九分
少女の胸まで、あと指二本分だった。
左手の甲から伸びた黒い紋様が、細い腕を這い、肩を越え、鎖骨の下まで来ている。
枝のように分かれた先端は、呼吸のたびに少しずつ胸の中央へ近づいていた。
治療台の横に立つニナ・フェルは、その先端から目を離さなかった。
「次の波が来ます。フィア、動かないで」
「う、ん……」
十一歳の少女は返事をしたものの、声は震えていた。
額には汗が浮かび、敷布を握る右手の指が白くなっている。
痛みより怖さの方が大きいのだろう。
黒いものが自分の身体を上ってくるのが、本人にも見えている。
フィアを蝕んでいるものを、治療院では便宜上「呪い」と呼んでいた。
けれど、誰かが悪意を持って掛けたものではない。
この世界で呪いと呼ばれる魔術障害には、外から入り込んだ魔力が身体へ絡みつき、本人の魔力と結びついて自力では消えなくなったものも含まれる。
フィアの場合は事故だった。
今朝、古い記録用の魔具が破損し、中に残っていた魔力が異常な形で漏れた。
その場にいたフィアの左手へ触れた魔力が身体へ食い込み、本来とはまったく違う形で広がり始めたのだ。
病気ではない。
誰かに狙われたわけでもない。
ただ、壊れた魔術がフィアの身体を新しい定着先にしてしまった。
そして今、その異常な魔力が黒い紋様となって胸へ向かっている。
ニナは少女の左腕へ両手を添えた。
淡い光が指先から広がり、黒い紋様の途中にある一つ目の結び目を包む。
強引に消してはいけない。
身体へ食い込んだ箇所を一つずつほどく必要がある。
無理に引き剥がせば、呪いと一緒に少女自身の魔力の流れまで傷つける。
やることは分かっていた。
一つ目をほどく。
次に肘の内側。
その次に肩をほどき、最後に胸へ伸びた部分を抜く。
順番も間違っていない。
問題は、時間だけだった。
治療室の扉が開く。
「連れてきました!」
助手の声に、ニナは顔だけを向けた。
入ってきたのは、灰色の外套を羽織った老人だった。
細身で、白髪の多い髪は外の風に乱れている。
急いできたらしく、銀縁の眼鏡も掛けていない。
シャワル・ミレイス。
名前は知っていた。
魔術災害の現場で、壊れきる寸前の術を持たせる老人。
治療院へ呼ばれることは多くないが、今回のように明確な「成立の瞬間」を持つ魔術障害なら、力を借りられる場合がある。
ニナは挨拶を省いた。
「あと三十秒もありません」
「胸まで来たら?」
「全身へ定着します。本人の魔力と完全に絡み合います。そこまで行ったら、今の方法では剥がせません」
「死ぬか」
ニナの手が一瞬だけ止まりかけた。
治療台の上で、フィアの目が見開かれる。
「言い方!」
ニナが鋭く返すと、シャワルは少女を見た。
しまった、という顔はしない。ただ、言葉を選び直すように少しだけ間を置いた。
「悪かった」
老人が素直に頭を下げたので、今度はフィアの方が戸惑った。
シャワルは治療台の横まで来ると、黒い紋様を覗き込んだ。
「胸へ届いたら危険なんだな」
「はい。だから届かせたくありません」
「治すのに何分いる」
「最低でも七分。できれば九分ください」
「九分」
シャワルは一度だけ呟いた。
ニナはその横顔を見た。
「無理ですか」
「分からん」
「分からない?」
「九分保つと言って八分で離したら、君が困るだろう」
それはそうだ。
ニナは言い返せなかった。
シャワルは黒い先端を見つめたまま続ける。
「持たせられるだけ持たせる。君は九分あるつもりで治せ」
「でも途中で――」
「途中で駄目になりそうなら言う」
淡々としているのに、無責任には聞こえなかった。
できると約束しない。
できないとも言わない。
今ある時間を、そのまま渡そうとしている。
ニナは息を一度整えた。
「分かりました」
治療台の上から、小さな声がした。
「わたしは?」
二人が同時に見る。
フィアは泣いていなかった。
けれど、目の端には薄く涙が溜まっている。
「わたし、何してればいいの」
ニナは答えようとして、一瞬迷った。
動かないで。
