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これは終わった

「最後を抜きます!」


テオの声が響いた。


中央制御に残った赤い光は、もう一本しかない。


細い。


今にも消えそうなほど細い。


それでも、その一本が残っている限り、シャワルは手を離せなかった。


薄い風が、最後の一線にある。


右手は震えている。


肘は左手で支えていた。


背中にはニナの手が添えられている。


もう自分だけでは、椅子へ身体をまっすぐ預けることすら難しい。


それでも。


風だけは乱れていなかった。


「受け側!」


テオが叫ぶ。


「西、安定!」


「南、安定!」


「補助路も問題なし!」


一つずつ声が返る。


オルドは古い図面をもう見ていなかった。


机の端へ押しやり、今動いている表示だけを見ている。


古い町がどう作られたかを知る役目は、もう終わった。


今必要なのは、現在の町がどうなっているかだった。


「排出量は!」


「落ちています!」


「残り!」


「もう数字が出ません!」


テオが表示へ顔を近づける。


「微量です!」


グレンが口を開く。


「なら――」


「待て」


シャワルが止めた。


声が掠れていた。


グレンが黙る。


テオも動きを止める。


「微量じゃ駄目だ」


「でも、ほとんど――」


「ほとんど残ってないのと、残ってないのは違う」


テオの表情が変わった。


すぐ表示へ戻る。


「確認します」


焦らない。


あと少しだからこそ、急がない。


シャワルは風の向こうを見る。


最後はまだ押している。


弱い。


最初とは比べものにならない。


それでも、手を離せば最後へ進む。


今はまだその先に何が起きるかを、完全には任せられない。


「西、流れなし!」


「南も止まりました!」


「補助路、残りを受けています!」


テオが確認する。


「最後の排出路を閉じます!」


オルドが口を挟む。


「一気に閉めるな」


「分かってます」


テオの手が動く。


排出路を少しずつ絞る。


赤い一本がさらに細くなる。


消えかける。


一度戻る。


また細くなる。


シャワルの右手に掛かる重さが、ほとんど消えた。


それでも風は残す。


「どうだ」


オルドが聞く。


「軽い」


「離せるか」


「まだ」


「そうか」


それ以上は聞かない。


四十年近く一緒にやってきた。


その「まだ」が何を意味するかくらい、オルドは知っている。


テオが最後の確認を終えた。


「中央内部、残留魔力なし」


誰も声を上げない。


「西側、独立済み」


「南側も独立しています」


「北側、中央から切断済み」


若い技師たちが順番に答える。


「中央から各地区へ繋がっている生きた経路はありません」


テオは一つ息を吸った。


シャワルを見る。


「終わらせられます」


その言葉を聞いても、シャワルはすぐ手を下ろさなかった。


風で確かめる。


中央制御は壊れている。


もう修復して使うものではない。


内部の魔力は抜けた。


町への道も切れた。


ここで完全に破断しても、誰かへ最後を押しつけることはない。


終わっていい。


ようやく、そう言える。


「全員、少し下がれ」


グレンが言った。


技師たちが中央制御室の扉から距離を取る。


オルドも下がる。


テオも。


ニナだけはシャワルのそばに残った。


「私は?」


「お前はそこにいろ」


シャワルが言う。


「言われなくても」


「じゃあ聞くな」


いつもの返事。


ニナは少しだけ笑った。


グレンが確認する。


「全員退避位置」


「確認!」


「中央周辺、無人」


「確認!」


「外部経路」


「切断確認!」


最後の条件が揃う。


室内が静かになった。


外ではまだ冬嵐が鳴っている。


遠くで何かが軋む。


雪が窓へ当たる。


けれど、この場所にいる全員が。


シャワルの右手だけを見ていた。


今まで何度、この瞬間を迎えただろう。


止めたものを。


誰かが直す。


誰かが逃がす。


誰かが治す。


誰かが人を出す。


そして。


もう最後が来てもいいところまで持っていく。


シャワルはいつも最後に手を離した。


永遠に止めたことなど一度もない。


止め続けたいと思ったこともない。


仕事だったからだ。


今回も同じだった。


ただ。


これが一番大きかった。


そして。


たぶん。


最後だった。


シャワルは右手を見る。


震えている。


七十四歳の手だった。


若い頃より細くなった。


指の節も目立つ。


何十年も、この手で最後を抑えてきた。


「離すぞ」


シャワルが言った。


グレンが頷く。


テオも。


オルドは何も言わない。


右手をゆっくり下ろす。


薄い風が消えた。


最後の一線から。


シャワルの魔術がなくなる。


全員が身構えた。


