冬嵐
窓が鳴った。
一度ではない。
風が通りを抜けるたび、シャワルの家の古い窓枠が小刻みに震えている。
昼を過ぎたばかりだというのに、外は薄暗かった。
朝から降り始めた雪は横殴りになり、向かいの建物すら白く霞んでいる。
通りを歩く人もほとんどいない。
シャワルは窓から離れ、椅子へ戻った。
机には『風見鶏の街道』第三巻。
その横には湯気の薄くなった茶がある。
「読みにくいな」
頁へ視線を落とす。
文字が見えないわけではない。
窓が鳴るたびに、そちらへ意識を持っていかれるだけだった。
今朝、町から冬嵐への注意が出ている。
不要な外出は控えること。
商店は早めに閉めること。
魔術設備を大量に使う工房は、できる限り出力を落とすこと。
東区では古い供給設備の交換も続いているため、保守班が通常より多く配置されている。
シャワルへも連絡は来ていた。
自宅待機。
必要になれば呼ぶ。
以前なら、それを聞いて落ち着かなかったかもしれない。
今は本を開いている。
少しは上手くなったらしい。
三行ほど読んだところで、玄関が叩かれた。
強い。
風の音ではない。
シャワルは栞を挟んだ。
扉まで歩く。
開けると、雪まみれの救難隊員が立っていた。
「シャワル・ミレイスさん」
顔を知っている。
グレンの隊にいる若い男だった。
「要請です」
その一言で十分だった。
厚い外套を着る。
手袋を取る。
一度だけ机を見る。
第三巻は閉じたままだ。
「場所は」
外へ出ながら尋ねる。
「東区第五地区。交換途中の供給経路です」
「何が起きた」
「最初に供給低下。そのあと復帰時に三地区で同時に負荷が上がりました」
「三つ?」
「はい。ただ、二つは切り離し済みです」
救難隊員は雪の中を歩きながら説明する。
「第五地区だけ切れませんでした。暖房設備と共同給水が同じ制御に残っています」
「人は」
「避難開始しています」
「まだ残ってるな」
「はい」
即答だった。
通りの先に救難隊の車が待っている。
シャワルは乗り込んだ。
中には毛布と救助具が積まれていた。
「グレンは」
「現場です」
「テオ」
「地下」
「オルドは」
若い隊員が少しだけ困った顔をした。
「地下です」
「何で」
「止めたんですが」
「聞かなかったか」
「はい」
「馬鹿だな」
「シャワルさんが言います?」
言われて、シャワルは黙った。
「最近の若い奴は口が悪い」
「オルドさんにも言われました」
「なら直せ」
「考えます」
車が動き出す。
雪で速度は出ない。
窓の向こうでは、町の人間が戸を閉め、店先の物を中へ運んでいる。
何軒かの街灯が消えていた。
故障ではない。
負荷を減らすため、保守班が意図的に落としているのだろう。
「第五地区は何人」
シャワルが尋ねる。
「住民がおよそ四百。全員が危険区域にいるわけではありません。制御設備に近い二街区から優先して避難中です」
「どこへ」
「南の学校と共同会館」
「歩きか」
「歩ける人は。高齢者と病人は車を回しています」
「雪で遅いな」
「はい」
若い救助員は否定しなかった。
それが一番の問題だった。
現場へ近づくにつれ、人が増えた。
ただし混乱しているわけではない。
救難隊員が交差点へ立ち、住民を同じ方向へ誘導している。
大人は子供の手を引く。
杖をついた老人の横には近所の男がいる。
荷物を抱えた女が救難隊員に止められ、鞄を一つその場へ置いた。
「荷物は後で取りに戻れます! 今は人を先に!」
女は一瞬だけ家の方を見た。
それから鞄を離し、子供と歩き始める。
シャワルは車の中からその様子を見ていた。
自分が来る前から避難は進んでいる。
当然だった。
それでいい。
車が止まる。
扉を開けた瞬間、風が身体へぶつかった。
「酷いな」
声まで持っていかれそうになる。
救難隊員に案内され、仮設の詰所へ入る。
グレンがいた。
濡れた髪を拭く暇もないらしく、地図の前で指示を出している。
「北側の車両、一本南へ回せ! この道は雪が積もりすぎてる!」
「了解!」
「学校側、受け入れ人数は!」
「まだ余裕あります!」
「第五地区、残り!」
「確認中!」
グレンがシャワルに気づいた。
