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最終話 最後の一頁

十一冊の本が、箱に入ってやってきた。


葬儀から七日後。


フィアの家を訪れたオルドは、大きな木箱を両手で抱えていた。


「重い」


玄関へ入るなり言う。


「本だからね」


「十一冊まとめれば重いんだよ」


「七十五歳だからじゃない?」


「お前までそれ言うようになったのか」


フィアは答えず、箱を見る。


何が入っているのか。


聞かなくても分かった。


少し前までシャワルの家に並んでいたもの。


一巻から十一巻。


何度も読まれ。


何度も直され。


最後まで、あの人が手元に置いていた本。


「……本当に持ってきたんだ」


「頼まれたからな」


「わたし、まだ欲しいって言ってない」


「知ってる」


オルドは箱を床へ置いた。


腰を伸ばす。


「嫌なら持って帰る」


「どこに?」


「俺ん家」


「読むの?」


「読まん」


「じゃあ駄目」


返事が早かった。


自分で言ってから、フィアは少し黙る。


オルドが眉を上げた。


「どうする」


フィアは箱の前へしゃがんだ。


蓋へ手を置く。


「……もらう」


「そうか」


「欲しかったわけじゃないよ」


「ああ」


「シャワルさんが死んだからもらえるのが嫌だったの」


「ああ」


「今も嫌」


オルドは急かさなかった。


「でも」


フィアは箱を開けた。


一番上に、第一巻。


見覚えのある背表紙。


新品ではない。


むしろ、古い。


角は丸い。


紙は日に焼けている。


何度も直した跡もある。


その下にも。


同じように歳を取った本が並んでいる。


「捨てる方がもっと嫌」


「なら、お前のだ」


オルドが言った。


フィアは首を振った。


「まだ、そんな感じしない」


「じゃあ何だ」


「シャワルさんの本」


「本人はいないぞ」


「分かってる」


少し強くなった声に。


オルドはそれ以上言わなかった。


フィアは一冊ずつ箱から出した。


一巻。


二巻。


三巻。


机の上へ並べていく。


六巻を出した時、手が止まる。


頁の端に、少し色の違う補修紙が見えた。


「これ」


「何だ」


「わたしが直した」


「そうなのか」


「七割」


「何の数字だ」


「わたしが直した分」


オルドが呆れた。


「多くないか」


「シャワルさんも七割って言った」


「なら仕方ねえな」


フィアは少し笑った。


笑って。


すぐに口を閉じた。


笑っていいのかと、一瞬思ったからだった。


でも。


シャワルならたぶん怒らない。


葬式で泣いたからといって。


そのあと笑ってはいけないとは、言わない人だった。


七巻。


八巻。


九巻。


十巻。


十一巻。


全部ある。


十二巻だけがない。


そこへ視線を向けていたことに、オルドは気づいたらしい。


「一緒に行った」


「うん」


「開けてない」


「聞いた」


「最後までな」


「うん」


フィアは十一冊を見る。


自分は十二巻まで知っている。


シャワルは十一巻までしか知らなかった。


もう、その差が埋まることはない。


「変なの」


フィアが言った。


「何が」


「同じ本好きだったのに」


「うん」


「知ってるところ、違うんだよ」


オルドは少し考えた。


「最初からそうだったんだろ」


「そうだけど」


「なら最後までそうだっただけだ」


「……そっか」


以前なら。


シャワルが十二巻を読まないことを、何度も不思議だと思った。


気になるなら読めばいい。


最後まであるなら知ればいい。


自分はそうした。


シャワルはしなかった。


最後まで。


どちらかが相手に合わせることもなかった。


それで。


一緒に本の話はできた。


「二巻」


フィアが言った。


「何だ」


「最後に一緒に読んだの」


二巻を手に取る。


頁をめくる。


途中に栞があった。


フィアの手が止まった。


あの日。


自分が挟んだものだった。


シャワルが疲れたと言って。


読むのをやめた場所。


「残ってた」


声が小さくなった。


オルドは何も言わない。


フィアは栞のある頁を開いた。


文章を目で追う。


知っている。


何度も読んだ。


この後、何が起きるのかも知っている。


シャワルだって知っていた。


何度も読んだのだから。


それでも。


ここが。


シャワル・ミレイスが最後に読んだ『風見鶏の街道』の頁だった。


フィアはしばらく動かなかった。


「そこにしとくか」


オルドが尋ねた。


「何を」


「栞」


フィアは考える。


