死ぬ前は、まだ生きている
冬嵐から、十か月が過ぎた。
町はもう、あの夜の姿をほとんど残していなかった。
中央制御塔は新しい設備へ置き換える工事が進み、第五地区と第七地区にも新しい経路が通った。
壊れたものが全部元通りになったわけではない。
取り壊された設備もある。
別の場所へ移された施設もある。
それでも町は動いていた。
シャワルも同じだった。
仕事を辞めてから、朝起きる時間が遅くなった。
現場から呼び出されることがないので、夜中まで本を読んでオルドに怒られた。
市場へ行く。
茶を買う。
本屋を覗く。
散歩の途中で疲れれば座る。
フィアが来れば、同じ本の話をする。
一巻から十一巻までを、また何度も読んだ。
途中で別の巻へ移ることもあった。
新しい本も三冊買った。
一冊は面白かった。
一冊は途中で飽きた。
もう一冊は、最後まで読んでから「悪くない」と思った。
『風見鶏の街道』第十二巻だけは、地下の金庫にあった。
一度も開かなかった。
そんな日々が、十か月続いた。
そして。
ある朝から、シャワルは寝台を離れられなくなった。
「胸、苦しいですか」
ニナが尋ねる。
シャワルは枕へ頭を預けたまま答えた。
「少し」
「息は?」
「喋らなきゃ楽だな」
「じゃあ喋らないでください」
「質問したのはお前だろ」
「一言で答えてください」
以前と変わらない。
ただニナの声は、いつもより静かだった。
シャワルにも分かっている。
今日は、ただ疲れているだけではない。
ここ数か月。
少しずつ歩ける距離が短くなった。
昼寝も増えた。
食事の量が減った。
先週からは、階段を一人で下りなくなった。
地下へ行く必要もない。
十二巻は金庫の中にある。
確認しなくても、そこにある。
昨日までは居間の椅子へ移れた。
今日は、それも難しかった。
ニナは胸へ手を当て、呼吸を確かめる。
脈を取る。
魔力の流れも見る。
何度確認しても、表情は明るくならなかった。
「治せるか」
シャワルが聞いた。
ニナの手が止まった。
「今すぐ治療が必要な病気が見つかった、という感じではありません」
「便利な言い方だな」
「便利じゃありません」
「じゃあ何だ」
少し間があった。
「身体が、かなり弱っています」
「知ってる」
「心臓も、呼吸も」
「ああ」
「魔力も」
「そっちはもう使わん」
「そういう意味じゃなくて」
ニナは言葉を切った。
シャワルは天井を見る。
「今日か」
「分かりません」
「明日?」
「分かりません」
「相変わらず分からんな」
「そういうものです」
ニナは誤魔化さなかった。
「ただ」
声が少し小さくなる。
「今日は、一人にならない方がいいと思います」
シャワルは目を閉じた。
怖くないわけではなかった。
その意味くらい分かる。
「治療院へ行くか?」
「行きたいですか」
「行けば何か変わる?」
ニナはすぐ答えなかった。
それが答えだった。
「ここにいる」
シャワルが言った。
「分かりました」
「いいのか」
「無理に動かす方が負担です。それに」
ニナは部屋を見る。
本棚。
古い机。
窓。
オルドが付けた手すり。
「ここがいいんでしょう」
「ああ」
それだけだった。
昼過ぎに、フィアが来た。
もう十二歳になっていた。
以前より少し背が伸びている。
玄関でニナから何か聞いたのだろう。
寝室へ入ってきた時には、いつもの勢いがなかった。
「シャワルさん」
「何だ」
「寝てる」
「見れば分かる」
「起きられないの?」
「今日はな」
フィアは寝台の横へ椅子を運んだ。
何か言いたそうにする。
でも言わない。
シャワルが先に聞いた。
「本持ってきたか」
「今日は持ってない」
「珍しいな」
