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未読のまま

葬儀の朝。


オルドは一人で、シャワルの家へ入った。


合鍵は昔から持っている。


それでも扉を開けた瞬間、妙な気分になった。


「邪魔するぞ」


言ってから。


返事がないことを思い出した。


オルドはしばらく玄関に立っていた。


「……馬鹿か、俺は」


靴を脱ぐ。


家の中は静かだった。


居間へ入る。


椅子。


机。


本棚。


何も変わっていない。


最後の夜に使った杯も、すでに片付けられている。


寝台の布も交換された。


シャワル本人だけがいない。


それなのに。


今にも奥から、


「勝手に入るな」


と聞こえてきそうだった。


本棚を見る。


一巻から十一巻。


全部ある。


擦り切れた背。


丸くなった角。


何度も補修された紙。


何十年も同じ人間の手で開かれ続けた本。


十一冊だけを見るなら。


この家には、まだシャワルがいるような気さえした。


オルドは一巻へ手を伸ばしかけた。


止める。


「俺のじゃねえな」


まだ。


あれはフィアへ渡す。


本人は嫌がるだろう。


シャワルが死ななければもらえない本など欲しくないと、泣きながら言っていた。


それでも、遺言には書いてある。


ただし。


今日やる仕事は、それではない。


オルドは本棚から目を離した。


廊下を見る。


地下へ続く階段。


自分が付けた手すりがある。


「あいつ、最後までこれ使ったな」


何となく触れた。


取り付けた時。


シャワルは、


「人が階段から落ちないようにする仕事のどこが小さい」


と言った。


そのくせ、自分は危ない現場へ何度も行った。


随分勝手な男だった。


階段を下りる。


一段。


また一段。


自分も手すりを使った。


七十五歳になれば、付けておいてよかったと思う。


「俺のためでもあったな」


誰も答えない。


地下は少し冷えていた。


壁際に金庫がある。


大きくはない。


だが頑丈だった。


火。


水。


衝撃。


魔術。


盗難。


できる限り中身を守れるように作られている。


何十年も前。


シャワルがわざわざ金を掛けて用意したもの。


オルドは鍵を取り出した。


少し古い。


以前シャワルから渡された予備鍵だ。


鍵穴へ入れる。


そこで、手が止まった。


開ければ。


中にある。


分かっている。


一冊だけ。


シャワルが生涯読まなかった本。


「……本当に面倒な奴だな」


鍵を回した。


重い音がする。


金庫を開く。


中には。


本当に、それしかなかった。


『風見鶏の街道』第十二巻。


オルドは黙った。


一巻から十一巻とは、まるで違う。


綺麗だった。


背は擦れていない。


角も丸くなっていない。


紙の端も白い。


補修されたところもない。


何十年も。


一度も開かれなかった本。


オルドは手を伸ばした。


触れる。


冷たい。


「……これか」


何度も聞いてきた。


十二巻。


最後の巻。


死んだら棺へ入れろ。


開くな。


読むな。


何十年も付き合ってきたくせに。


実際にこの本へ触れたことは、ほとんどなかった。


シャワルが自分で管理していたからだ。


オルドは慎重に持ち上げた。


軽い。


当たり前だった。


ただの本だ。


町を救う魔術具でもない。


秘密の記録でもない。


国の宝でもない。


ただの娯楽小説の最終巻。


なのに。


シャワルはこれだけを、こんな金庫へ入れた。


「馬鹿だな」


口に出す。


少し笑いそうになった。


笑えなかった。


表紙を見る。


題名。


巻数。


それだけ。


開けば。


シャワルが何十年も知らなかったものが書いてある。


セルマがどうなったのか。


旅がどう終わったのか。


答えは。


すぐ目の前にある。


オルドの親指が、本の端へ触れた。


ほんの少しだけ。


表紙と頁の境目が指に当たる。


開こうと思えば。


簡単だった。


シャワルはもういない。


怒られない。


気づかれない。


一頁開いたところで。


死んだシャワルから、何かが減るわけでもない。


そう考えた瞬間。


オルドは、自分の手を本から離した。


「……違うな」


何を考えている。


これは自分の本ではない。


シャワルが読まなかった本だ。


自分が理解できるかどうかなど、最初から関係なかった。


あの男は。


作者が最後を書いたことを否定していなかった。


終わりを消そうともしていなかった。


本が燃えればいいとも。


失くなればいいとも思っていなかった。


むしろ。


