私は十二巻まで読んだ
フィアがシャワルの家へ来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
扉を開けると、少女は胸の前で両手を組み、妙に神妙な顔をして立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
いつもなら「おじいさん」と一言余計に付けるのに、今日はない。
シャワルは少女の後ろを見る。
母親はいない。
「一人か」
「ここまでなら行っていいって」
「ニナが?」
「お母さんが。ニナ先生も、もう普通に歩いていいって言ってた」
左腕を見る。
治療後に巻かれていた布もすでにない。
「走ったか」
「ちょっとだけ」
「帰ったら言っとく」
「何で!?」
ようやくいつもの声に戻った。
シャワルは身体をずらして中へ入れる。
「それで、何しに来た」
「話がある」
「怖いな」
「大事な話」
フィアは家へ入り、靴を脱いだ。
それから居間へ向かう途中で、本棚の方をちらりと見る。
シャワルはその視線に気づいた。
同じ装丁の十一冊。
『風見鶏の街道』。
五日前、ここで初めてフィアに見せた本だった。
あの日、少女は図書館へ行って読んでみると言った。
それから何度か顔を合わせたが、本の話はしていない。
シャワルは台所へ向かう。
「茶でいいか」
「うん」
「菓子はない」
「今日は持ってきた」
フィアが小さな袋を掲げた。
「また母親が作ったのか」
「今日は買ったやつ」
「選んだのは?」
「わたし」
「なら大事だな」
前にも似たようなことを言った気がする。
フィアは少し笑い、居間の椅子へ座った。
シャワルが茶を淹れて戻る間も、いつもより大人しい。
袋を開けるでもなく、机の上へ置いた両手を何度も組み直している。
シャワルは向かいへ座った。
「悪いことしたなら先に言っとくが、俺は怒らんぞ」
「してない!」
「なら何だ」
フィアは一度口を開いた。
閉じる。
もう一度開く。
「……読んだ」
シャワルは茶へ手を伸ばした。
「何を」
フィアの目が丸くなる。
「分かるでしょ!」
「本は世の中に一冊じゃない」
「『風見鶏の街道』!」
「ああ」
「全部」
シャワルの手が止まった。
一巻から十一巻まで、という意味ではないことはすぐ分かった。
フィアはわざわざ「全部」と言った。
「十二まで?」
「うん」
シャワルは茶を一口飲んだ。
「そうか」
それだけだった。
フィアが待つ。
シャワルも待つ。
やがて少女の眉が寄った。
「……それだけ?」
「他に何がある」
「怒らないの?」
「何で」
「だって十二巻」
「十二巻だな」
「シャワルさんは読んでない」
「読んでない」
「わたしは読んだ」
「聞いた」
「だから!」
フィアは身を乗り出した。
「嫌じゃないの?」
そこでようやく、何を気にしていたのか分かった。
シャワルは少女を見る。
「別に」
「ほんと?」
「ああ」
「セルマがどうなったか、わたし知ってるよ」
「そうだろうな」
「最後も全部」
「十二巻を読んだならな」
フィアはますます分からない顔になった。
シャワルは先に釘を刺す。
「ただし言うなよ」
「言わない!」
「なら問題ない」
「それで終わり?」
「お前は何を期待して来たんだ」
聞くと、フィアが少し気まずそうに視線を逸らした。
「ちょっとだけ……」
「何だ」
「シャワルさん、悲しくなるかなって」
意外な答えだった。
シャワルは少しだけ目を細める。
「何で悲しむ」
「自分はずっと読んでないのに、わたしが先に知っちゃったから」
「先も何もない。俺より先に読んだ奴なんて何万人もいるだろ」
「そうだけど」
「作者も知ってる」
「それはそうでしょ」
「本屋も読んでるかもしれん」
「知らないよ」
「お前の母親も読めば知る」
「読まないと思う」
「なら知らん」
フィアがじっとこちらを見る。
それからようやく肩の力を抜いた。
「変なの」
「またそれか」