中央制御の亀裂が進む。


一本。


最後まで。


光が消えた。


小さな破砕音。


それだけだった。


誰も動かない。


次を待つ。


爆発。


逆流。


警報。


何か。


しかし。


来なかった。


十秒。


何も起きない。


「西側!」


グレンが叫ぶ。


「正常!」


「南!」


「正常です!」


「北!」


「異常なし!」


「補助路!」


「安定しています!」


テオが中央の表示を見る。


そこだけが消えている。


中央制御は完全に死んだ。


その周囲。


新しく独立した経路は、動いている。


「……終わった」


若い技師が呟いた。


テオはすぐ頷かなかった。


一つずつ確認する。


西。


南。


北。


町の表示。


避難所。


給水。


暖房。


何度見ても、中央から異常は出ていない。


ようやく。


テオの肩が落ちた。


「終わりました」


グレンがシャワルを見る。


「終わった?」


聞かれたシャワルは、消えた表示を見る。


中央制御は壊れた。


もう戻らない。


直そうとも思わない。


何十年も町を支えた設備だったとしても。


今日、最後まで役割を果たした。


そして、次へ渡した。


「これは終わった」


普通に答えた。


その言葉を口にした瞬間。


シャワルの身体から力が抜けた。


「シャワルさん!」


ニナが肩を支える。


椅子に座っていたから倒れはしない。


だが、自分で身体を起こしていられなかった。


「寝かせます」


「ここで?」


「今すぐ」


「床は嫌だぞ」


「寝台持ってきます!」


救助員が走る。


「大げさだ」


「黙ってください」


「さっきからそれ多いな」


「喋るからです!」


声が震えていた。


怒っているだけではない。


シャワルには分かった。


「生きてる」


小さく言う。


ニナの顔が止まる。


「見れば分かります」


「ならそんな顔するな」


「誰のせいですか」


「中央制御」


「あなたです」


「そっちか」


少し笑う。


胸が痛んだ。


すぐ笑うのをやめる。


オルドが近づいてくる。


いつもなら何か言う。


馬鹿。


無茶しやがって。


だから辞めろと言った。


そのくらいは言う男だ。


だが、今日は何も言わなかった。


シャワルの前まで来て。


右手を見る。


まだ震えている。


「終わったか」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「町は」


「聞いてただろ」


「お前の口から聞いてる」


シャワルは少し息を整えた。


「終わった」


オルドが頷く。


「そうか」


それだけだった。


簡易寝台が運ばれてくる。


ニナと救助員に両側から支えられる。


「立てます?」


「たぶん」


「たぶんは禁止」


「じゃあ立てない」


「素直すぎません?」


「どっちだ」


結局、自分では立たなかった。


救助員二人に持ち上げられる。


「重いですか」


シャワルが聞く。


若い救助員が困った顔をした。


「今それ聞きます?」


「気になった」


「普通です」


「つまらんな」


「何て答えてほしかったんですか」


「軽い」


「じゃあ軽いです」


「今変えただろ」


ニナが呆れた顔をする。


「元気ですね」


「口だけな」


寝台へ横になる。


天井が見えた。


グレンはまだ仕事を続けていた。


事故が終わっても、すぐ全員が帰れるわけではない。


町の状況確認。


避難所への連絡。


使用停止地区の整理。


明朝までの暖房と給水。


やることはいくらでもある。


テオたちも中央制御跡の安全確認へ戻っていく。


誰もシャワルについてこない。


必要がないからだ。


そのことが、少し嬉しかった。


「グレン」


寝台から呼ぶ。


「はい」


男がこちらへ来る。


「もう俺は要らんな」


「今は休んでください」


「今じゃない」


グレンが黙る。


シャワルは天井を見たまま続ける。


「名簿だ」


何のことか分かったらしい。


「緊急要請の?」


「ああ」


事故時。


各部署の手段を尽くして。


それでも最後が間に合わない場合。


封止術師を要請する。


現実には長い間。


その欄には、ほとんど一人しかいなかった。


シャワル・ミレイス。


「外せ」


グレンはすぐには返事をしなかった。


「今日だけの判断なら受けません」


「違う」


シャワルが答える。


「疲れてるからでもない」


「なら理由を聞きます」


「もう十分やった」


グレンの目が少し動く。


「それだけですか」


「ああ」


「まだできるかもしれない」


「できるかもな」


「なら――」


「できることと、続けることは別だ」


グレンが黙った。


シャワルは、自分の右手を見る。


もう魔術は使っていない。


それなのに指が震えている。


