも必要な言葉だった。


けれど、大丈夫だと断言することだけは、今の彼女にはできなかった。


「息をしてて」


シャワルが先に言った。


フィアが瞬く。


「それだけ?」


「今はそれが仕事だ」


「仕事……」


「俺も仕事する。ニナもする。君もする」


少女は老人をじっと見た。


それから、敷布を握っていた右手を少し緩めた。


「分かった」


次の瞬間、黒い紋様が脈打った。


ニナが顔を上げる。


「来ます!」


胸へ伸びていた先端が、一気に進んだ。


シャワルが右手を上げた。


風が生まれる。


治療室のカーテンが揺れるほどでもない、ごく薄い流れだった。


その風がフィアの胸の上へ集まり、黒い紋様が最後に到達しようとする場所へ重なる。


頁の縁ほどの薄い膜。


黒い先端はその向こうへ進もうとして、ぴたりと止まった。


止まったのは呪い全部ではない。


腕に広がった紋様はまだ蠢いている。肩の結び目も脈打っている。フィアの痛みも消えていない。


ただ、胸の中央へ届くはずだった最後の一歩だけが来ない。


シャワルは手を上げたまま言った。


「止めた」


ニナはすぐに視線を腕へ戻した。


「始めます」


一つ目の結び目へ光を集める。


呪いの黒と治癒の光が触れ、フィアの腕がびくりと震えた。


「痛っ……!」


「ごめん。ここだけ少し痛い」


「少しじゃない!」


「喋れるなら大丈夫」


言った直後、ニナは少しきつかったかと思った。


だがフィアは涙目のまま、


「それ、ずるい……」


と返した。


ニナの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


「じゃあ、あとで文句を聞く」


「絶対言う」


「うん。絶対聞く」


一つ目をほどく。


黒い線の一部が薄くなった。


そこで終わりではない。


ニナはすぐ肘へ移る。


助手が横から布と治療具を差し出し、額の汗を拭う。もう一人がフィアの脈と呼吸を確認していた。


誰もシャワルを見ていない。


見る必要がなかった。


彼が止めている間にやることがある。


二つ目の結び目は一つ目より深かった。


ニナが光を入れると、黒い線が逃げるように腕の内側へ細く広がる。


「散ります」と助手が言う。


「分かってる。右を押さえて」


「はい」


ニナは左側を追った。


追いかけて消すのではない。


逃げ道を狭め、元の結び目へ戻す。


焦れば患者を傷つける。


時間がないからこそ、雑にはできない。


治療台の向こうで、フィアの呼吸が速くなった。


「ゆっくり」


ニナが声を掛ける。


「やってる……!」


「もう少しゆっくり」


「できない!」


「じゃあ私を見る」


フィアの視線が動く。


「吸って」


ニナも一緒に息を吸った。


「吐いて」


少女が真似をする。二度繰り返し、三度目でようやく肩の力が少し抜けた。


その間もニナの指は止まらない。


シャワルは胸の上に作った薄い風へ意識を向けながら、そのやり取りを聞いていた。


右腕がじわりと重くなる。


昨日の工房で残った疲れとは違う。


呪いは設備の亀裂より小さい。

それでも、生きた人間の中で何度も形を変えようとする分、押してくる場所が細かく揺れる。


最後へ進もうとするたび、薄い風がそれを受ける。


一度で押し返すのではない。


最後まで届かせないよう、ただそれだけを続ける。


「二つ目、抜けます!」


ニナの声が治療室へ響いた。


黒い紋様が肘から消えた。


残ったのは肩から胸へかけての部分だけになる。


フィアが自分の腕を見て、息を呑んだ。


「消えた……」


「見るのはあと」


「でも、減ってる」


「減ってるよ」


ニナは今度は否定しなかった。


「ちゃんと減ってる。だから次」


フィアが小さく頷く。


残る三つ目へ移る。


肩の結び目へ触れた瞬間、ニナの表情が変わった。


「……深い」


「予定と違うか」


初めてシャワルが尋ねた。


「思ったより絡んでます」


「どれくらい増える」


「二分……いえ、一分でやります」


「九分を越えるかだけ言え」


ニナは壁の時計を見る。


まだ四分ほどしか経っていない。


「越えません」


「ならやれ」


短い返事だった。


ニナは唇を結び、肩へ両手を添えた。


