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最後になる前に

警鐘が鳴り始めた時、工房の正面扉からは白い煙が噴き出していた。


カーデルム東区の通りには、仕事を止めた近隣の職人たちが集まりかけている。

だが、駆けつけた救助員が腕を広げて押し戻し、工房の前にはすぐに人のいない空間が作られた。


「下がってください! 中の制御がまだ生きています!」


怒鳴り声に重なるように、建物の奥から低い震動が響いた。


窓枠が細かく揺れる。壁の隙間から漏れる淡い青白い光が、脈を打つように明滅した。


工房長の男は煤で黒くなった頬を拭うこともせず、入口へ戻ろうとして救助員に肩を掴まれていた。


「レムがまだ中なんだ! 奥の作業台のところにいる!」


「分かっています。ですが、今入れば救助員まで巻き込まれます」


「さっきまで動いてたんだぞ! 急に床が跳ねて、それで棚が――」


男の声が途切れた。


また震動が来た。


今度は、乾いた音が一つ混じった。陶器の皿へ細いひびが入るような音だった。


入口脇で内部を確認していた若い技師が、顔色を変える。


「まずい。中央の制御がもう持ちません」


「どれくらいだ」


救助隊の責任者が短く尋ねる。


「分かりません。次に大きく揺れたら、それで終わるかもしれない」


その言葉を聞いた工房長が、救助員の手を振りほどこうとした。


「だったら余計に行かせろ!」


「あなたまで中に残すわけにはいきません!」


言い争いの横を、一人の老人が歩いてきた。


灰色の外套は急いで羽織ったらしく、襟の片方が内側へ折れている。

白髪の多い髪も風に乱れたままだった。

細身で背筋はまだ伸びているが、歩幅は若い救助員ほど大きくない。


それでも老人は誰かに道を空けてもらうのを待たず、人の隙間を抜けて入口まで来た。


救助隊の責任者だけは老人の顔を見ると、工房長を押さえていた手を別の隊員へ任せた。


「シャワルさん」


短く呼ばれた老人は頷くだけで、煙の向こうへ目を向けた。


「中に一人か」


工房長が振り向く。


「え?」


「残ってる人間だ。一人だけか」


「あ、ああ。若い職人が一人。レムだ。棚が倒れて、足が挟まってる」


老人は次に若い技師を見る。


「止まろうとしてる設備じゃないな」


「はい。魔力を抜く前に制御板が割れます。完全に割れたら、溜まっている魔力が工房内へ一気に流れます」


「外までは?」


「建物の中ほどじゃ済みません。少なくとも、この前は空けた方がいいです」


老人は一度だけ頷いた。


説明を聞きながら、右手を入口へ向ける。


風が細く入り込んだ。


煙を吹き飛ばすような強い風ではない。床を撫で、壁を伝い、熱を含んだ空気の流れを拾う程度の弱い風だった。


老人は目を細めた。


建物の奥で何かが軋んでいる。


目には見えない。だが、空気の流れへ混じって返ってくる魔力の揺れは分かった。

中央の制御はもう崩れている。亀裂が広がること自体は止められない。


問題は、その先だった。


亀裂が最後まで繋がった瞬間、今まで押し留められていたものが一気に外へ出る。


老人は手を下ろした。


「救助には?」


救助隊の責任者が答える。


「入口から奥まで二十秒。棚を持ち上げて、負傷者を運び出すのに二十から三十。何も増えなければ、ですが」


「長いな」


「だから入れません」


「そうだな」


あっさり同意され、責任者の眉が動いた。


老人は工房長へ顔を向ける。


「奥へ入って左か右か」


「右だ。中央炉の手前を右。三つ目の作業台の横にレムがいる」


「途中で崩れてる場所は」


「最初の棚が二つ。でも、人一人なら通れる」


「魔力を切れる場所は?」


この問いには若い技師が答えた。


「中央の手前に主線があります。ただ、今切れば制御の均衡が崩れます」


「完全に割れる前なら?」


技師は一瞬口を閉じた。


視線が工房の奥へ向く。


