四十年前と同じだ
「起きろ」
肩を揺すられ、シャワルは目を開けた。
最初に見えたのは毛布だった。
次に、仮設詰所の天井。
その向こうから冬嵐の音が聞こえる。
「……何分寝た」
「二時間ちょっと」
オルドが答えた。
シャワルは身体を起こそうとして、途中で一度止まった。
右肩が重い。
左腕にも、まだ鈍い疲れが残っている。
二つの制御魔術を同時に抑えた負担は、少し寝た程度では消えていなかった。
「水」
「先にゆっくり起きろ」
「起きてる」
「半分だ」
オルドに背を支えられ、ようやく寝台の端へ座る。
近くに置いてあった水を受け取った。
手は震えている。
それでも杯は持てた。
「ニナは」
「第七地区の避難所だ。お前を寝かせてから戻った」
「勝手だな」
「『起きても魔術を使わせるな』って言ってたぞ」
シャワルは水を飲む。
「聞いてない」
「今聞いた」
「なら知った」
「知っただけじゃなく守れ」
「状況による」
オルドが深いため息を吐いた。
「ほんっとに、お前は」
「何だ」
「いや。元気になったら腹が立ってきた」
「なら安心したな」
「してねえよ」
いつもの声だった。
少なくとも、二時間前に椅子から立てなかった時よりはましらしい。
詰所にはまだ人が多かった。
第五地区と第七地区の避難そのものは終わっている。
だが、嵐は終わっていない。
二つの地区で制御設備を失ったことで、残っている経路へ負荷が偏っていた。
今は保守班が、町全体へ流れる魔力を少しずつ組み替えている。
グレンは壁際の地図の前にいた。
シャワルが起きたことに気づく。
「立たないでください」
「まだ立ってない」
「そのままで」
「用件は」
「今のところ、ありません」
「なら何でオルドは起こした」
グレンがオルドを見る。
オルドは目を逸らした。
「そろそろ起きる頃だと思った」
「寝かせとけ」
「寝過ぎても夜眠れんだろ」
「今夜寝る時間あるのか」
「あることを祈れ」
言いながら、オルドも地図の方へ戻った。
シャワルは寝台の端に座ったまま周囲を見る。
第五地区。
第七地区。
赤かった表示は、今は消えている。
代わりに、別の場所が黄色く点いていた。
危険ではない。
負荷が上がっている場所。
「何だ、あれ」
グレンが答える。
「東八地区です」
「異常?」
「事故ではありません」
テオが奥から歩いてくる。
作業着は乾く暇もなく濡れていた。
「第五と第七を切った分、そっちへ少し流してます」
「持つのか」
「今のままなら」
「今のままなら、か」
テオは頷いた。
「だから、これから一本戻します」
シャワルが顔を上げる。
「戻せるのか」
「第五地区の設備全部は無理です。でも、地区の外側に残ってる古い中継路が使えます」
オルドが地図を指す。
「ここだ」
第五地区の西端。
壊れた中心設備より手前から、古い細い線が伸びている。
今はほとんど使われていない。
「昔の予備路だ」
オルドが言う。
「町が小さかった頃に使ってた」
「まだ生きてる?」
「調べた」
テオが答える。
「流せます。ただ、今の量を全部は無理です」
「何に使う」
「避難所です」
グレンが続けた。
第五地区の住民が集まっている学校は、隣の地区から暖房用の魔力を受けている。
そのせいで、東八地区の負荷が高くなっている。
古い予備路を一時的に使えれば、避難所の暖房分だけを別に回せる。
「この嵐で暖房落とすのは嫌だからな」
オルドが言う。
「直すんじゃなく、逃がすわけか」
「そういうことだ」
「誰が繋ぐ」
「現役」
オルドがテオを指す。
「俺は古い側を見る」
「お前も行くのか」
「行く」
「七十五」
「うるせえ」
「さっき俺に休めと言った」
「俺は二つ止めてねえ」
「腰痛いだろ」
「魔術より軽い」
理屈になっているのか分からない。
だがオルドの顔には、無茶をしようとする勢いはなかった。