「急いできたから」
「そうか」
フィアは本棚を見る。
「読む?」
「何を」
「持ってくるよ」
「そこにある」
「何巻?」
シャワルは少し考えた。
「二」
フィアが本棚へ行く。
第二巻を抜く。
両手で持って戻ってきた。
「開ける?」
「頼む」
少女の顔が一瞬だけ曇った。
今までシャワルは、自分で開いていた。
それでも何も言わず、栞のある場所を探す。
「どこ?」
「適当でいい」
「適当?」
「知ってるからな」
フィアが呆れたような顔をした。
適当に開いた頁を見て、少し笑う。
「セルマいる」
「なら当たりだ」
「本当に何でもいいんじゃん」
「二巻ならな」
フィアは本をシャワルの胸元へ置こうとした。
だが手を上げるのが少し辛かった。
少女はすぐ気づく。
「持ってようか」
「ああ」
椅子へ座り直し、本を開いて持つ。
シャワルは読んだ。
ゆっくり。
一頁全部は無理だった。
目で文字を追うと疲れる。
それでも、知っている文章だった。
途中を飛ばしても内容は分かる。
セルマが、旅の途中で困っている家族へ勝手に首を突っ込んでいる。
仲間に止められる。
聞かない。
結局揉める。
「馬鹿だな」
シャワルが言う。
フィアが笑う。
「また言ってる」
「何回読んでも馬鹿なところは馬鹿だ」
「そこも好きなんでしょ」
「好きなのと馬鹿なのは別だ」
「難しいね」
「もう分かってるだろ」
「ちょっとね」
フィアは頁をめくった。
しばらく読んで。
シャワルは目を閉じた。
「疲れた?」
「ああ」
「やめる?」
「そうする」
フィアが栞を挟む。
第二巻を閉じる。
本棚へ戻そうとして、止まった。
「ここ置いとく?」
「戻せ」
「また読むかも」
「その時取ればいい」
「分かった」
本棚へ戻る。
二巻。
いつもの場所。
フィアは寝台へ戻った。
「明日も来る」
シャワルは答えるまで少し時間が掛かった。
「来ればいい」
「いる?」
「家にはいる」
「そうじゃなくて」
分かっている。
フィアも分かっている。
少女の目が濡れる。
「シャワルさん」
「何だ」
「明日も生きてる?」
答えられなかった。
嘘なら言える。
大丈夫だ。
明日もいる。
来週も。
でも以前と同じように、できない約束はしたくなかった。
「分からん」
フィアの涙が落ちた。
シャワルは手を伸ばそうとした。
途中で止まる。
フィアの方から、その手を取った。
小さな手ではなくなり始めていた。
「嫌だ」
「ああ」
「嫌だよ」
「そうか」
「そうかじゃない」
以前も同じことを言われた。
「でも」
フィアが泣きながら続ける。
「来るから」
「ああ」
「明日も来る」
「好きにしろ」
「待ってて」
シャワルは少しだけ笑った。
「できるだけな」
それなら言えた。
夕方。
フィアは母親に連れられて帰った。
何度も振り返った。
最後には手を振った。
シャワルも少しだけ手を上げた。
夜になった。
ニナも一度帰った。
何かあればすぐ呼ぶようにと言い残している。
代わりに。
オルドが残った。
「お前、椅子で寝るのか」
シャワルが聞く。
「そのつもりだ」
「腰悪くするぞ」
「もう悪い」
「知ってる」
「誰のせいで手すり付けたり、夜中まで付き合ったりしてると思ってる」
「自分で来てる」
「そういうところだぞ」
机の上には灯りが一つ。
寝室は暗すぎず、明るすぎない。
オルドは寝台の脇へ椅子を置いている。
その椅子も、昔からこの家にあるものだった。
二人とも、しばらく何も話さなかった。
必要がなかった。
四十年以上一緒にいれば、黙っている時間の方が長い日もある。
「なあ」
オルドが言った。
「何だ」
「怖いか」
シャワルは天井を見る。
