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十一冊

家へ戻ったシャワルが最初にしたことは、本棚の前へ立つことだった。


正確には、一人で立たせてもらえなかった。


「座れ」


「今立ったばかりだ」


「だから座れ」


後ろからオルドに椅子を押しつけられる。


シャワルは振り返った。


「家だぞ」


「知ってる」


「俺の」


「それも知ってる」


「なら好きにさせろ」


「治療院から、帰宅初日は長く立たせるなと言われた」


「誰が」


「ニナ」


「余計なことを」


「お前に直接言っても聞かんから俺に言ったんだろ」


「信用がないな」


「実績だ」


最近、同じことを何度も言われている気がする。


シャワルは諦めて椅子へ座った。


目の前には本棚がある。


一巻から十一巻。


数日ぶりだった。


中央制御塔の事故から三日。


事故当日はそのまま治療院へ運ばれ、翌日も帰してもらえなかった。


さらに一日。


ようやく今日、条件付きで帰宅を許された。


しばらく現場へ出ないこと。


強い魔術を使わないこと。


疲れたら休むこと。


そして、何かあればすぐ治療院へ戻ること。


最初の二つはもう問題ない。


仕事は辞めた。


少なくとも、最後を抑える現場へ出る仕事は終わらせた。


三つ目と四つ目については、オルドが勝手に監視役へ収まっている。


「全部あるな」


シャワルが言う。


オルドが呆れた。


「誰が盗るんだよ」


「嵐だったからな」


「窓も割れてねえ」


「確認だ」


一巻。


二巻。


三巻。


背表紙を順番に目で追う。


十一巻まで。


いつもの場所にある。


擦り切れた背。


丸くなった角。


何度も直した綴じ糸。


補修紙が少し見える巻もある。


新品らしいものは、一冊もない。


「十二は?」


オルドが聞く。


「地下」


「確認しなくていいのか」


「金庫だぞ」


「こっちより頑丈だな」


「だから入れてる」


十二巻だけは地下。


火にも水にも衝撃にも強い金庫の中。


今日も開かない。


それでいい。


シャワルは本棚へ手を伸ばし、一巻を抜いた。


オルドの眉が動く。


「読むのか」


「何のために帰ってきたと思ってる」


「休むためだ」


「本くらい読める」


「一時間」


「誰が決めた」


「ニナ」


「嘘だな」


オルドが黙った。


「今考えただろ」


「一時間くらいが妥当だと思った」


「お前は治療師じゃない」


「七十五年生きてる」


「便利に歳を使うな」


「お前にだけは言われたくない」


一巻を膝へ置く。


開こうとしたところで、玄関が叩かれた。


シャワルとオルドが同時に扉を見る。


「誰だ」


「俺に聞くな。お前の家だ」


もう一度。


今度は少し強い。


シャワルは立とうとした。


オルドが先に立った。


「お前は座ってろ」


「俺の家だぞ」


「今日だけ俺の家だ」


「帰れ」


「客を入れてからな」


勝手に玄関へ向かう。


扉が開く音。


すぐに少女の声がした。


「シャワルさんいる!?」


「いるぞ」


オルドが答える。


「生きてる!?」


シャワルの眉が寄った。


「失礼な確認だな」


フィアが居間へ飛び込んできた。


手には大きな紙袋を抱えている。


顔を見るなり、足を止めた。


シャワルは椅子に座っている。


膝には本。


手も足も付いている。


少なくとも、子供が想像していたほど酷い状態ではなかったらしい。


「……生きてる」


「さっき言っただろ」


「だって町ですごいことあったって」


「すごいことはあった」


「シャワルさんもいたって」


「ああ」


「倒れたって!」


シャワルがオルドを見る。


「誰だ」


「俺じゃねえ」


「ニナか」


「知らん」


フィアが紙袋を机へ置く。


「避難所で聞いた!」


「噂か」


「ニナ先生にも聞いた!」


「本人か」


「やっぱり余計なことを」


フィアの目が細くなる。


「余計じゃない!」


怒鳴られた。


シャワルは少し身を引いた。


「元気そうだな」


「シャワルさんが言う!?」


「最近みんな同じこと言うな」


「倒れたんでしょ!」


「倒れてない」


オルドが横から言う。


「今回はな」


「今回は?」


フィアが反応する。


シャワルはオルドを睨んだ。


「帰れ」


「事実だろ」


「増やすな」


フィアは机の反対側へ回り、シャワルを正面から見る。


「本当に大丈夫?」


今度の声は小さかった。


怒っているというより、不安そうだった。


シャワルは少しだけ答え方を変える。


「疲れてる」


「うん」


「しばらく休む」


「仕事は?」


「辞めた」


フィアの目が丸くなる。


「本当に?」


「ああ」


「もう、最後止めないの?」


シャワルは少し考えた。


「仕事ではな」


「仕事では?」