自分にできる仕事の範囲を分かっている顔だった。
シャワルはそれ以上言わなかった。
「俺は?」
「寝てろ」
オルドとグレンが同時に答えた。
「分かった」
今度は二人とも驚いた。
「何だ」
シャワルが眉を寄せる。
オルドが少し警戒する。
「本当に?」
「必要なら呼べ」
「……ああ」
「なら寝る」
シャワルはまた横になった。
毛布を掛ける。
「成長したな」
オルドが言う。
「七十四に言うな」
目を閉じた。
次に起こされた時は、グレンだった。
「シャワルさん」
声がさっきと違う。
シャワルはすぐ目を開けた。
「何だ」
「必要です」
身体を起こす。
今度は止められなかった。
それだけで十分だった。
第五地区西端の中継所までは車で移動した。
雪は少し弱くなったものの、風はまだ強い。
建物の中へ入る。
古い設備が壁沿いに残っていた。
細かな構造は分からない。
分かる必要もない。
今ここで必要なのは一つだけだった。
避難所へ流す魔力を、古い予備路へ繋ぐ。
その作業途中で、古い中継制御が崩れ始めた。
「何で最初から切らなかった」
シャワルが尋ねる。
テオが答える。
「切れません」
「理由」
「今切ると、新しい側まで引っ張られます」
「繋ぐ前へ戻せない?」
「もう一部入ってます。戻すなら一度受け側を閉じて、古い側を切って、新しい側を開き直す必要があります」
「何秒」
「四十五」
シャワルは古い制御を見る。
四十五秒もない。
光は不規則に揺れ、細い亀裂が中央へ伸びている。
まだ戻る。
だが、かなり弱い。
オルドは設備の横へ膝をついていた。
「昔の手動切り替えが残ってる」
テオが驚く。
「使えるんですか」
「使えるかじゃない。動くか見る」
「同じでは?」
「違う」
オルドは古い覆いを外した。
中から一本の太い操作棒が現れる。
「懐かしいな」
「知ってるのか」
シャワルが聞く。
「昔これで何度も切り替えた」
「四十年前?」
「それくらいだ」
テオが横から覗く。
「今の制御と繋がってる場所は?」
「ここ」
オルドが指す。
「でもこのまま引くな。古い側が先に閉じる」
「じゃあ」
「新しい側へ半分流してから、こっちを閉じる」
「同時?」
「ああ」
「誰が新しい方を」
「お前だ」
テオの目が動く。
「自分?」
「現役だろ」
一瞬だけ戸惑った。
すぐ頷く。
「やります」
オルドも頷いた。
「俺が三つ数えたら半分開けろ」
「はい」
「そのあと俺が閉じる」
「閉じきったら、自分が全部受けます」
「そうだ」
二人の間で手順が決まる。
シャワルは何も言わない。
そこへ低い音が響いた。
中継制御の光がまた落ちた。
戻る。
途中まで。
さっきより遅い。
「時間がない」
グレンが言う。
「分かってる!」
テオが返す。
オルドも操作棒へ手を掛ける。
「今やる」
「待て」
シャワルが言った。
二人がこちらを見る。
「まだ戻ってる」
古い制御は弱っている。
それでも自分で持ち直そうとしている。
今シャワルが止めれば、そこから彼の負荷が始まる。
四十五秒必要なら、その四十五秒へ近づけてから使えばいい。
「先に準備だけしろ」
オルドがシャワルを見る。
昔なら、自分から先に「止めろ」と言っていたかもしれない。
今は違った。
「分かった」
それだけ答えた。
テオも位置につく。
グレンは全員の退路を確認する。
「失敗したら」
「全員出る」
テオが答えた。
「予備路は諦めます」
「避難所の暖房は」
「別地区の負荷を下げて持たせます」
「それでも駄目なら」
「避難所を二つに分けます」
もう次の答えまである。
シャワルは少し安心した。
この設備を絶対に直さなければならないわけではない。
失敗した時に人を危険へ残さない。
それならやれる。
「始めるぞ」
オルドが言う。
「一」
テオが新しい制御へ手を置く。
「二」
グレンが周囲を見る。
