あとがき
ここまで『最後の一行は、まだ読まない』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語を書こうと思った理由について、最後に少しだけお話しさせてください。
作中でシャワルは、全十二巻で完結している『風見鶏の街道』という物語を愛しています。
第一巻から第十一巻までは、擦り切れるほど何度も読む。
けれど、最終巻である第十二巻だけは決して開かない。
実は、この設定には私自身の経験がかなり強く反映されています。
私にも、全十二巻で完結している大好きな物語があります。
私はその作品を第十一巻まで読みました。
そして第十二巻だけは、今も読んでいません。
買っていないのではありません。
きちんと手元にあります。
ただし、本棚ではなく金庫の中にあります。
いつか読むために保管しているわけでもありません。
最後まで読まないために、そこに置いてあります。
そして私は親しい人に、自分が死んだ時、その第十二巻を開かないまま棺へ入れてほしい、と頼んでいます。
だからシャワルが作中で語った、
「死ぬ前はまだ生きてるだろう。だから読まん」
という考え方も、私にとっては単なる物語上の奇抜な設定ではありません。
私自身がずっと抱えてきた感覚を、シャワルという人物へ預けたものです。
もちろん、その作品が終わったことを否定しているわけではありません。
作者が最後を書いたことも知っています。
最終巻が存在することも大切だと思っています。
ただ、自分だけはその最後を受け取らない。
そうすれば私の中には、まだ「知らない先」が残る。
その感覚を、私はずっと大切にしてきました。
そして、その物語のヒロインを好きになったことは、私にとって「誰かを愛するとはどういうことなのか」を考えるきっかけにもなりました。
好きなら、そばにいてほしいのか。
自分を好きになってほしいのか。
自分を選んでほしいのか。
自分の望む場所で、自分の望むように生きてほしいのか。
何度も自問自答しました。
そして最後に辿り着いたのは、とても単純なものでした。
たとえ、その人のそばに自分がいなくてもいい。
自分のことなど知らなくてもいい。
自分とはまったく関係のない場所で生きていたとしてもいい。
ただ、その人が幸せでいてくれるなら、それでいい。
私は、それを愛と呼んでもいいのではないかと思いました。
シャワルがセルマへ抱いていた気持ちは、そこから生まれています。
だから彼は、セルマを自分のものにしたいとは思いません。
彼女が自分を愛してくれる姿を想像する必要もありません。
ただ、自分の知らないところで歩いていてほしい。
笑っていてほしい。
幸せでいてほしい。
そして、その「自分の知らない先が残っていてほしい」という願いが、シャワルだけの魔術『未読』へと繋がりました。
ただし、この物語を書いていくうちに、『未読』は本の結末だけを表すものではなくなりました。
シャワルは、終わりそのものを嫌っているわけではありません。
仕事は終わる。
物は壊れる。
人はいつか死ぬ。
終わったものを無理に元へ戻そうともしません。
それでも、まだ誰かが逃げているなら。
まだ誰かが治そうとしているなら。
まだ誰かが手を伸ばしているなら。
その人が次へ進むための、ほんの少しの時間だけは残してやりたい。
「最後はある。でも、今でなくてもいい」
そんな願いを持った人として、シャワルを書きました。
彼の魔術が問題そのものを解決できないのも、そのためです。
シャワルにできるのは、最後を少しだけ待たせることだけ。
治すのは別の誰か。
直すのも別の誰か。
逃げるのも、生きるのも、その人自身です。
彼は誰かの人生を自分のものにはできません。
ただ、その人自身の続きを生きるための時間を渡す。
私がこの物語で一番書きたかったのは、そこだったのかもしれません。
そしてシャワル自身の最後だけは、『未読』にはしませんでした。
怖い。
まだ生きたい。
まだ本を読みたい。
そんな気持ちを持ったまま、それでも自分の人生の終わりは受け取る。
ただ一冊だけ、最後まで知らない物語を抱えて。
それが、私なりに考えたシャワル・ミレイスという一人の人間の生き方です。
この物語を読んで、何か一つでも心に残るものがあったなら、とても嬉しく思います。
そして、もしシャワルたちの物語や、私の描く世界を気に入っていただけましたら、ぜひ他の作品にも触れていただけると嬉しいです。
そこにはまた、シャワルとは違う願いを抱き、違う答えを選びながら生きている人たちがいます。
最後まで『最後の一行は、まだ読まない』を読んでくださったこと。
シャワルの人生を、その終わりまで見届けてくださったこと。
心から感謝いたします。
本当に、ありがとうございました。