「読まないためには、そこにあってくれないと困る」


昔、シャワルがそう言った。


聞いた時は。


やはり面倒な奴だと思った。


今も思う。


でも。


少しだけ分かった気がした。


最後は。


ここにある。


誰かが読める。


作者が書いた通りに存在している。


シャワルだけが。


それを受け取らなかった。


「最後まで、勝手だな」


オルドは本を胸の前へ持った。


「でも」


一度だけ。


金庫を見る。


空になった。


「その勝手を頼まれたのは、俺だからな」


金庫を閉めた。


もう鍵を掛ける必要はない。


それでも。


いつもの癖で鍵を掛けた。


十二巻を抱え。


階段を上る。


一巻から十一巻の前を通る。


十一冊は。


同じ物語なのに。


十二巻とはまるで別の時間を生きているように見えた。


何度も開かれた十一冊。


一度も開かれなかった一冊。


どちらもシャワルの本だった。


オルドは十二巻を鞄へ入れた。


頁が勝手に開かないよう、布で包む。


そして家を出た。


今度は。


「行ってくる」


とは言わなかった。


誰も待っていない家になることを。


ようやく少しだけ分かったからだった。


葬儀は、大きすぎないものになった。


それでも。


人は多かった。


グレン。


ニナ。


テオ。


仕事でシャワルと関わった者たち。


昔一緒に働いた者。


助けられたことがあるという者。


本人なら、


「何でこんなに来る」


と嫌そうな顔をしたかもしれない。


前へ出て長々と功績を語る者はいなかった。


それでよかった。


グレンは棺の前で長く立たず。


一度だけ頭を下げた。


「ありがとうございました」


それだけ。


テオは何か言おうとして。


結局、


「よく終わらせます」


と小さく言った。


オルドには、何のことか分かった。


中央制御塔で。


最後まで焦らず。


壊れていい条件を作り。


シャワルが手を離した時のことだろう。


ニナは。


棺の中のシャワルを見て、眉を寄せた。


「言ったのに」


何を。


とは言わなかった。


もっと休め。


無茶をするな。


身体を大切にしろ。


散々言った。


それでも。


最後の仕事から十か月。


シャワルはちゃんと休んだ。


本を読んだ。


散歩もした。


新しい本も買った。


だからニナも、それ以上は怒れなかったらしい。


「……ちゃんと寝てください」


最後には、それだけ言った。


そして。


フィアが来た。


母親と一緒だった。


黒い服を着ている。


十二歳の少女には、まだ少し大きく見えた。


棺の前まで来る。


動かないシャワルを見る。


長い間。


何も言わなかった。


昨日までは。


泣いていたらしい。


今日は。


涙が出ていなかった。


代わりに。


唇を強く噛んでいる。


「シャワルさん」


呼ぶ。


当然。


返事はない。


「今日も来たよ」


オルドは少しだけ目を伏せた。


最後の夜。


フィアは明日も来ると言った。


シャワルは、


「来ればいい」


と答えた。


そして。


待てるだけ待つと言った。


少女は来た。


シャワルはいなかった。


それでも。


約束を破ったわけではないのだろう。


できるだけ。


待ったのだから。


フィアが棺の横へ手を置く。


「本、途中だったよ」


第二巻。


最後の日。


二人で途中まで読んだ本。


「わたし、続き知ってるけど」


声が震える。


「シャワルさんも知ってるもんね」


返事はない。


「何回も読んでるから」


フィアが。


ようやく一粒だけ泣いた。


母親が肩へ手を添える。


少女は涙を拭いた。


そして。


棺から離れた。


オルドは鞄へ手を置いた。


まだ。


仕事が一つ残っている。


参列者が別れを終えていく。


最後に残ったのは。


オルド。


フィア。


ニナ。


グレン。


棺を閉じる前。


オルドが言った。


「ちょっと待ってくれ」


鞄を開く。


布に包んだ一冊を取り出す。


フィアの目が、その形を見た瞬間に変わった。


「……それ」


オルドは布を外した。


新品のように綺麗な背。


『風見鶏の街道』第十二巻。


フィアは知っている。


「十二巻」


「ああ」


ニナとグレンは何も言わなかった。


オルドは本を両手で持つ。


フィアが尋ねる。


「開けた?」


「あいつが俺に何て頼んだと思ってる」


少し強い声になった。


フィアは驚いたあと。


小さく首を横へ振った。


「開けてない?」


「ああ」


「一頁も?」


「一頁も」


フィアは十二巻を見る。


彼女は中身を知っている。