この場所へずっと挟んでおく。


シャワルが最後に読んだ場所として。


それもできる。


けれど。


「ううん」


栞を抜いた。


オルドが見る。


「読む」


その先の頁をめくった。


一枚。


シャワルが最後にはめくらなかった頁。


でも。


これは十二巻ではない。


シャワル自身も、何度もその先を読んでいる。


フィアが止める理由はなかった。


「いいのか」


「何が?」


「そこ、あいつが最後に読んだところだろ」


「うん」


「残さなくて」


フィアは少し考えた。


「シャワルさん、ここを最後にしたかったわけじゃないから」


オルドが黙った。


「疲れたからやめただけ」


「ああ」


「だったら、わたしが勝手に最後にしない」


もう一頁。


セルマがまた誰かと喧嘩していた。


フィアは少し笑う。


「やっぱり怒ってる」


「誰が」


「セルマ」


「そうか」


「シャワルさん、ここ読んだらまた馬鹿って言うと思う」


「言いそうだな」


二人で少し笑った。


栞は。


机の上へ置かれた。


その日から。


十一冊はフィアの家の本棚へ並んだ。


特別な箱へしまうことはしなかった。


ガラス棚にも入れなかった。


本だから。


読んだ。


一巻を読む。


七巻へ飛ぶ。


九巻の途中から、なぜか二巻へ戻る。


そんな読み方をしている自分に気づいた時。


フィアは一人で笑った。


「似てきた」


少し嫌だった。


少し嬉しかった。


でも十二巻も読む。


自分の持っている新しい版で。


そちらも何度か読み返した。


十一冊だけで止めることはしなかった。


それが。


フィアの読み方だった。


年月が過ぎた。


町の中央制御塔は、新しくなった。


昔の建物は一部だけ残され、別の用途に使われるようになった。


第五地区も。


第七地区も。


いつの間にか、あの冬嵐を知らない子供が走る場所になった。


壊れた設備を見て、


「昔ここで大きな事故があった」


と教えられても。


子供たちは、


「へえ」


と答えて、すぐ別のものへ興味を移す。


それでいい。


事故を忘れない仕事は、大人がすればいい。


子供は、事故の続きを生きるためにいるわけではない。


フィアも大人になった。


背は、もうあの日のシャワルの肩を越えていた。


本を読むことはやめなかった。


仕事が忙しい時期には、一冊読むのに一か月掛かることもある。


逆に休みの日に、三巻を最初から最後まで読んでしまうこともある。


『風見鶏の街道』も。


まだ読む。


十一冊には。


フィアが直した場所が増えた。


六巻の補修紙だけではない。


一巻の背を直した。


三巻の糸を交換した。


八巻の角がさらに傷んだので、薄い紙で補強した。


最初の頃は。


自分が手を入れるたびに少し怖かった。


シャワルの本を変えてしまうような気がしたから。


でも。


ある時。


一巻の背が外れかけたのを見て。


そのままにする方が違うと思った。


シャワル自身だって。


壊れた本を昔の状態のまま保存していたわけではない。


読めるように直していた。


フィアも直した。


だから。


十一冊は。


シャワルが持っていた時と同じ形ではなくなっていった。


それでも。


まだ読めた。


ある日の午後。


町の小さな読書会へ。


フィアは十一冊のうち、第一巻を持っていった。


最初は別の本を読むつもりだった。


けれど。


本棚の前で少し考えて。


一巻を選んだ。


部屋には、子供が八人ほどいた。


小さい子も。


フィアがシャワルと出会った頃に近い歳の子もいる。


「古い本」


一人が言った。


「古いよ」


フィアは答える。


「ボロボロ」


別の子。


「失礼だなあ」


思わず出た言葉に。


フィア自身が少し止まった。


昔。


同じような声を聞いた気がした。


「でも読めるの?」


子供が聞く。


フィアは一巻を開く。


「読めるよ」


頁は柔らかくなっている。


何百回めくられたのか。


もう誰にも分からない。


「何回読んだの?」


「わたしが?」


「うん」


「分かんない」


自分でも数えていない。


シャワルも同じだった。


「そんなに面白い?」


別の子が尋ねる。


フィアは答えようとして。


少し考えた。


昔なら。


好きな場面を話したかもしれない。


好きな登場人物を説明したかもしれない。


今は。


別の言葉が出た。


「同じ本でも、読む人が前と同じじゃないから」


子供たちが首を傾げる。


「どういうこと?」


「今分からなくてもいいよ」


それも。


誰かがよく言っていた。


フィアは少し笑った。


「わたしも、最初は分からなかったから」