身体は正直だった。


「俺がいなくても、避難できるようになった」


「はい」


「直すのを諦める判断もできる」


「はい」


「何を捨てて、何を残すかも決められる」


「はい」


「今日も、俺がやったのは最後だけだ」


グレンは少しだけ眉を寄せる。


「その最後が必要でした」


「そうだな」


そこは否定しない。


自分の仕事まで小さくする気はなかった。


今日、シャワルがいなければ。


二分半は作れなかった。


中央制御は先に破断した。


町のどこかで、別の事故が起きたかもしれない。


自分は必要だった。


だからこそ。


「最後に必要だった仕事を、最後にしたい」


グレンの顔から、言葉が消えた。


シャワルは続ける。


「今日より大きいのが来たら、もう俺じゃ足りん」


「今日より小さければ」


「お前らで何とかしろ」


「無茶を言いますね」


「今まで教えただろ」


グレンが少し笑う。


「責任重いな」


「隊長だろ」


「そうでした」


「忘れるな」


しばらく二人とも黙った。


最後にグレンが頷いた。


「分かりました」


「そうか」


「正式な手続きは後で」


「任せる」


「でも一つだけ」


「何だ」


「二度と呼ばない、とは約束できません」


シャワルが眉を上げる。


「何で」


「町が滅びそうで、シャワルさんしかいなかったら呼びます」


「外せと言っただろ」


「名簿からは外します」


グレンは真面目な顔で言う。


「でも俺個人は、助けてほしかったら呼ぶかもしれません」


「勝手だな」


「影響されました」


「誰に」


グレンは答えなかった。


シャワルは少し考える。


「その時は断るかもしれんぞ」


「その時のシャワルさんが決めてください」


少し前。


遺言を書いた時。


自分がオルドへ言ったことと似ていた。


生きている自分の選択を、今の自分で全部縛る必要はない。


「そうする」


シャワルは答えた。


ニナが横から睨んでいる。


「話終わりました?」


「ああ」


「なら運びます」


「どこへ」


「治療院」


「家じゃないのか」


「何を言ってるんですか」


「本が」


「明日!」


「読めるって言っただろ」


「今日は駄目です!」


「厳しいな」


「当然です」


寝台が動き始める。


中央制御塔の出口へ向かう。


途中で、テオとすれ違った。


「シャワルさん」


「何だ」


「ありがとうございました」


シャワルは少し考えた。


「今回は受け取っとく」


テオが笑った。


「珍しいですね」


「俺の仕事も要ったからな」


「はい」


「でも」


テオの顔が少し身構える。


説教されると思ったらしい。


シャワルは短く言った。


「よく終わらせた」


テオが目を見開く。


それから。


深く頭を下げた。


「はい」


外へ出る。


冬嵐は弱くなり始めていた。


雪はまだ降っている。


それでも、さっきまで横向きだったものが、今は少しずつ下へ落ちている。


町の灯りも戻りつつあった。


全部ではない。


第五地区と第七地区は暗い。


中央周辺も多くの灯りが消えている。


失った設備がある。


壊れた場所がある。


明日から修理しなければならない。


元通りにはならないところもあるだろう。


それでも。


避難所の窓に灯りがある。


遠くの通りにも。


一つ。


また一つ。


シャワルは寝台の上から、それを見る。


「町、残ったな」


横を歩くオルドが答えた。


「ああ」


「中央は死んだ」


「ああ」


「また作るのか」


「俺に聞くな。技師に聞け」


「元技師だぞ」


「じゃあお前が考えろ」


「引退してる」


「便利だな」


「お前も今日からだろ」


シャワルはオルドを見る。


もう知っているらしい。


「聞いてたか」


「近くにいたからな」


「盗み聞きだ」


「で」


オルドが尋ねる。


「本当に辞めるのか」


シャワルは町を見る。


誰かが雪を退けている。


救難隊員が車を誘導している。


避難所へ毛布を運ぶ人間がいる。


保守班はもう次の復旧について話し始めている。


自分が起き上がれなくても。


町は動いていた。


「辞める」


シャワルは答えた。


オルドは何も言わない。


「惜しいか?」


シャワルが聞く。


「少しな」


「俺もだ」


「そうか」


「でも」


シャワルは右手を見る。


何十年も最後を抑えてきた手。


今日、町の最後まで抑えた。


「これは終わっていい」


オルドが一度だけ息を吐いた。


「そうか」


今度は、その返事が少しだけ笑っていた。


寝台が車へ運ばれる。


扉が閉まる前。


シャワルはもう一度、町を見た。


仕事は終わった。


町は終わらなかった。


それで十分だった。

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