「三!」
テオが流れを開いた。
古い中継制御の光が揺れる。
一部が新しい側へ流れた。
「半分!」
「受けた!」
オルドが操作棒を引く。
固い。
動かない。
「くそっ」
「オルドさん!」
「分かってる!」
両手で引く。
少し動いた。
古い側が閉じ始める。
その瞬間、制御の光が大きく落ちた。
戻らない。
シャワルの目が変わる。
「来るぞ」
オルドが振り返らないまま叫ぶ。
「何秒!」
「もうない」
右手を上げる。
風が流れた。
古い制御の最後へ、一枚の薄い層が重なる。
光は消えかけている。
亀裂も止まらない。
それでも完全には切れない。
「止めた」
オルドが息を吐いた。
「四十年前と同じだな」
シャワルが眉を寄せる。
「何が」
「お前が止めて、俺が直す」
「四十年前のお前はもっと速かった」
「お前ももっと長く持った!」
「喧嘩してる場合ですか!」
テオが叫ぶ。
「お前が一番うるさい!」
オルドが返す。
それでも操作棒から手は離さない。
シャワルも少し笑った。
身体は重い。
右腕にもすぐ負荷が乗る。
だが、二つではない。
一つだけ。
しかも、何をすれば終わるか分かっている。
「テオ!」
オルドが叫ぶ。
「新しい側、あと一割!」
「上げます!」
「ゆっくり!」
「分かってます!」
表示が変わる。
テオは一気に開かない。
古い側から新しい側へ、流れを少しずつ渡す。
シャワルの風の向こうで魔力が動く。
「六割!」
「まだ!」
「七!」
「そこで一回止めろ!」
テオが止める。
オルドが操作棒をさらに引く。
古い側が閉じる。
途中でまた固くなる。
「動け!」
老人が歯を食いしばる。
テオが手を伸ばしかけた。
「触るな!」
オルドが怒鳴る。
「お前は向こう見ろ!」
テオの手が止まる。
一瞬だけ悔しそうな顔をした。
だが、すぐ新しい制御へ戻った。
自分の仕事を捨てない。
「八割いけます!」
「やれ!」
新しい側へ流れる量が増える。
シャワルの手へ返ってくる圧が少し軽くなった。
「シャワル!」
オルドが叫ぶ。
「何だ」
「軽くなったか!」
「少し」
「なら次で終わる!」
操作棒を最後まで引く。
鈍い音がした。
古い側が閉じ切った。
「テオ!」
「全部受けます!」
新しい制御が光る。
一度大きく揺れた。
シャワルの風はまだ離さない。
「九割!」
「急ぐな!」
「分かってる!」
「十!」
流れが完全に新しい側へ移った。
古い中継制御から、押してくる感触が消える。
シャワルが右手を下ろす。
薄い風がなくなる。
古い制御に走っていた亀裂が最後まで進んだ。
小さな破砕音。
光が消える。
今度は何も起きなかった。
新しい側だけが安定している。
テオが表示を確かめる。
一度。
二度。
三度。
「……繋がりました」
グレンが聞く。
「安定?」
「安定です」
「避難所側!」
通信が返る。
『暖房、復帰しました!』
周囲から息が漏れた。
シャワルは壁へ手をついた。
グレンが椅子を探そうとする。
「まだ立てる」
「倒れる前の人もそう言います」
「最近そればっかりだな」
近くの箱へ座らされた。
今度は抵抗しない。
オルドはまだ古い制御の前にいた。
壊れた操作棒を見る。
「終わったな」
「そっちはな」
シャワルが答える。
オルドが振り向く。
「昔なら、このあと二人で酒飲んでた」
「お前は仕事中でも飲みたがった」
「終わってからだ」
「一回だけ途中で飲んだ」
「暑かったんだよ」
「理由になってない」
テオが笑う。
「本当に四十年前からこんな感じだったんですか」
シャワルとオルドが同時に答えた。
「こいつの方が酷かった」
二人で顔を見合わせる。
「俺か?」
「お前だ」
「どう考えてもお前だろ」
「俺は静かだった」
「嘘つけ!」
テオがさらに笑った。
グレンまで口元を緩めている。
「でも」
テオが壊れた古い制御を見る。