焦りはあった。


焦るのは当然だった。


目の前に十一歳の患者がいて、あと数分で終わらせなければならない。


けれど、焦っていることと手順を崩すことは別だ。


指先から入れる光を一度弱める。


表面ではなく、絡み方を見る。


一本、二本。その奥に、もう一本ある。


全部で三つ絡んでいた。


「助手、左肩を支えて。フィア、腕を少しだけ外へ」


「動かしていいの?」


「今だけ。私が言ったところまで」


フィアは恐る恐る腕を動かした。


痛みで顔をしかめる。


ニナはそこで見え方が変わった三本目を捉えた。


「そこ」


狙った場所へ光を入れる。


黒い線が跳ねた。


同時に、シャワルの風へ強い圧がぶつかった。


胸の上で薄い膜が大きく撓む。


シャワルの肘がわずかに下がった。


助手が気づく。


「シャワルさん?」


「そっちを見ろ」


声はまだ普通だった。


「俺が駄目なら言う」


助手は一瞬迷ったあと、すぐフィアへ視線を戻した。


それでいい、とシャワルは思った。


右手首へ左手を添える。


誰かに心配されるためにここへ来たわけではない。


必要なのは、自分があと何分格好よく立っていられるかではない。


最後まで届かせないことだけだ。


肩の黒が少しずつ薄くなる。


ニナの額にも汗が浮かんでいた。


「抜けるよ、フィア」


「ほんと?」


「ほんと。もう少し」


「あとどれくらい?」


「今それ聞く?」


「だって長い!」


「私も長い!」


思わず返したニナに、助手が小さく吹き出した。


フィアも一瞬だけ口元を緩める。


その直後、肩の結び目がほどけた。


黒い紋様が一気に後退する。


左腕から肩までが、元の肌の色へ戻った。


残ったのは、胸元に止められている最後の細い一本だけ。


ニナが時計を見る。


七分を少し過ぎている。


「最後、入ります」


シャワルは返事の代わりに頷いた。


ここからが一番危ない。


胸へ届きかけている部分は、シャワルの風に押し止められたまま、細かく震えている。


ニナはそこへいきなり触れなかった。


フィアの胸へ手を当て、呼吸と身体の中の魔力の流れを確かめる。


長く止められていた呪いは、消えたわけではない。


前へ進めない分だけ、最後の部分へ力が集まっている。


ここで雑に抜けば、フィアの身体へその反動が返る。


「シャワルさん」


「何だ」


「少しずつ緩められますか」


「どれくらい」


「私が取った分だけ。全部離さないでください」


「分かった」


ニナは目を閉じた。


指先へ光を集める。


「少し」


風がほんのわずかに薄くなる。


黒い先端が動いた。


その瞬間をニナが掴み、先端だけを光で包む。


「止めて」


シャワルが風を元へ戻す。


黒い線がまた動かなくなる。


ニナは包んだ部分を身体から切り離した。


最初の一片が外れる。


「もう一度」


二つ目も切り離した。


「もう少し」


三つ目まで同じように外した。


二人の間に長い説明はなかった。


ニナが必要な量を言う。


シャワルが動かす。


フィアの身体から、黒い線が少しずつ消えていく。


最後のひとかけらが残る。


ニナは時計を見なかった。


見る暇があるなら手を動かしたかった。


「これで最後です」


シャワルの声が返る。


「俺の方もな」


初めて聞いた言葉に、ニナの胸が強く鳴った。


もう余裕がない。


「フィア、息を吐いて」


少女が息を吐く。


「そのまま」


ニナが最後の黒へ光を重ねた。


シャワルが風をほんの少し緩める。


黒い先端が前へ出ようとする。


届く前に、ニナが掴んだ。


強い抵抗が指へ返ってくる。


ニナは指へ返る抵抗を受けても離さない。


無理に引き千切ることもしない。


身体の流れに沿って、ゆっくり外へ向ける。


フィアが声を上げた。


「痛い!」


「あと少し!」


「それさっきも言った!」


「今度は本当に最後!」


「信じるからね!」


「信じて!」


ニナが両手を引く。


黒い光が糸のように伸び、切れた。


同時にシャワルが風を消す。


治療室が静かになった。


誰もすぐには喋らなかった。


フィアの胸にも、肩にも、腕にも、黒い紋様はない。


ニナは少女の胸へ手を当てた。


呼吸、脈、魔力の流れを一つずつ確かめる。