前にも聞かれたことがある。
フィアにも。
あの時と、答えは変わらなかった。
「少しな」
オルドが頷く。
「そうか」
「お前は」
「怖い」
「お前が死ぬわけじゃないだろ」
「お前が死ぬかもしれんのが怖い」
シャワルは少し黙った。
「そうか」
「そうかしか言えんのか」
「じゃあ何て言う」
「知らん」
「なら聞くな」
オルドが鼻で笑った。
すぐ、笑いは消えた。
「痛いか」
「今はそんなに」
「苦しい?」
「少し」
「何か欲しいか」
「水」
オルドが身体を起こすのを手伝う。
杯を口元へ。
一口。
二口。
それだけで十分だった。
「本は?」
オルドが聞く。
「今日はもういい」
「珍しいな」
「疲れた」
「そうか」
また沈黙。
シャワルは呼吸する。
吸う。
吐く。
それだけのことに意識を向ける時間が長くなる。
人間の身体は面倒だった。
魔術のように、どこが最後なのか目で見て分かるわけでもない。
「お前のあれ」
オルドが言った。
「何だ」
「最後止めるやつ」
シャワルは少しだけ目を向ける。
「未読か」
「ああ」
「もう使わんぞ」
「そうじゃない」
オルドは膝に両手を置いた。
「止められんのか」
「何を」
「お前の最後」
シャワルは数秒、オルドを見た。
それから小さく笑った。
「人間まで魔術にするな」
「……無理か」
「無理だ」
「そうか」
「命はああいう最後じゃない」
魔術には。
始まりがあり。
進み方があり。
最後の成立点がある。
そこへ風を置けた。
人間は違う。
今日まで生きた時間全部を、一つの魔術現象のように扱うことなどできない。
シャワル自身も、そうしたいとは思わなかった。
「役に立たんな」
オルドが言う。
「昔からだ」
「町一つ助けといて言うか」
「直せないしな」
「まだ言うのか」
「事実だ」
二人とも少しだけ笑った。
やがて。
オルドの視線が、部屋の外へ向いた。
地下へ続く廊下。
その先にあるものを、二人とも知っている。
「十二巻」
オルドが言った。
「ああ」
「まだ読まんのか」
シャワルは目を閉じた。
質問は。
何十年も前から変わらない。
でも。
今日は違う。
本当に、明日がないかもしれない夜だった。
「読みたいと思わん?」
「思う」
オルドが驚いたようにこちらを見る。
「思うのか」
「気にはなる」
「今でも?」
「ああ」
「セルマがどうなったか」
「ああ」
「知りたい?」
「知りたい時はある」
「じゃあ」
オルドは言葉を切った。
「今なら読んでもいいんじゃないか」
シャワルは少し笑った。
本当に。
何度聞かれても、同じだった。
「死ぬ前はまだ生きてるだろう」
オルドの顔が歪んだ。
「だから読まん」
声は弱い。
でも。
迷いはなかった。
地下には、まだ最後がある。
作者が書いた最後。
世界のどこかでは、ずっと前から読まれている最後。
フィアも知っている。
それでいい。
シャワルだけが知らない。
「お前」
オルドが俯いた。
「本当に変わらんな」
「変わったぞ」
「どこが」
「昔より弱い」
「そういう話じゃねえ」
「本も読むの遅くなった」
「それもだ」
「仕事も辞めた」
「それも知ってる」
シャワルは少しだけ笑った。
「でも、そこだけは変わらん」
オルドが何も言わない。
「何で」
声が小さかった。
「今になって聞くか」
「今だから聞いてる」
シャワルは考えた。
もう説明は何度もしている。
作者の最後を否定したいわけではない。
セルマが死ぬのが怖いからでもない。
幸せだと保証されても読まない。
続きが欲しいわけでもない。
ただ。
「一つくらい」
ゆっくり言う。
「最後を知らないまま持っていくものがあっていいだろ」