シャワルは知らない。


最後まで。


その関係は。


もう変わらない。


「そっか」


フィアが言った。


それだけだった。


「そっか」


もう一度。


少し笑った。


泣いた顔のままで。


「シャワルさん、知らないままなんだ」


「ああ」


「最後まで」


「ああ」


オルドは棺へ近づく。


シャワルの身体は静かだった。


あのうるさい老人が。


何も言わない。


「ほら」


オルドが言う。


「持ってきたぞ」


当然。


返事はない。


「鍵も使った」


本を棺の中へ入れる。


胸の上には置かなかった。


抱かせるようにも置かなかった。


シャワルの身体の横。


手が届きそうな場所へ。


ただ一冊。


静かに置いた。


「開けてない」


オルドの手が、本から離れる。


「読んでもない」


約束した通り。


「未読のままだ」


十二巻は。


棺の中にあった。


開かれていない。


最後が書かれた本。


最後を知らない男。


二つが。


初めて同じ場所に並んだ。


けれど。


シャワルが頁を開くことはない。


これでいい。


そう言ったのは。


本人だった。


死ぬ前はまだ生きている。


だから読まない。


死んだ後の自分には読めない。


ちょうどいい。


何十年も前から。


答えは決まっていた。


オルドは。


その答えを変えなかった。


「なあ、シャワル」


小さく呼ぶ。


「俺は最後まで分からんかったぞ」


フィアがオルドを見る。


「何が?」


「あいつが何でそこまで読まなかったのか」


オルドは十二巻を見る。


「説明は何度も聞いた」


分かっている部分もある。


分からない部分もある。


自分なら読むかもしれない。


最後がそこにあるなら。


知りたいと思うかもしれない。


それでも。


「分からんままでいいか」


オルドは言った。


棺の中の友人へ。


「お前も、そうだったんだろ」


知らないまま持っていていいものが。


一つくらいあっていい。


完全に理解しなければ。


大切にできないわけではない。


オルドは。


シャワルの選択を最後まで理解し切らなかった。


でも。


守った。


それで十分だった。


フィアが十二巻を見ながら言う。


「わたしは読んだよ」


「ああ」


「シャワルさん、知ってる」


「ああ」


「でも怒らなかった」


「他人まで読まない理由はないって言う奴だったからな」


フィアが小さく笑う。


「うん」


「だから、お前はお前で覚えとけ」


「何を?」


オルドは一瞬迷った。


「十二巻まで読んだ話を」


フィアが頷いた。


「うん」


「こいつは」


棺を見る。


「十一巻まででいい」


フィアは少しだけ考えた。


「うん」


誰が正しいわけでもない。


同じ本を。


別々の場所まで読んだだけだ。


ニナが静かに尋ねた。


「もう、いいですか」


オルドは棺を見る。


シャワル。


十二巻。


最後に何か言うべきかと思った。


長い付き合いだった。


四十年以上。


言いたいことなら。


いくらでもある。


馬鹿。


頑固。


無茶ばかりした。


最後まで人の話を聞かなかった。


でも。


それらは。


生きている間に何度も言った。


今さら言い直す必要はなかった。


「いい」


オルドは答えた。


棺の蓋が運ばれてくる。


フィアが一歩近づいた。


「シャワルさん」


最後に呼ぶ。


「十一冊」


少し間を置いて。


「大事にするから」


オルドが横を見る。


フィアは棺を見たままだった。


「まだ欲しくないけど」


涙が一つ落ちる。


「でも」


少女は袖で拭いた。


「もらったら、ちゃんと読む」


シャワルは何も答えない。


でも。


たぶん。


答えは分かっている。


好きにしろ。


そのくらいだろう。


棺の蓋が閉じられる。


最後に見えなくなったのは。


シャワルの顔だった。


次に。


白い頁の端。


そして。


十二という数字。


蓋が完全に閉じた。


音は小さかった。


それだけだった。


オルドは手を置く。


木の感触。


その向こうに。


親友と。


一度も開かれなかった本がある。


「じゃあな」


オルドが言った。


声は震えなかった。


少しだけ。


間を置く。


「最後まで、読まなかったな」


返事はない。


だから。


オルドは笑った。


ほんの少しだけ。


「知ってたよ」


棺から手を離す。


十二巻は。


最後まで。


未読のままだった。

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