呼吸して。
大丈夫。
どれも必要な言葉だった。
けれど、大丈夫だと断言することだけは、今の彼女にはできなかった。
「息をしてて」
シャワルが先に言った。
フィアが瞬く。
「それだけ?」
「今はそれが仕事だ」
「仕事……」
「俺も仕事する。ニナもする。君もする」
少女は老人をじっと見た。
それから、敷布を握っていた右手を少し緩めた。
「分かった」
次の瞬間、黒い紋様が脈打った。
ニナが顔を上げる。
「来ます!」
胸へ伸びていた先端が、一気に進んだ。
シャワルが右手を上げた。
風が生まれる。
治療室のカーテンが揺れるほどでもない、ごく薄い流れだった。
その風がフィアの胸の上へ集まり、黒い紋様が最後に到達しようとする場所へ重なる。
頁の縁ほどの薄い膜。
黒い先端はその向こうへ進もうとして、ぴたりと止まった。
止まったのは呪い全部ではない。
腕に広がった紋様はまだ蠢いている。肩の結び目も脈打っている。フィアの痛みも消えていない。
ただ、胸の中央へ届くはずだった最後の一歩だけが来ない。
シャワルは手を上げたまま言った。
「止めた」
ニナはすぐに視線を腕へ戻した。
「始めます」
一つ目の結び目へ光を集める。
呪いの黒と治癒の光が触れ、フィアの腕がびくりと震えた。
「痛っ……!」
「ごめん。ここだけ少し痛い」
「少しじゃない!」
「喋れるなら大丈夫」
言った直後、ニナは少しきつかったかと思った。
だがフィアは涙目のまま、
「それ、ずるい……」
と返した。
ニナの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「じゃあ、あとで文句を聞く」
「絶対言う」
「うん。絶対聞く」
一つ目をほどく。
黒い線の一部が薄くなった。
そこで終わりではない。
ニナはすぐ肘へ移る。
助手が横から布と治療具を差し出し、額の汗を拭う。もう一人がフィアの脈と呼吸を確認していた。
誰もシャワルを見ていない。
見る必要がなかった。
彼が止めている間にやることがある。
二つ目の結び目は一つ目より深かった。
ニナが光を入れると、黒い線が逃げるように腕の内側へ細く広がる。
「散ります」と助手が言う。
「分かってる。右を押さえて」
「はい」
ニナは左側を追った。
追いかけて消すのではない。
逃げ道を狭め、元の結び目へ戻す。
焦れば患者を傷つける。
時間がないからこそ、雑にはできない。
治療台の向こうで、フィアの呼吸が速くなった。
「ゆっくり」
ニナが声を掛ける。
「やってる……!」
「もう少しゆっくり」
「できない!」
「じゃあ私を見る」
フィアの視線が動く。
「吸って」
ニナも一緒に息を吸った。
「吐いて」
少女が真似をする。二度繰り返し、三度目でようやく肩の力が少し抜けた。
その間もニナの指は止まらない。
シャワルは胸の上に作った薄い風へ意識を向けながら、そのやり取りを聞いていた。
右腕がじわりと重くなる。
昨日の工房で残った疲れとは違う。
呪いは設備の亀裂より小さい。
それでも、生きた人間の中で何度も形を変えようとする分、押してくる場所が細かく揺れる。
最後へ進もうとするたび、薄い風がそれを受ける。
一度で押し返すのではない。
最後まで届かせないよう、ただそれだけを続ける。
「二つ目、抜けます!」
ニナの声が治療室へ響いた。
黒い紋様が肘から消えた。
残ったのは肩から胸へかけての部分だけになる。
フィアが自分の腕を見て、息を呑んだ。
「消えた……」
「見るのはあと」
「でも、減ってる」
「減ってるよ」
ニナは今度は否定しなかった。
「ちゃんと減ってる。だから次」
フィアが小さく頷く。
残る三つ目へ移る。
肩の結び目へ触れた瞬間、ニナの表情が変わった。
「……深い」
「予定と違うか」
初めてシャワルが尋ねた。
「思ったより絡んでます」
「どれくらい増える」
「二分……いえ、一分でやります」
「九分を越えるかだけ言え」
ニナは壁の時計を見る。
まだ四分ほどしか経っていない。
「越えません」
