十二冊目だけが新しい
翌日の昼過ぎ、シャワルは台所の椅子に座り、第五巻の背表紙を直していた。
昨夜読んでいる途中で、綴じ糸の一本が緩んでいることに気づいたのだ。
すぐに読めなくなるほどではない。けれど頁を開くたび少しずつ負担が掛かる。この程度の傷みを放っておくと、数年後には背から頁が浮く。
机の上には細い糸と針、小さな刷毛、薄い補修紙が並んでいた。
眼鏡を掛けたシャワルは緩んだ箇所だけを丁寧に締め直し、指先で背を撫でて具合を見る。
玄関の扉が三度、遠慮なく叩かれた。
「生きてるか、老いぼれ」
聞き慣れた声だった。
「死んでたら返事はできん」
「なら開けろ」
シャワルは針を布の上へ置き、ゆっくり立ち上がった。
昨日より身体は重い。工房で魔術を使った後は、いつも多少の疲れが残る。
若い頃なら一晩眠ればほとんど消えたが、今は肩から腕に薄い鈍さが居座っている。
それを確かめるように右肩を一度回してから、玄関を開けた。
立っていたのは、シャワルと同じくらい年を重ねた大柄な男だった。
オルド・ヴァレン。
髪はほとんど白くなっているが、太い首と広い肩は昔とさほど変わらない。
もっとも、腰には昔なかった革の支えを巻き、左膝をかばう癖も増えていた。
片手には紙袋。もう片方には細長い包みを持っている。
「顔色は悪くないな」
「挨拶より先にそれか」
「昨日、工房一つ抱えて帰った奴に天気の話をしてどうする」
オルドは返事も待たずに家へ入り、靴を脱ぐと台所へ向かった。勝手知ったる様子である。
机の上を見るなり、眉を寄せた。
「またそれ直してるのか」
「糸が緩んだ」
「昨日の今日で?」
「昨日の前からだ。昨日気づいた」
「普通、昨日みたいな仕事の次の日は寝るんだよ」
「座ってる」
「そういう話じゃない」
オルドは呆れた顔で紙袋を机へ置いた。
中にはパンと燻製肉、それから果物が入っていた。どう見ても一人分ではない。
「昼は」
「まだだ」
「やっぱりな」
「本を直してから食うつもりだった」
「その本は腹が減らんだろうが、お前は減る」
「俺も今は減ってない」
「老人は腹が減ったことに気づくのも遅いんだ」
「お前も老人だろ」
「俺は賢い老人だ」
「それなら自分の分だけ持ってくればよかったな」
言いながらも、シャワルは棚から皿を二枚出した。
オルドが鼻で笑う。
こういうやり取りを、二人は何十年も続けていた。
最初に会った頃、シャワルは三十代だった。
オルドもまだ黒髪で、魔術設備の修理現場では梯子を二段飛ばしで上がっていた。
シャワルが壊れかけた魔術を抑え、オルドがその間に原因を見つけて直す。
止める側と、直す側。
仕事の内容は違ったが、同じ現場へ呼ばれることは多かった。
今では二人とも、梯子を二段飛ばしどころか、一段ずつ上がる方がいい歳になった。
オルドは燻製肉を切りながら、机の端に置かれた第五巻をちらりと見る。
「新しいのを買えばいいだろ」
「持ってる」
「じゃあそっちを読め」
「嫌だ」
「なんでだ」
「こっちを読んできたから」
シャワルはそれだけ答え、パンを切った。
第五巻の表紙は色褪せ、角は丸くなっている。
背には補修した跡が何本もあり、新品と比べれば見栄えは悪い。
それでも、どの頁が開きやすいかまで指が覚えている。
「同じ中身だろ」
「同じだ」
「なら新しい方が読みやすい」
「そうだな」
「じゃあ――」
「でもこっちを読む」
オルドが包丁を止めた。
「お前は昔から、理屈が通ってるところと通ってないところが隣同士なんだよ」
「通ってる。俺の中では」
「それを世間じゃ頑固って言うんだ」
「知ってる」
シャワルは第五巻を手元へ引き寄せ、まだ乾いていない箇所を避けるように閉じた。
本棚には一巻から十一巻までが並んでいる。
どれも似たような状態だった。
三巻は背の革を一度取り替え、七巻には頁の端に薄い補修紙が何枚も貼られている。
九巻の表紙には昔ついた水染みがあり、一巻は最も古いぶんだけ全体が柔らかくなっていた。
全部、まだ読める。
シャワルにとって大事なのはそこだった。
古いから大事なのではない。壊れたまま保存したいわけでもない。
読んできた本を、これからも読めるようにしておきたい。
ただそれだけだった。
食事を終える頃になって、オルドが持ってきた細長い包みを机へ置いた。