「来ましたか」
「ああ」
「状況だけ伝えます」
余計な前置きはなかった。
「第五地区の制御が戻りません」
「最後に入ったか」
「まだです」
そこが重要だった。
「テオたちが今、地下で負荷を逃がしています。修理は諦めました」
シャワルが少しだけ眉を上げる。
以前なら、「直せるか」を先に聞いたかもしれない。
今は違う。
「何を残す」
「給水だけです。暖房側は切ります」
「この嵐で?」
「今夜は各避難所へ集める。個別住宅の暖房を守って人を残す方が危険です」
迷いのない返事だった。
「いい判断だ」
「テオのです」
「そうか」
グレンは伝声具を取る。
「地下、シャワルさん到着」
雑音の向こうからテオの声が返った。
『聞こえてます』
さらに別の声。
『遅いぞ』
オルドだった。
シャワルは伝声具へ顔を近づける。
「帰れ」
『お前が来て最初にそれか』
「七十五だろ」
『お前は七十四だ!』
「一つ若い」
『威張るな!』
グレンが伝声具を遠ざけた。
「非常時に喧嘩しないでください」
「向こうが始めた」
『聞こえてるぞ!』
「元気そうだな」
『お前よりはな』
グレンが通信を切った。
「続けます」
「冷たいな」
「仕事中です」
シャワルは少し笑った。
地図へ視線を移す。
第五地区の中心に大きな印。
そこから何本かの線が伸びている。
説明は簡単だった。
町から送られてきた魔力を、この場所でいくつかの用途へ分ける。
暖房。
給水。
街灯。
一部の工房。
街灯と工房はすでに切った。
暖房も今から切る。
残すのは給水だけ。
だが、制御そのものが壊れきれば、そこだけを残すこともできない。
「何分」
シャワルが尋ねる。
グレンはすぐ答えなかった。
地下へ通信を入れる。
「テオ、切り離しまで」
『暖房側があと四十秒。給水側を安定させるのに、そのあと二十』
「六十」
『問題が出なければ』
グレンが避難担当へ尋ねる。
「危険街区、残り」
別の隊員が記録を見る。
「百二十三人」
シャワルが顔を上げる。
「多いな」
「嵐で予定より遅れています」
「全員出るまで」
「今の速度なら八分ほど」
六十秒と八分。
全く足りない。
シャワルは地図を見る。
「制御が壊れたら、どこまで危ない」
「設備周辺二街区」
グレンが答える。
「破断だけなら建物が全部吹き飛ぶような事故ではありません。ただ、溜まった魔力が複数の設備へ逆流する可能性があります」
「なら百二十三人は出す」
「はい」
「俺が止めるのは、その時間じゃないぞ」
グレンは頷く。
分かっている。
シャワルが八分止めればいいという話ではない。
今の身体で、都市設備を八分抑えるなど論外だった。
「俺が止めるまでに、できるだけ出せ」
「最初からそのつもりです」
その返事が嬉しかった。
地下から強い音が響いた。
地面が一度震える。
表示板の一つが赤くなる。
『暖房側、切ります!』
テオの声。
『受け側確認!』
別の技師。
『切断!』
表示から一つの流れが消える。
暖房側。
これで第五地区の住宅暖房は止まった。
だが避難している住民を家へ残す必要もなくなる。
「暖房停止を避難所へ伝えろ!」
グレンが指示を飛ばす。
「戻ろうとする住民が出るかもしれない。第五地区は全員避難継続!」
「了解!」
シャワルは地下の流れを風で探った。
薄い風を床際へ這わせる。
魔力の揺れが返ってくる。
一つを切ったことで負荷は減った。
だが、制御全体は戻っていない。
むしろ不安定さだけがはっきりしている。
「まだ戻ろうとしてる」
シャワルが言う。
グレンが顔を向ける。
「まだ最後じゃない?」
「ああ」
「なら避難を進めます」
それだけだった。
時間が進む。
三分。
危険区域の残り八十七人。
四分。
六十一人。
雪が強くなり、一部の道が使えなくなった。
グレンは即座に迂回を決める。
「東の細道へ入れるな! 老人が転ぶ! 一本遠くても大通りを使え!」
「時間が掛かります!」
「転んで詰まる方が遅い!」
救助員が走る。
ニナも来ていた。
治療班を避難所側へ置いていたが、歩行が難しい住民を運ぶため一度現場へ戻っている。
「車、一台借ります!」