「……制御を持たせたまま切れれば、内部の圧はかなり下がります」


工房長が技師を見る。


「切ったら炉は?」


「駄目です。焼き直しじゃ済みません。たぶん全部交換です」


工房長の顔が固まった。


その炉は工房の中心だった。何年使ってきた物か、老人には分からない。

ただ、男の表情だけで軽い損失ではないことは分かった。


建物の奥から、三度目の震動が来る。


青白い光が一瞬強くなった。


若い技師が息を呑む。


「来ます!」


老人は前へ出た。


「なら、決めろ。炉か人か」


工房長は唇を噛んだ。


迷ったのはほんの一瞬だった。


「炉を切る。レムを出す」


「分かった!」


若い技師が即座に腰の工具袋を確かめる。


救助隊の責任者も二人の隊員へ手を上げた。


「入る準備!」


そこで初めて、工房長が老人の横顔をまじまじと見た。


「待ってくれ。あんた、何をするつもりだ?」


老人は返事の代わりに、入口の敷居を越えた。


熱い空気が頬を撫でる。

煙の向こう、工房中央に据えられた大きな石板には何本もの光る亀裂が走っていた。


新しい亀裂が一本伸びる。


端まで届けば終わる。


老人――シャワル・ミレイスは、ゆっくり右手を上げた。


歳を取った手だった。


細かな傷の残る指は、何もしていなくてもわずかに震える。


それでも風を扱う時だけは、その震えまで含めて自分のものだった。


どこを押せばいいのか。


どこまでなら進ませていいのか。


何を止めてはいけないのか。


長く現場に立ち続けた身体は、考えるより先に必要な場所を探していた。


石板の亀裂が最後の指一本分へ達する。


シャワルの指先から、薄い風が滑った。


轟音は起きない。


眩しい光もない。


ただ、石板の表面を覆うように、ほとんど透明な風の膜が一枚だけできた。


光の加減で、その縁が白く見えた。


頁を一枚めくりかけて、指で止めたような薄さだった。


亀裂は止まらない。


細かく枝分かれし、石板の表面を走る。


内部の光も荒れている。


火花も散っている。


だが、最後の一本だけが端へ届かない。


届こうとして震えている。それでも、最後の端へは届かない。


シャワルは振り返らなかった。


「止めた」


工房長が息を吐いた。


「直ったのか?」


「直ってない」


「え?」


「壊れかけたままだ。急げ」


救助隊の責任者がすぐに叫ぶ。


「入るぞ!」


二人の救助員と若い技師が工房へ飛び込んだ。


シャワルの横を抜け、煙の向こうへ消える。


工房長も一歩出たが、責任者に止められる。


「あなたはここで経路を指示してください!」


「でも――」


「中の人間が迷った時、場所を知ってる人が外に必要です!」


工房長は歯を食いしばり、入口へ身を寄せた。


「最初の棚を越えたら右だ! 床に散ってる金具を踏むな、滑るぞ!」


奥から「了解!」と声が返る。


シャワルはその声を聞きながら、石板だけを見ていた。


掌にかかる圧が少しずつ増していく。


抑えているのは力そのものではない。


暴れる魔力は暴れたままだ。


壊れた板も壊れたまま。


ただ、最後の破断だけを先へ行かせない。


それだけなのだが、終わりたがっているものほど素直ではない。


薄い風の向こうで、亀裂が何度も押してくる。


指先が冷たくなる。


肩から腕へ重さが乗った。


昔ならもう少し余裕があった、と考えかけて、やめた。


昔の手はここにはない。


今ある手で持たせればいい。


「レム!」


奥から救助員の声。


続いて、苦しそうな若い声が返る。


「ここ……です!」


工房長が入口へ身を乗り出した。


「生きてる!」


誰に向けたとも分からない声だった。


それだけで、周囲に張り詰めていた空気が少し動いた。


だが、シャワルは石板から目を離さない。


「喜ぶのは外へ出してからにしろ」


工房長がはっとして口を閉じる。