「最後はオルドさんでしたね」
オルドが眉を上げる。
「何が」
「閉じたの」
「ああ」
「自分、途中で手を出しそうになりました」
「見てた」
「手伝った方が早いと思って」
「向こうを離したら全部駄目だった」
「はい」
テオは少しだけ悔しそうに笑う。
「まだですね」
「何が」
「全部やりたくなるところ」
オルドは少し考えた。
「別にやりたきゃやれ」
テオが意外そうな顔をする。
「ただ、同時に二つやれない時はどっちか選べ」
「はい」
「今日お前が向こうを見てたから、俺はこっちだけ見られた」
テオが黙った。
オルドは壊れた制御から手を離す。
「だから繋がった」
シャワルはそのやり取りを聞いていた。
四十年前と同じではない。
昔はシャワルが止め、オルドが直した。
今日は違う。
シャワルが止めた。
オルドが古い側を閉じた。
テオが新しい側へ繋いだ。
グレンが失敗した時の退避まで組んだ。
同じ仕事に見えて、人が増えている。
それでいい。
「シャワルさん」
テオがこちらを見る。
「何だ」
「さっき、四十年前と同じって言ってましたけど」
「言ったのはオルドだ」
「同じでした?」
シャワルは少し考える。
「違うな」
オルドもこちらを見る。
「俺とオルドだけじゃ終わらなかった」
テオが黙る。
「今日の方がいい」
シャワルが言う。
オルドが鼻を鳴らす。
「寂しいこと言うな」
「何が」
「昔の二人が負けたみたいじゃねえか」
「負けてるだろ」
「誰に」
シャワルはテオを指した。
「若い奴に」
テオが困った顔をする。
「巻き込まないでください」
「お前もそのうち老いる」
「急に嫌な話にしないでください」
グレンが笑った。
避難所から正式な確認が届いた。
暖房安定。
給水も問題なし。
第五地区から避難した住民を、今夜もう一度動かす必要はない。
一つ、片付いた。
グレンが地図の印を一つ消す。
「西側中継、復旧完了」
赤でも黄色でもなくなる。
普通の表示へ戻る。
オルドが大きく息を吐いた。
「今度こそ終わったな」
「これはな」
シャワルは答える。
その言葉を口にした直後だった。
警報が鳴った。
今まで聞いたものとは違う。
高く、長い。
詰所の全員が動きを止める。
一度。
二度。
三度。
建物の奥にある表示板が一斉に変わった。
第五でもない。
第七でもない。
東区でもなかった。
中央。
町全体から伸びる線が集まる、一番大きな印。
グレンが地図へ駆け寄る。
「どこだ!」
隊員が表示を確認する。
顔色が変わった。
「中央制御塔です!」
室内の空気が一瞬で変わった。
テオが息を呑む。
「中央?」
「供給低下!」
「何秒!」
「まだ落ちてます!」
いつもの二秒で戻らない。
三秒。
四秒。
五秒。
シャワルは立ち上がった。
グレンが止めようとする。
だが、今度は言葉が出なかった。
全員が表示を見ていた。
七秒。
魔力が戻った。
一気に。
中央の表示が赤く染まる。
その周囲。
東。
西。
南。
北。
幾つもの線が同時に揺れた。
テオが小さく呟く。
「まずい」
オルドの顔から、さっきまでの笑いが消えている。
「何が起きる」
グレンが尋ねた。
テオはすぐに答えられなかった。
代わりにオルドが地図を見る。
「全部だ」
「何が」
「今まで枝で起きてたことが」
太い指が中央の一点を示す。
「根元で起きてる」
次の警報が鳴った。
シャワルは右手を見た。
まだ震えている。
さっき使ったばかりだ。
二つを抱えた疲れも残っている。
身体が万全とは、とても言えない。
それでも外套を取った。
オルドがこちらを見る。
何か言おうとする。
シャワルは先に口を開いた。
「行くぞ」
「……ああ」
今度だけは、誰も止めなかった。
四十年前と同じように。
そして、四十年前よりずっと多くの人間と一緒に。
二人は中央制御塔へ向かった。