「だって、そんなにセルマのこと好きなのに」
「好きだから他人にも読むなとはならんだろ」
「なる人もいそう」
「いるかもしれんな」
「シャワルさんはならないの?」
「ならん」
シャワルは即答した。
「俺が読まないのは、俺の都合だ」
フィアは机の上の茶を見ながら考える。
「じゃあ、わたしが読んだのは、わたしの都合?」
「そういうことだ」
「都合って言うと悪いみたい」
「悪くない」
シャワルは菓子の袋を自分の方へ引き寄せた。
「食っていいか」
「いいよ。話まだ終わってないけど」
「食いながら話せる」
一つ取る。
硬めの焼き菓子だった。
フィアも一つ食べる。
しばらく二人で黙って噛んだ。
先に口を開いたのはシャワルだった。
「面白かったか」
フィアが顔を上げる。
「え?」
「十二巻」
一瞬、少女の表情が明るくなった。
「うん!」
「ならよかった」
「すごく――」
そこまで言ったところで、フィアが自分で口を押さえた。
シャワルは笑う。
「危なかったな」
「今のはまだ何も言ってない!」
「その勢いは危ない」
「ちゃんと気をつける」
「そうしてくれ」
フィアは口から手を離した。
それでも話したくて仕方がないらしい。
身体が少し前へ出ている。
「でもね、十二巻の――」
シャワルが指を一本上げる。
フィアが止まる。
「十二巻の話は禁止?」
「内容はな」
「感想も?」
「結末が分からない感想ならいい」
「難しい!」
「なら別の巻の話をしろ」
フィアは少し不満そうだったが、すぐ切り替えた。
「じゃあ三巻!」
「いいぞ」
そこから急に話が止まらなくなった。
三巻で旅の一行が仕事を引き受けすぎて揉める場面。
四巻で宿代が足りなくなり、全員で働くことになる話。
六巻でセルマが他人の喧嘩へ勝手に入って、自分まで怒られるところ。
シャワルはどれも知っている。
何度読んだか覚えていないくらい知っている。
それでも、フィアが何を面白がったのかは知らなかった。
「あそこ絶対セルマが悪いよ」
フィアが言う。
「俺もそう思う」
「好きなのに?」
「好きでも悪い時は悪い」
「でも最後はちゃんと助けた」
「助ければ最初に殴りかかったのが消えるわけじゃない」
「厳しい」
「本人も途中から反省してただろ」
「でも謝るの遅かった」
「そういう奴だ」
シャワルは笑った。
フィアはセルマを嫌っているわけではない。
ただ、シャワルほど好きではないらしい。
そのことも面白かった。
「一番好きなのは誰だ」
フィアはすぐに答えなかった。
目線が上へ向く。
「あの人かな」
「どの人だ」
「七巻で、宿の人に値段聞く時いつも最初に高いって言う人」
シャワルは思い出す。
「あいつか」
「名前忘れた」
「一番好きなのに?」
「顔とやることは覚えてる!」
「名前も覚えてやれ」
「シャワルさんだって本当に好きなのセルマだけじゃない?」
「一番はな」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
フィアが笑う。
名前を思い出そうとして何度か唸り、結局諦めた。
「また借りる時に見る」
「また読むのか」
「うん」
「十二巻も?」
質問したあとで、フィアが少し驚いた顔をした。
シャワルは普通に菓子を食べている。
「読むよ」
「そうか」
「いいの?」
「何が」
「何回も」
「好きなら読めばいい」
「シャワルさんと同じだ」
「十二巻だけは違う」
「そこだけね」
少女は笑った。
シャワルも少し口元を緩める。
話が一段落した頃には、茶がほとんど冷めていた。
フィアは残っていた一口を飲み、また本棚を見る。
「シャワルさん」
「何だ」
「本当に気にならないの?」
「何が」
「最後」
「気になる」
今度はフィアが黙った。
「気になるの?」
「ああ」
「じゃあなんで読まないの」
「前にも聞いただろ」
「聞いたけど」
「答えも同じだ」
シャワルは本棚を見る。
十一冊。
地下にはもう一冊。