一人の子供が本の背を見る。


「十一冊しかないの?」


フィアの指が少し止まった。


「十二冊ある話だよ」


「じゃあ最後の一冊は?」


「あるよ」


「どこ?」


フィアは答えた。


「この十一冊とは別のところ」


それ以上は言わなかった。


十二巻は存在する。


自分も読んだ。


読書会の子供たちが、この物語を気に入れば。


図書館でも。


本屋でも。


続きを探せる。


十二巻まで読みたければ読めばいい。


十一巻で止める必要なんてない。


シャワルの選択は。


シャワルのものだった。


「十二巻まで面白い?」


子供が聞く。


フィアは少し笑う。


「わたしは好き」


「じゃあ読む!」


「まず一巻ね」


「長い」


「十二巻まで読みたいんでしょ」


「早くセルマ出る?」


フィアが目を丸くした。


「セルマ知ってるの?」


「さっきフィアさんが本の紹介で言った!」


「ああ、そうだった」


子供たちが笑う。


フィアも笑った。


一巻を膝へ置く。


最初の頁へ指を掛ける。


その時。


窓から風が入った。


強くはない。


本の頁が、一枚だけ浮く。


フィアは手で押さえた。


「勝手にめくらないで」


誰に言ったわけでもない。


子供が聞く。


「風に言ったの?」


「うん」


「変なの」


「知ってる」


また笑いが起きる。


フィアは頁を戻した。


最初へ。


ここには。


まだセルマはいない。


旅も始まったばかり。


この先で誰と会うのか。


何を失敗するのか。


誰を好きになるのか。


子供たちは、何も知らない。


フィアは知っている。


十二巻の最後まで。


それでも。


今から読む一巻は。


昔読んだ一巻と、少し違って見えた。


シャワルから受け取った直後に読んだ時とも違う。


十二歳だった頃とも。


大人になった今とも。


きっと。


また十年後に読めば違う。


「じゃあ、読むよ」


子供たちが静かになる。


フィアは第一巻を開いた。


何度も開かれた頁だった。


ある少年が読んだ。


青年になって読んだ。


魔術師になって読んだ。


四十七歳で読んだ。


七十四歳でも読んだ。


そして。


その人がいなくなった後。


別の少女が読み。


少女も大人になった。


今。


その先へ。


また新しい読者がいる。


シャワルが事故現場で抑えた時間は、もう残っていない。


九分も。


三十秒も。


五十五秒も。


二分半も。


全部、過ぎた。


止めた風も消えた。


あの薄い一枚を、今見ることはできない。


けれど。


その時間に治療された人がいる。


逃げられた人がいる。


壊れたものを切り離せた人がいる。


誰かの名前を忘れずに済んだ人がいる。


家へ帰れた人がいる。


次の日を迎えた人がいる。


シャワルは。


その先をほとんど知らない。


自分が助けた人間が、その後どこへ行ったのか。


誰と出会ったのか。


何を好きになったのか。


どんな失敗をして。


どんな最後を迎えるのか。


知らない。


それでよかった。


あの男は。


人を自分のところへ残すために、最後を止めたのではない。


その人自身の続きを生きてもらうために。


ほんの少しだけ。


最後を待たせた。


シャワル・ミレイス自身の最後だけは。


待たせなかった。


怖くても。


まだ読みたい本があっても。


人の命まで魔術にはしなかった。


自分の人生が終わることは、受け取った。


ただ一冊。


最後まで受け取らなかった物語を抱いて。


彼の人生は終わった。


それでも。


終わった人生の中で作られた時間まで、消えたわけではなかった。


フィアの手の中に。


十一冊がある。


町には。


今日を生きている人がいる。


そして。


フィアの前には。


この物語をまだ何も知らない子供たちがいる。


「早く読んで」


一人が言った。


フィアは笑う。


「はいはい」


古い第一巻を持ち直した。


補修された背。


丸くなった角。


自分が直したところ。


シャワルが直したところ。


どちらがどちらだったか、もう分からない場所もある。


それでいい。


本はまだ読める。


フィアは息を吸った。


そして。


『風見鶏の街道』第一巻の。


最初の一頁を開いた。


物語は。


また、そこから始まった。

シャワルの物語はこれで終わりです。

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他の投稿作品も良ければ読んでみてください。

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