「ならやれ」
短い返事だった。
ニナは唇を結び、肩へ両手を添えた。
焦りはあった。
焦るのは当然だった。
目の前に十一歳の患者がいて、あと数分で終わらせなければならない。
けれど、焦っていることと手順を崩すことは別だ。
指先から入れる光を一度弱める。
表面ではなく、絡み方を見る。
一本、二本。その奥に、もう一本ある。
全部で三つ絡んでいた。
「助手、左肩を支えて。フィア、腕を少しだけ外へ」
「動かしていいの?」
「今だけ。私が言ったところまで」
フィアは恐る恐る腕を動かした。
痛みで顔をしかめる。
ニナはそこで見え方が変わった三本目を捉えた。
「そこ」
狙った場所へ光を入れる。
黒い線が跳ねた。
同時に、シャワルの風へ強い圧がぶつかった。
胸の上で薄い膜が大きく撓む。
シャワルの肘がわずかに下がった。
助手が気づく。
「シャワルさん?」
「そっちを見ろ」
声はまだ普通だった。
「俺が駄目なら言う」
助手は一瞬迷ったあと、すぐフィアへ視線を戻した。
それでいい、とシャワルは思った。
右手首へ左手を添える。
誰かに心配されるためにここへ来たわけではない。
必要なのは、自分があと何分格好よく立っていられるかではない。
最後まで届かせないことだけだ。
肩の黒が少しずつ薄くなる。
ニナの額にも汗が浮かんでいた。
「抜けるよ、フィア」
「ほんと?」
「ほんと。もう少し」
「あとどれくらい?」
「今それ聞く?」
「だって長い!」
「私も長い!」
思わず返したニナに、助手が小さく吹き出した。
フィアも一瞬だけ口元を緩める。
その直後、肩の結び目がほどけた。
黒い紋様が一気に後退する。
左腕から肩までが、元の肌の色へ戻った。
残ったのは、胸元に止められている最後の細い一本だけ。
ニナが時計を見る。
七分を少し過ぎている。
「最後、入ります」
シャワルは返事の代わりに頷いた。
ここからが一番危ない。
胸へ届きかけている部分は、シャワルの風に押し止められたまま、細かく震えている。
ニナはそこへいきなり触れなかった。
フィアの胸へ手を当て、呼吸と身体の中の魔力の流れを確かめる。
長く止められていた呪いは、消えたわけではない。
前へ進めない分だけ、最後の部分へ力が集まっている。
ここで雑に抜けば、フィアの身体へその反動が返る。
「シャワルさん」
「何だ」
「少しずつ緩められますか」
「どれくらい」
「私が取った分だけ。全部離さないでください」
「分かった」
ニナは目を閉じた。
指先へ光を集める。
「少し」
風がほんのわずかに薄くなる。
黒い先端が動いた。
その瞬間をニナが掴み、先端だけを光で包む。
「止めて」
シャワルが風を元へ戻す。
黒い線がまた動かなくなる。
ニナは包んだ部分を身体から切り離した。
最初の一片が外れる。
「もう一度」
二つ目も切り離した。
「もう少し」
三つ目まで同じように外した。
二人の間に長い説明はなかった。
ニナが必要な量を言う。
シャワルが動かす。
フィアの身体から、黒い線が少しずつ消えていく。
最後のひとかけらが残る。
ニナは時計を見なかった。
見る暇があるなら手を動かしたかった。
「これで最後です」
シャワルの声が返る。
「俺の方もな」
初めて聞いた言葉に、ニナの胸が強く鳴った。
もう余裕がない。
「フィア、息を吐いて」
少女が息を吐く。
「そのまま」
ニナが最後の黒へ光を重ねた。
シャワルが風をほんの少し緩める。
黒い先端が前へ出ようとする。
届く前に、ニナが掴んだ。
強い抵抗が指へ返ってくる。
ニナは指へ返る抵抗を受けても離さない。
無理に引き千切ることもしない。
身体の流れに沿って、ゆっくり外へ向ける。
フィアが声を上げた。
「痛い!」
「あと少し!」
「それさっきも言った!」
「今度は本当に最後!」
「信じるからね!」
「信じて!」
ニナが両手を引く。
黒い光が糸のように伸び、切れた。
同時にシャワルが風を消す。
治療室が静かになった。
誰もすぐには喋らなかった。
フィアの胸にも、肩にも、腕にも、黒い紋様はない。