異常な引っ掛かりはない。


「……取れた」


助手が息を吐く。


「取れました?」


ニナはもう一度確認した。


それからようやく、フィアを見る。


「取れたよ」


少女の顔がくしゃりと歪んだ。


今まで我慢していたものが一気に出たらしい。


「遅い……!」


泣きながら言われ、ニナは思わず笑った。


「ごめん」


「すごく痛かった!」


「うん」


「怖かった!」


「うん。ごめんね」


今度は「大丈夫だったでしょう」とは言わなかった。


怖かったものは怖かったのだ。


フィアは右手で目を擦ろうとして、助手に止められた。


「今はそのまま休もうね」


「お母さんは?」


「すぐ呼ぶ」


その言葉にようやく安心したのか、フィアは目を閉じた。


眠ったわけではない。


ただ、力を抜いただけだった。


ニナも治療台へ手をついた。


急に足から力が抜けそうになる。


「時間」


横からシャワルの声がした。


助手が時計を見る。


「九分……少しです」


ニナは振り返った。


シャワルはすでに手を下ろしている。


顔色は悪い。額には薄く汗が滲み、右手の指先がまだ細かく震えていた。


それでも自分から椅子を引き、普通に座った。


ニナは呆然とその手を見る。


九分という長さが、急に重く感じられた。


胸へ届けば全身へ定着していた呪いを、その手が九分も手前で止めていた。


「九分も……」


自分でも何を言おうとしたのか分からなかった。


命を繋いでくれた。


助けてくれた。


どちらも間違いではないと思った。


「九分も、あの子を生かしてくれたんですね」


シャワルは水を受け取ろうとしていた手を止めた。


「違う」


ニナは眉を寄せる。


「何がですか」


「俺は呪いを止めただけだ」


「でも、あなたがいなかったら間に合わなかった」


「そうだな」


あまりにあっさり認められ、ニナの方が言葉に詰まる。


シャワルは助手から水を受け取り、一口飲んだ。


「だから俺の仕事も要った」


そして、治療台を見る。


「でも治したのは君だ」


ニナは何も答えられなかった。


慰めでも謙遜でもないのだと、声で分かった。


本当にそう分けて考えている。


止めた人間がいて、治した人間がいる。


支えた助手がいて、怖い中で指示通り呼吸し、腕を動かした少女もいる。


誰か一人の仕事へ全部まとめる気がない。


治療室の扉が開き、待っていた母親が駆け込んできた。


フィアが目を開ける。


「お母さん」


母親は治療台へ寄り、娘の右手を両手で包んだ。


何度も名前を呼ぶ。


フィアはまた泣いた。


今度の涙は、さっきとは少し違って見えた。


ニナはその親子から一歩離れた。


治療が終われば、ここは自分の場所ではない。


袖で額の汗を拭う。


そこで、自分の指も震えていることに気づいた。


シャワルがそれを見る。


「座れ」


「大丈夫です」


「患者に言う時もそれで通すのか」


「……座ります」


素直に隣の椅子へ腰を下ろした。


助手が今度はニナにも水を渡す。


ニナは両手で杯を持った。


冷たさが気持ちいい。


「シャワルさん」


「何だ」


「ありがとうございました」


今度は言い直さなかった。


誰が何をしたか分かった上で、それでも言いたかった。


シャワルも否定しない。


「ああ」


それだけ答えた。


治療台の方から、まだ鼻声のフィアが呼んだ。


「おじいさん」


シャワルが顔を向ける。


「俺か」


「ほかにおじいさんいない」


母親が慌てる。


「フィア!」


シャワルは少し笑った。


「何だ」


「息してるの、ちゃんとできた?」


一瞬、ニナが意味を掴めなかった。


シャワルだけがすぐに分かった。


治療が始まる前、少女へ言ったことだ。


息をしているのが今の仕事だ、と。


「できてた」


「ほんと?」


「ああ。最後までな」


フィアは少しだけ得意そうに笑った。


「じゃあ、わたしも仕事した」


「したな」


シャワルはそう答えた。


窓の外では、昼の風が治療院の木々を揺らしていた。


九分前には届くはずだった最後は、もうどこにもなかった。

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