そこに何が書いてあるのかを知りたい気持ちは、何十年経っても消えていない。
セルマはどこへ行ったのか。
誰と別れたのか。
誰と残ったのか。
旅を続けたのか。
笑って終わったのか。
何も知らない。
知りたくないわけではなかった。
むしろ、知りたい。
だから読まないという選択に意味がある。
「気になるのと、読むのは別だ」
フィアは納得できない顔をする。
「我慢してるってこと?」
「我慢とは少し違うな」
「じゃあ何?」
シャワルは答えを探した。
難しい言葉にすれば、いくらでも言える。
でも十一歳の子供へ、自分の妙なこだわりを立派な思想のように話す気にはならなかった。
「俺がそうしたい」
結局、それだけ言った。
「それだけ?」
「それだけ」
フィアはしばらく考えた。
「分かんない」
「そうか」
「でも、前よりちょっと分かる」
「どっちだ」
「全部は分かんないけど」
少女は本棚を見た。
「わたしは最後まで知りたかった」
「ああ」
「だから読んだ」
「ああ」
「シャワルさんは、知りたいけど読まない方がいいんでしょ?」
「いい、というより」
シャワルは少しだけ考え直す。
「読まない方を選んでる」
「自分で?」
「自分で」
フィアが頷いた。
「じゃあ違うだけだ」
その言葉に、シャワルは少女を見る。
フィア自身は大したことを言ったつもりはないらしい。
残っていた菓子を選んでいる。
一番大きなものを取った。
「そうだな」
シャワルが答えた。
「違うだけだ」
それでよかった。
フィアは菓子を食べ終えると、そろそろ帰ると言った。
「暗くなる前に帰れって言われてる」
「珍しく言いつけを守るな」
「いつも守ってる」
「走った」
「あれはちょっと」
「ちょっと破った」
「細かい!」
玄関まで見送る。
靴を履いたフィアが扉へ手を掛けたところで、急に振り返った。
「あ」
「何だ」
「十二巻のセルマなんだけど」
シャワルの手が即座に上がった。
「待て」
フィアが口を閉じる。
二人で数秒見つめ合った。
「……何も言ってないよ」
「言い始めただろ」
「言おうとしただけ」
「同じだ」
「違うよ」
フィアは笑った。
「大丈夫。言わない」
シャワルは手を下ろす。
「頼む」
「約束したから」
そこで少女は少しだけ真面目な顔になった。
「わたし、知ってるけど、シャワルさんには知らないままでいてほしいって思う」
シャワルは眉を上げた。
「何で」
「シャワルさんがそれがいいって言うから」
答えは単純だった。
フィアは自分の読み方を変えない。
でも、シャワルの読み方も変えようとしない。
五日前、ここで話をした時には「じゃあ読めばいいのに」と何度も言っていた少女だった。
今も理解しきってはいないだろう。
それでも、理解できないことと尊重できないことは同じではないらしい。
「助かる」
シャワルが言う。
フィアは満足そうに頷いた。
「じゃあまたね」
「ああ」
「次は七巻の人の名前覚えてくる」
「一番好きなら今日覚えろ」
「次までには!」
フィアは外へ出た。
今度は走らず、通りを歩いていく。
角を曲がる直前に一度振り返り、手を振った。
シャワルも軽く手を上げる。
少女の姿が見えなくなってから家へ戻った。
居間へ入る。
机には食べ終えた菓子の袋と、二つの杯が残っている。
シャワルは片付ける前に本棚へ向かった。
十一巻へ手を掛ける。
少し考えて、今日は一巻を抜いた。
フィアが数日前に初めて読んだ頁を、自分はもう何度読んだだろう。
椅子へ座る。
眼鏡を掛ける。
最初の頁を開いた。
十二巻の内容を知っている人間が、また一人増えた。
シャワルの知らない最後を知り、そのうえで何も教えず帰っていった。
不思議なことではない。
世界には、自分の知らないことなどいくらでもある。
知っている人もいる。
知らない人もいる。
知りたい人がいて、知ろうとしない人もいる。
それでいい。
頁を一枚めくる。
まだ最初だった。