「町の真ん中でまた同じことが起きて、俺しかいなかったらどうするかは、その時の俺が決める」


「じゃあ完全には辞めてないじゃん」


「名簿からは外れた」


「難しい」


「大人の辞め方だ」


「適当言ってない?」


「少し」


フィアが頬を膨らませる。


でも、少し安心したらしい。


紙袋を開けた。


中には焼き菓子と果物が入っている。


「母さんから」


「多いな」


「オルドさんの分もあるって」


「気が利くな」


オルドがすぐ手を伸ばす。


フィアが袋を引いた。


「シャワルさんが先」


「何でだ」


「病人だから」


「俺は?」


「元気そう」


「七十五だぞ」


「便利に歳使うな」


シャワルが吹き出した。


「覚えたな」


「さっき聞いた」


オルドが不満そうに椅子へ座った。


しばらく三人で菓子を食べた。


中央制御塔の詳しい話をフィアへすることはなかった。


どこが壊れた。


誰が何秒持った。


そんな話より、町がどうなったかの方が少女には大事だった。


第五地区と第七地区の一部は、しばらく設備が使えない。


避難所生活を続けている人もいる。


ただ、給水と最低限の暖房は確保された。


大きな死者は出なかった。


「町、直る?」


フィアが聞く。


「直すだろ」


「元通り?」


「全部は無理かもな」


「じゃあ駄目じゃん」


「何で」


「壊れたままになるところあるんでしょ」


シャワルは一巻の表紙を指で撫でた。


「元通りじゃなくても、使えるようにはできる」


「本みたいに?」


「まあな」


フィアは本を見る。


補修された背表紙。


新品ではない。


それでも読める。


「町にも補修紙貼る?」


「でかすぎる」


「冗談だよ」


「分かりづらい」


「シャワルさんに言われたくない」


また言われた。


食べ終わる頃、フィアが一巻に気づいた。


「読むの?」


「ああ」


「最初から?」


「たぶん」


「たぶん?」


「途中で別の巻に行くかもしれん」


「何で?」


「読みたくなったら」


「順番めちゃくちゃじゃん」


「もう知ってるからな」


シャワルは本を開いた。


何度読んだか分からない最初の頁。


まだセルマはいない。


旅が始まる前。


若者たちが最初の町を出るところから始まる。


フィアが本棚を見る。


「本当に十一冊全部読んだんだよね」


「何回も」


「何回?」


「知らん」


「百回?」


「あるかもな」


「千回?」


「そこまではないと思う」


「じゃあ百五十?」


「数える意味あるか?」


「ないかも」


「なら聞くな」


フィアは立ち上がる。


本棚の前へ行く。


背表紙を一冊ずつ眺める。


六巻で手を止めた。


一緒に破れを補修した本だ。


「ここ、わたしも直したやつ」


「七割な」


「覚えてた」


「本のことだからな」


「わたしのことは?」


シャワルは少し考えるふりをした。


「誰だったか」


「ひどい!」


「うるさい」


笑いが起きた。


フィアは六巻を抜かない。


シャワルの本だと分かっている。


見るだけ。


「これって」


少女が聞いた。


「シャワルさんが死んだらどうするの?」


部屋が少し静かになった。


オルドは菓子を持ったまま止まった。


フィア自身も、言った後で少し顔を強張らせる。


この前なら、それだけで泣きそうになっていたかもしれない。


今日は逃げなかった。


シャワルも。


「十二巻は知ってるだろ」


「あれは一緒に棺へ入れるんでしょ」


「ああ」


「こっちは?」


一巻から十一巻。


シャワルは本棚を見る。


以前、遺言を書いた時には決めなかった。


そのうち考える。


それで終わらせた。


今も急ぐ理由はない。


今日死ぬつもりはない。


明日も。


来週も。


まだ読む。


それでも。


今なら決めてもいいと思った。


「フィア」


「何?」


「欲しいか」


少女が固まった。


「……何を?」


「十一冊」


「今?」


「今やるわけないだろ」


シャワルは膝の一巻を軽く持ち上げる。


「俺が読む」


「じゃあ何で」


「俺が死んだ後だ」


フィアの顔から、さっき戻った明るさが消えた。


「いらない」


即答だった。


今度はシャワルの方が少し驚いた。


「そうか」


「いらない」


もう一度。


「シャワルさん死なないともらえないんでしょ」


「ああ」


「ならいらない」


シャワルは本を閉じた。


オルドは何も言わない。


フィアの顔は怒っている。


でも、それだけではない。


「別に、もらったから俺が死ぬわけじゃない」


「分かってる」


「決めたから早く死ぬわけでもない」


「分かってる!」


声が大きくなる。


目に涙が浮かんだ。


「でも嫌なの!」


シャワルは黙った。


フィアは袖で目を擦る。


「シャワルさんの本じゃん」


「ああ」


「ずっと読んでる本」


「ああ」