「で、本題だ」
「飯じゃなかったのか」
「半分はな」
包みを開くと、中から小さな鉄の鍵が出てきた。
シャワルはそれを見て、眼鏡の位置を少し直した。
「作ったのか」
「昨日頼まれたからな。予備だ。形は確認した。お前の地下の錠にも合う」
昨日、工房から帰る途中だった。
疲れの残るシャワルを家まで送ったオルドに、予備の鍵を一つ作っておいてくれと頼んでいた。
理由も説明してある。
オルドは鍵を指で弾かず、静かに机へ置いた。
「今さら必要か?」
「今だから必要なんだろ」
「昨日一回大きい魔術を使っただけで、急に死ぬ準備を始めるな」
「急じゃない。前から話してる」
「話してるのと鍵を渡すのは違う」
シャワルはオルドを見る。
さっきまで面倒そうに食事を持ってきて、老人だの何だのと言っていた男が、今は少しだけ口元を固くしていた。
シャワルは鍵を取り上げる。
「確認するぞ」
「何を」
「お前が忘れてないか」
「忘れるか」
「なら来い」
シャワルは立ち上がり、廊下の奥へ向かった。
地下へ続く階段は狭い。
昔は何も気にせず下りていたが、今は壁へ手を添える。
二段目から三段目へ移る時だけ、右膝に少し負担が来る。
後ろのオルドがそれを見ていたらしい。
「手すり付けろ」
「壁がある」
「壁は手すりじゃない」
「掴める」
「そういう問題じゃない」
「帰りに測っていくか?」
「測る。次来るまでに付ける」
勝手に話が決まった。
地下室は小さかった。
棚には古い記録や季節外れの衣類が置かれている。魔術師の家らしい珍しい物はほとんどない。
その一番奥に、金属で覆われた箱が一つだけ据えられていた。
人の腰ほどの高さがある頑丈な金庫だ。
オルドがそれを見るたび、何度見ても馬鹿らしいと思う。
国家機密を入れるような作りなのに、中に入っている物を彼は知っている。
シャワルが鍵を差し込み、いくつかの留め具を外した。
重い扉が開く。
中には一冊の本しかなかった。
『風見鶏の街道 第十二巻』
表紙にはほとんど傷がない。
上の本棚に並んでいる十一冊とは、同じ作品とは思えないほど綺麗だった。
オルドは腕を組む。
「相変わらずだな」
「何が」
「この金庫だよ。金も書類も入れずに、本一冊」
「これを入れるために買った」
「知ってる。知ってるから余計に言ってる」
シャワルは本へ手を触れなかった。
状態を見る必要もない。
湿気も熱も入らない。虫も来ない。定期的に金庫そのものを確認している。
買った時からずっと、一度も開いていない。
「じゃあ確認だ」
シャワルは予備の鍵をオルドへ渡した。
「俺が死んだら、お前がここを開けろ」
オルドは受け取らなかった。
鍵が二人の間に残る。
「縁起でもない」
「葬式の手順に縁起を求めるな」
「まだ元気だろうが」
「七十四だぞ」
「俺は七十五だ」
「ならお前も準備しろ」
「俺の話はしてない」
「今してる」
オルドの眉間に深い皺が寄った。
本気で怒っているわけではない。けれど冗談で流したくもないらしい。
シャワルは伸ばしていた手を引かなかった。
「先に死んだ方が面倒を掛ける。それだけだ」
「お前が先とは決まってない」
「だから、お前が先なら別の奴に頼む」
「もう決めてるのか?」
「候補はいる」
「腹立つな、お前」
ようやくオルドが鍵を取った。
太い指の中に、小さな鉄の鍵が収まる。
シャワルは金庫の中の十二巻を見る。
「開ける。出す。中は読まない。そのまま棺へ入れる」
「分かってる」
「念のためだ」
「何十回聞いたと思ってる」
「数えてない」
「俺もだよ」
オルドは鍵を握ったまま、しばらく十二巻を見ていた。
「なあ」
「なんだ」
「死ぬ前に読みたくならないのか」
シャワルはすぐには答えなかった。
質問そのものは珍しくない。
昔から何度か聞かれている。
最終巻が怖いわけではない。
悲しい結末だと思っているわけでもない。
むしろセルマが幸せになって終わるかもしれないと、普通に考えている。
それでも開かない。
十一巻の最後から先を、シャワルは知らない。
どこへ行ったのか。
誰と一緒にいるのか。
旅を続けたのか。
故郷へ帰ったのか。
笑っているのか。
怒っているのか。
何も分からない。
分からないままだから、シャワルの中ではまだ道が続いている。