ニナは少女の胸へ手を当てた。
呼吸、脈、魔力の流れを一つずつ確かめる。
異常な引っ掛かりはない。
「……取れた」
助手が息を吐く。
「取れました?」
ニナはもう一度確認した。
それからようやく、フィアを見る。
「取れたよ」
少女の顔がくしゃりと歪んだ。
今まで我慢していたものが一気に出たらしい。
「遅い……!」
泣きながら言われ、ニナは思わず笑った。
「ごめん」
「すごく痛かった!」
「うん」
「怖かった!」
「うん。ごめんね」
今度は「大丈夫だったでしょう」とは言わなかった。
怖かったものは怖かったのだ。
フィアは右手で目を擦ろうとして、助手に止められた。
「今はそのまま休もうね」
「お母さんは?」
「すぐ呼ぶ」
その言葉にようやく安心したのか、フィアは目を閉じた。
眠ったわけではない。
ただ、力を抜いただけだった。
ニナも治療台へ手をついた。
急に足から力が抜けそうになる。
「時間」
横からシャワルの声がした。
助手が時計を見る。
「九分……少しです」
ニナは振り返った。
シャワルはすでに手を下ろしている。
顔色は悪い。額には薄く汗が滲み、右手の指先がまだ細かく震えていた。
それでも自分から椅子を引き、普通に座った。
ニナは呆然とその手を見る。
九分という長さが、急に重く感じられた。
胸へ届けば全身へ定着していた呪いを、その手が九分も手前で止めていた。
「九分も……」
自分でも何を言おうとしたのか分からなかった。
命を繋いでくれた。
助けてくれた。
どちらも間違いではないと思った。
「九分も、あの子を生かしてくれたんですね」
シャワルは水を受け取ろうとしていた手を止めた。
「違う」
ニナは眉を寄せる。
「何がですか」
「俺は呪いを止めただけだ」
「でも、あなたがいなかったら間に合わなかった」
「そうだな」
あまりにあっさり認められ、ニナの方が言葉に詰まる。
シャワルは助手から水を受け取り、一口飲んだ。
「だから俺の仕事も要った」
そして、治療台を見る。
「でも治したのは君だ」
ニナは何も答えられなかった。
慰めでも謙遜でもないのだと、声で分かった。
本当にそう分けて考えている。
止めた人間がいて、治した人間がいる。
支えた助手がいて、怖い中で指示通り呼吸し、腕を動かした少女もいる。
誰か一人の仕事へ全部まとめる気がない。
治療室の扉が開き、待っていた母親が駆け込んできた。
フィアが目を開ける。
「お母さん」
母親は治療台へ寄り、娘の右手を両手で包んだ。
何度も名前を呼ぶ。
フィアはまた泣いた。
今度の涙は、さっきとは少し違って見えた。
ニナはその親子から一歩離れた。
治療が終われば、ここは自分の場所ではない。
袖で額の汗を拭う。
そこで、自分の指も震えていることに気づいた。
シャワルがそれを見る。
「座れ」
「大丈夫です」
「患者に言う時もそれで通すのか」
「……座ります」
素直に隣の椅子へ腰を下ろした。
助手が今度はニナにも水を渡す。
ニナは両手で杯を持った。
冷たさが気持ちいい。
「シャワルさん」
「何だ」
「ありがとうございました」
今度は言い直さなかった。
誰が何をしたか分かった上で、それでも言いたかった。
シャワルも否定しない。
「ああ」
それだけ答えた。
治療台の方から、まだ鼻声のフィアが呼んだ。
「おじいさん」
シャワルが顔を向ける。
「俺か」
「ほかにおじいさんいない」
母親が慌てる。
「フィア!」
シャワルは少し笑った。
「何だ」
「息してるの、ちゃんとできた?」
一瞬、ニナが意味を掴めなかった。
シャワルだけがすぐに分かった。
治療が始まる前、少女へ言ったことだ。
息をしているのが今の仕事だ、と。
「できてた」
「ほんと?」
「ああ。最後までな」
フィアは少しだけ得意そうに笑った。
「じゃあ、わたしも仕事した」
「したな」
シャワルはそう答えた。
窓の外では、昼の風が治療院の木々を揺らしていた。
九分前には届くはずだった最後は、もうどこにもなかった。