奥では倒れた棚を動かす音が始まった。


救助員二人が持ち上げ、若い技師が挟まった足元を確認しているらしい。


「上がらない!」


「奥が引っかかってる!」


「レム、痛むけど足を少し引けるか!」


「む、無理です!」


いくつもの声が煙の向こうで重なる。


シャワルの掌へ、さらに強い圧が来た。


風の膜が一度だけ大きく撓む。


若い技師が叫んだ。


「工房長!このままじゃ主線を切れません!棚が線の上に倒れてます!」


工房長の顔から血の気が引く。


「裏の副線は!」


「そこまで回ったら間に合わない!」


救助隊の責任者が振り返った。


「シャワルさん、どれくらい持ちます!」


「分からん」


「分からない?」


「終わろうとしてる物に聞け」


「今それ言います!?」


「俺も知りたい」


責任者が一瞬だけ目を剥いた。


それでも次の瞬間には、工房の奥へ向き直っていた。


「主線の上の棚を切れないか!」


工房長が叫ぶ。


「棚の下に固定棒がある! 右側を先に外せ! 左からやると全部倒れる!」


奥で工具の音が一度、二度と響き、続いて金属が弾けた。


「外れた!」


「棚をずらすぞ!」


シャワルの肘がわずかに下がる。まずいと気づくより早く左手を右の手首へ添えた。


風の膜が保たれる。


もう格好をつける年でもない。片手で足りなければ両手を使えばいい。


背後で工房長が何か言いかけたが、シャワルは先に口を開いた。


「中を見るな。次の指示を出せ」


男の視線が揺れる。


それから奥へ向き直った。


「主線は床の赤い印の下だ!覆いごと壊していい!」


「いいんですか!」


若い技師の声。


「全部壊せ!後で俺が謝る!」


「分かりました!」


返事の直後、鈍い破砕音がした。


工房長の肩が小さく跳ねた。


自分で育ててきた工房の一部が壊される音だ。


それでも男は止めなかった。


「そのまま切れ!」


数秒後、石板の光が変わった。


荒れていた青白い光が一度大きく膨らみ、次いで少し弱くなる。


シャワルの掌に乗っていた重さもわずかに減った。


「切れたぞ!」


若い技師が叫ぶ。


「圧が下がってる!今ならいけます!」


「レムを出せ!」


救助員たちの足音が近づいてくる。


最初に若い技師が煙から飛び出し、振り返って道を空けた。


続いて救助員二人。


その間には、作業着の青年が抱えられている。片足は力なく垂れていたが、目は開いていた。


「工房長……」


「喋るな、馬鹿!」


工房長が駆け寄る。


怒鳴った声は途中で掠れた。


「外へ運べ! 治療所は連絡済みだ!」


救助隊の責任者が指示し、青年はそのまま通りの向こうへ運ばれていく。


シャワルはまだ手を下ろさない。


人が出たから終わりではない。


若い技師が入口へ戻り、荒い息を整えながら石板を見た。


「主線は切りました。残った魔力は逃がせます」


「どっちへ」


「炉の裏から外の排出口へ。工房長、開けます!」


「やれ!」


若い技師が壁際の操作板へ走る。


工房長も別の場所へ回り、手動の留め具を引いた。


低い音とともに、建物の裏側から白い蒸気のようなものが噴き上がった。


石板の光がさらに弱まる。


シャワルは風の膜へ触れている感覚を確かめた。


もう押してこない。


最後へ進むための力が抜けていく。


「離すぞ」


責任者が周囲を見る。


「全員、入口から下がれ!」


入口に残っていた人々が一斉に距離を取る。


シャワルは一度息を吐き、両手を下ろした。


薄い風が消える。


石板の端へ届かずにいた亀裂が、乾いた音を立てて最後まで走った。


工房長の肩が強張る。


だが、何も噴き出さなかった。


光を失った石板が、中央から二つに割れて床へ落ちただけだった。


静かになった工房で、小さな破片が転がる音がした。


「……終わった?」


工房長が呟く。


若い技師が状態を確かめ、力の抜けた顔で頷いた。