「死ぬ前は、まだ生きてるだろう」
オルドが視線だけを向ける。
「だから読まん」
「余命一日でも?」
「一日ある」
「一時間なら」
「一時間ある」
「一分」
「しつこいな」
シャワルが笑うと、オルドは笑わなかった。
「死んだ後の俺には読めない」
「……ああ」
「ちょうどいい」
そこで初めて、オルドが大きく息を吐いた。
「お前なあ」
「何だ」
「そういうことを笑って言うから腹が立つんだよ」
シャワルは少し黙った。
オルドが何に腹を立てているのかは分かる。
十二巻の話ではない。
昨日の工房でもない。
歳を取ったことそのものだ。
四十年近く同じ現場に立ってきた男が、自分のいない時の手順を当たり前のように決めている。
それを気に入らないと思うくらいには、二人は長く一緒にいた。
「すぐ死ぬつもりはない」
シャワルが言う。
「当たり前だ」
「まだ読んでない巻が十一冊ある」
オルドが怪訝な顔をした。
「全部読んでるだろ」
「また読む」
「……お前の場合、冗談になってないんだよ」
ようやくオルドが笑った。
シャワルも少しだけ口元を緩める。
金庫の扉を閉めた。
厚い金属の向こうへ十二巻が消える。
鍵を掛ける音が地下室に小さく響いた。
「それ、なくすなよ」
「なくさねえよ」
「酔ってどこかに置くな」
「お前の葬式用の鍵持って飲みに行くほど趣味悪くない」
「ならいい」
「よくねえよ。そもそも俺より先に死ぬな」
シャワルは階段へ向かいかけ、足を止めた。
振り返る。
オルドは冗談を言った顔ではなかった。
何か気の利いた返事を探したが、シャワルには見つからなかった。
「努力はする」
結局、それしか出てこなかった。
オルドは呆れたように鼻を鳴らす。
「そこは『分かった』でいいだろうが」
「分からんことを分かったとは言えん」
「ほんっとに可愛くねえな」
二人で階段を上がった。
途中、オルドは本当に手すりを付ける場所を測り始めた。
シャワルが「今日はいい」と言っても聞かない。
壁の長さを測り、取り付け位置を指で確かめ、勝手に紙へ数字を書きつけている。
「来週付ける」
「まだ頼んでない」
「俺が頼んだ」
「誰に」
「俺に」
「勝手だな」
「お前に言われたくない」
昔は巨大な魔術設備を直していた技師が、今は友人の家の手すりを付ける寸法を測っている。
シャワルはそれを見て、妙におかしくなった。
「笑うな」
「いや」
「何だ」
「お前も小さい仕事するようになったなと思って」
オルドは測り紐を巻き取りながら、シャワルを睨んだ。
「人が階段から落ちないようにする仕事のどこが小さい」
シャワルは返事をしなかった。
昨日、自分も似たようなことを言った気がした。
大きな魔術を止めた者だけが人を助けたわけではない。
棚を持ち上げた者がいる。
主線を切った者がいる。
壊すと決めた者がいる。
小さい仕事かどうかは、助かった側には関係ない。
「そうだな」
今度は素直に答えた。
オルドは一瞬だけ意外そうな顔をして、それから測った紙を懐へしまった。
夕方になる前に、オルドは帰った。
玄関先で靴を履き、最後にもう一度だけ念を押す。
「今日はもう魔術使うなよ」
「使う用事がない」
「呼ばれても行くな」
「内容による」
「行くな」
「だから内容による」
「お前な――」
「大きい事故なら俺じゃなく、まず現役の連中が呼ばれる。心配するな」
それでようやくオルドは口を閉じた。
「飯も食え」
「食っただろ」
「夜もだ」
「分かった」
「薬は」
「飲む」
「本は」
「読む」
「そこだけ返事が速いんだよ」
扉が閉まる直前まで文句を言っていた。
家が静かになる。
シャワルは台所へ戻り、朝から直していた第五巻を手に取った。
糸はもう馴染んでいる。
背を軽く開いても、頁は浮かない。
これならまだ読める。
本棚へ戻そうとして、少し考え、代わりに第一巻を抜いた。
表紙を開く。
見慣れた最初の頁が現れる。
何十年も前、初めて読んだ時と書いてある文字は変わらない。
けれど、読む自分はもう七十四歳になった。
今日はどこまで読もうかと考えながら、シャワルは椅子へ座った。
地下の金庫には、十二冊目だけが新品のまま残っている。
それでよかった。
上の十一冊は、まだ何度でも開けるのだから。