オルドは目元を手で擦った。
「わがままだな」
「ああ」
「七十四年も?」
「七十五になった」
「そうだったな」
冬嵐の後、誕生日を一つ越えた。
「七十五年も、そのわがまま通したのか」
「途中からだ」
「十分長い」
「そうだな」
シャワルは息を吐く。
胸が少し痛い。
でも。
怖さの全部を消してほしいとは思わなかった。
怖いままでいい。
まだ生きたいと思ったままでいい。
今日読んだ第二巻の続きを、もう一度読みたいと思っている。
新しく買った本も、一冊途中だ。
フィアも明日来ると言った。
オルドとも、まだ喧嘩できる。
終わるのが嫌だから。
今日まで生きてきたものを嫌いになるわけではない。
むしろ逆だった。
「オルド」
「何だ」
「鍵」
オルドの身体が固くなる。
「持ってるな」
「……ああ」
「忘れるなよ」
「分かってる」
「金庫開けて」
「ああ」
「十二巻を出す」
「ああ」
「開くな」
「分かってる!」
声が大きくなった。
シャワルは少し驚いた。
オルドは俯いたまま続ける。
「何十回聞いたと思ってる」
「確認だ」
「忘れねえよ」
「そうか」
「お前の棺に入れる」
「ああ」
「未読のまま」
「ああ」
オルドの声が震えていた。
シャワルは天井を見た。
「死んだ後の俺には読めない」
「……知ってる」
「ちょうどいい」
昔と同じ言葉だった。
昔は笑い話だった。
今日は。
オルドは笑わなかった。
シャワルも、少しだけ笑っただけだった。
「なあ」
オルドが言う。
「何だ」
「十二巻、一緒に入れたら」
「ああ」
「十一冊はフィアだな」
「本人は嫌がってた」
「でも読むだろ」
「たぶんな」
「俺が渡すのか」
「頼む」
「俺ばっかりだな」
「親友だからな」
オルドが顔を上げた。
「今さら言うな」
「何で」
「こういう時だけ、そういうこと言うな」
「普段言う必要ないだろ」
「ある」
「面倒だな」
「お前がな」
少しだけ。
二人で笑った。
夜が深くなる。
シャワルは何度か眠った。
短く目を閉じ。
また起きる。
そのたび。
オルドがいた。
「まだいるのか」
「いる」
「帰っていいぞ」
「帰らん」
「頑固だな」
「お前に言われたくない」
また眠る。
次に起きた時。
窓の外は真っ暗だった。
「オルド」
「いるぞ」
返事がすぐ来る。
「何時だ」
「もうすぐ朝だ」
「そうか」
シャワルは目を閉じたまま少し考えた。
「眠い」
「寝ろ」
「起きなかったら」
オルドは、すぐには答えなかった。
やがて。
「その時は俺の仕事だ」
シャワルの口元が少しだけ上がった。
何十年も。
シャワルが止め。
オルドが直した。
最後まで。
自分だけでは何も終わらないらしい。
「頼む」
「ああ」
「十二巻」
「分かってる」
「十一冊」
「分かってる」
「フィアに」
「分かってるって言ってんだろ」
声が震えた。
シャワルは、もう何も言わなかった。
眠る前に。
一つだけ思った。
第二巻。
今日は途中までだった。
続きは知っている。
何度も読んだから。
十二巻だけは知らない。
それでよかった。
シャワルは目を閉じた。
呼吸がゆっくりになる。
オルドは椅子から動かなかった。
しばらくして。
シャワルが一度、息を吸った。
吐いた。
もう一度。
それから。
次の息は、来なかった。
オルドはすぐには声を掛けなかった。
手を取った。
温かさは、まだ残っていた。
「……シャワル」
返事はない。
オルドは俯いた。
長い間。
ただ、その手を握っていた。
窓の外が。
少しずつ明るくなっていった。
シャワル・ミレイスの人生は、そこで終わった。
地下の金庫には。
最後まで開かれなかった一冊が残っていた。