「わたしにくれたら、シャワルさん読めないじゃん」


「死んだ後だからな」


「それが嫌って言ってる!」


その通りだった。


理屈で説得する話ではない。


シャワルはしばらく閉じた一巻を見る。


「じゃあ、今はいらないでいい」


フィアが鼻を啜る。


「……何それ」


「今の話だからな」


「後でまた聞くの?」


「聞かん」


「じゃあ」


「遺言には書くかもしれん」


「ずるい!」


また怒られた。


シャワルは少し笑った。


「でも、嫌ならその時捨ててもいい」


フィアが睨む。


「捨てない」


「早いな」


「捨てないけど」


「なら読め」


「……読む」


「決まりだな」


「決まってない!」


「どっちだ」


フィアは困ったように本棚を見る。


十一冊。


何度も読み返されて。


何度も直されて。


シャワルの手の中で歳を取った本。


「何でわたしなの」


小さな声だった。


シャワルはすぐ答えなかった。


理由はいくつかある。


フィアがこの物語を好きになった。


十二巻まで、自分の意思で読んだ。


シャワルが読まないことも、完全に理解しているわけではないのに尊重した。


六巻の破れを見つけた。


補修する時、最初は強く押しすぎた。


でも、二回目からはちゃんと力を抜いた。


本を借りたいとは言うが、勝手には持っていかない。


「頁を乱暴にめくらなくなったからだ」


フィアがぽかんとする。


「それ?」


「ああ」


「もっと何かないの?」


「本を渡す理由として大事だろ」


「わたしが特別だからとか」


「自分で言うな」


「ちょっとくらい言ってよ!」


シャワルは笑った。


「本が好きだろ」


フィアが黙る。


「うん」


「この十一冊も好きだろ」


少し考えてから。


「うん」


「なら十分だ」


シャワルは本棚を見る。


「俺が読めなくなった後も、誰かが読める」


フィアの目がまた濡れる。


「……シャワルさんが読めなくなるの嫌なんだけど」


「俺もだ」


即答した。


「だから今は俺が読む」


膝の一巻を開く。


「お前にはまだやらん」


フィアが笑いながら泣いた。


「けち」


「俺の本だからな」


「知ってる」


「死ぬまで俺のだ」


「そうして」


「ああ」


オルドがようやく口を挟んだ。


「じゃあ書くのか」


「何を」


「遺言」


フィアがすぐオルドを見る。


「書かなくていい!」


「俺に言うな!」


「オルドさん止めて!」


「止めてもこいつ勝手に書くぞ」


「役に立たない!」


「俺まで怒られるのかよ!」


シャワルは声を上げて笑った。


胸に少し響いたので、途中で咳き込む。


フィアの顔がすぐ変わる。


「大丈夫!?」


「笑わせるな」


「わたしのせい!?」


「半分」


「オルドさんも!」


「何で俺なんだ」


「半分ずつだ」


「便利に分けるな」


咳が治まる。


呼吸を整える。


大丈夫だった。


その日の夕方。


フィアが帰った後。


オルドも一度自宅へ戻った。


シャワルは机に一人で座っていた。


紙を一枚出す。


以前作った遺言の追記。


長い文章は必要ない。


所有する『風見鶏の街道』第一巻から第十一巻について。


シャワル自身の死亡後、フィアへ渡すこと。


本人が受け取りを望まない場合は、無理に渡さなくてよいこと。


処分も、その後の扱いも本人へ任せること。


書いて。


最後に、少し考える。


一文だけ付け足した。


『ただし、生前の貸与ではない。』


自分で読んで、少し笑った。


「大事だな」


本当に大事だった。


死後の本より。


今日読む本の方が。


紙をしまう。


一巻へ戻る。


十九歳の時にも読んだ。


三十歳でも。


四十七歳でも。


七十四歳の今も読む。


文章は変わらない。


最初の町も。


最初の旅立ちも。


同じ場所にある。


でも、読む自分は同じではなかった。


若い頃は。


旅立つ者ばかり見ていた。


歳を取ると。


見送る側にも目が行く。


昔は気にも留めなかった一文で、今日は少しだけ手が止まった。


「……こんなのあったか」


もちろんあった。


ずっと。


自分が覚えていなかっただけだ。


同じ本でも、読む俺が前と同じじゃない。


シャワルは頁をめくった。


地下には、開かない一冊がある。


棺へ持っていく本。


ここには、何度でも開く十一冊がある。


生きている間、自分が読む本。


そして。


自分が読めなくなった後も、たぶん誰かが開く本。


十二巻は、最後までシャワルと一緒に行く。


十一冊は、置いていく。


それでいいと思った。


一巻の先で。


まだセルマは登場していない。


シャワルは急がなかった。


二巻まで行けば、また会えることを知っている。


だから今は。


最初の頁から、ゆっくり読んだ。

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