「はい。炉は駄目です。でも、もう暴れません」


工房長はその場へ座り込みそうになりながら、入口の柱へ手をついた。


「そうか……」


シャワルも一歩下がった。


途端に膝が少し頼りなくなる。


それを見た救助隊の責任者が腕を伸ばしたが、シャワルは柱へ先に手をついた。


「大丈夫ですか?」


「年寄りが立ちっぱなしだっただけだ」


「さっきまで工房一つの暴発を止めていた人が言うことですか」


「立ちっぱなしだったのも本当だ」


責任者は何とも言えない顔をした。


そこへ、運ばれたはずのレムが担架の上から声を上げた。


治療所へ向かう前に、どうしてもこちらを見たかったらしい。


「すみません……!」


シャワルが顔を向ける。


青年は痛みで汗を浮かべながら、それでも頭を起こそうとしていた。


「ありがとうございました。俺、あのままだったら……」


「頭を上げるな。足が痛むだろ」


「でも、助けてもらって」


シャワルは青年の横にいる救助員たちを見た。それから主線を切った若い技師と、壊す決断をした工房長へ視線を移す。


「俺は止めただけだ」


レムは意味が分からないという顔で瞬いた。


「え?」


「お前を引っ張り出したのはあいつらだ。炉を捨てると決めたのは工房長。魔力を抜いたのはそこの技師だ」


工房長が苦い顔で笑った。


「その時間を作ったのはあんただろ」


「だから俺の仕事も要った。それだけだ」


シャワルは柱から手を離した。


まだ足元は少し重い。


それでも自分で歩ける。


「礼なら治ってから全員に言え。今は運ばれろ」


「……はい」


担架が動き始める。


レムは今度こそ大人しく横になった。


工房長は壊れた工房を振り返った。


割れた石板。倒れた棚。切断された主線。しばらく仕事にはならないだろう。


それでも、担架が通りの角を曲がるまで見送ってから、大きく息を吐いた。


「炉なんか、また作ればいいか」


誰に言うでもなく呟く。


若い技師が煤だらけの顔で笑った。


「今度はもっと安全なのにしましょう」


「お前、今それ言うか?」


「今だからです」


工房長も、とうとう笑った。


シャワルはそのやり取りを聞きながら、折れていた外套の襟を直した。


帰って本を読むには、まだ十分早い時間だった。


その夜、シャワルは自宅の机で細い銀縁の眼鏡を掛けた。


昼間に付いた煤は落としたが、指先にはまだ少しだけ疲れが残っている。


本棚には、同じ題名の本が十一冊並んでいた。


『風見鶏の街道』。


十一冊はどれも古く、背表紙は何度も直され、角は丸くなり、頁の端は薄く色を変えている。


シャワルはその中から第五巻を抜いた。


開けば、勝手に馴染んだ辺りへ頁が寄る。


セルマが自分も怪我をしているくせに、別の負傷者を背負おうとして仲間に怒られるところだった。


シャワルは椅子へ深く座り、同じ場面をまた読む。


百回を越えたかどうかは、もう覚えていない。


それでも、読み飛ばそうとは思わなかった。


昼間、担架の上から無理に頭を起こそうとした若い職人を思い出し、頁の中のセルマへ小さく呟く。


「お前も大人しく運ばれろ」


もちろん返事はない。それでいいと、シャワルは少し笑って、次の頁をめくった。


工房で最後まで届かなかった亀裂とは違い、その頁は何の抵抗もなく、いつもの続きへ進んだ。


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― 新着の感想 ―
シャワルさんの活躍かっこよくて憧れました現実世界と異能力の組み合わせというアイデアなかなかなく面白いと感じました老魔術師が主人公なのに周りの人たちの活躍も負けてないと思いました
Xの企画から来ました。 シャワルの質実剛健。 という感じのキャラが良いですね。 そして好きな作品の最終巻をあえて読まないスタイルも良いです。
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