グレンが振り返る。
「どこへ」
「北端に歩けない人が三人残っています」
「救難隊員を二人付ける」
「一人でいいです」
「雪で車が止まった時に一人じゃ足りない」
ニナが一瞬考えた。
「分かりました。二人ください」
すぐ受け入れる。
車が出る。
シャワルは誰にも指示しなかった。
皆が自分で動いている。
五分。
地下から声。
『給水側へ繋ぎます!』
テオ。
『受ける!』
魔力が切り替わる。
表示が揺れる。
一度、大きく落ちる。
戻る。
シャワルは右手を少し上げた。
だが、まだ使わない。
戻った。
自分で戻った。
「まだ」
小さく呟く。
グレンが聞いていた。
「はい」
六分。
危険区域、残り三十八人。
給水側の表示は安定しかけている。
これならいける。
そう思った直後だった。
町全体の灯りが一度落ちた。
詰所の中まで暗くなる。
二秒。
すぐ戻る。
以前から続いていた供給低下。
ただし今度は違った。
戻った瞬間、第五地区の表示が真っ赤になった。
「来た!」
テオの声が伝声具から響く。
地下で何かが弾ける音。
『復帰が強すぎる! 制御が受けきれない!』
「逃がせ!」
オルドの声。
『やってる!』
『給水側、上げるな!』
『上げてない! 勝手に入ってきてる!』
いくつもの声が重なる。
グレンが地下へ叫ぶ。
「退避判断は!」
短い間。
テオが答える。
『まだ作業します! 切り離せれば給水側は残せます!』
「何秒!」
『三十!』
グレンはシャワルを見ない。
地下へ返す。
「二十五でやれ!」
『了解!』
次に避難担当。
「残り!」
「三十一人!」
「急がせるな! 今の経路を守れ!」
「はい!」
シャワルは床へ薄い風を流した。
さっきとは違う。
制御魔術が戻らない。
揺れる。
削れる。
一度持ち直そうとして、できない。
最後へ進み始めている。
右手が上がる。
まだ数秒ある。
地下ではテオたちが切り離しを進めている。
十五秒。
風の感触がさらに変わる。
戻る力がほとんど消えた。
「グレン」
「はい」
「来るぞ」
グレンが伝声具を取る。
「地下、残り何秒!」
『十二!』
「避難は!」
「二十七人!」
到底間に合わない。
シャワルは目を閉じなかった。
薄い風が何を拾うかを、最後まで見る。
九秒。
地下で金属音。
『一つ切った!』
六秒。
制御全体に亀裂が走るような感触。
三秒。
もう戻らない。
シャワルの右手が前へ出た。
風が走った。
激しくはない。
冬嵐の外気とは比べ物にならないほど薄い風だった。
それが地下へ入り、崩れきろうとしている制御魔術の最後へ重なる。
一枚。
透明な膜。
光の角度によって、その縁だけが白く見えた。
制御は壊れ続ける。
亀裂もある。
復帰した魔力も押し込んでくる。
それでも最後だけが来ない。
「止めた」
グレンが即座に叫ぶ。
「地下! 続行!」
『了解!』
「住民避難もそのまま! 走らせるな!」
「はい!」
誰も安堵して止まらなかった。
シャワルの右腕に重さが乗る。
治療院の時より強い。
昇降台とも水路とも違う。
これは地区一つを支えている制御だ。
その最後を押し留めている。
右手が早くも震え始めた。
「シャワルさん」
グレンが横へ来る。
「何秒必要か聞け」
言われる前に釘を刺す。
グレンは一瞬だけ口元を動かした。
すぐ通信へ戻る。
「テオ!」
『十九秒!』
「避難!」
「二十二人!」
「二つとも縮めろ!」
無茶な指示ではない。
安全を削れと言っているのでもない。
今ある手順の中で、余計な動きを消せという意味だ。
地下から工具の音。
地上では車輪が雪を掻く。
シャワルはただ持たせる。
十秒。
二十秒。
右腕が下がりかける。
左手で支える。
息が深くなる。
「地下!」
『あと七!』
「避難!」
「十五人!」
まだ多い。
シャワルは歯を食いしばらない。
力を入れすぎれば、風が乱れる。
必要なのは強さより薄さだった。
最後の一線だけ。
それ以外は動かしていい。
壊れかけたものは壊れかけたまま。
魔力も流れたまま。
ただ最後だけを渡さない。
『切れた!』
テオの声が響いた。
『給水側、独立します!』
別の技師が答える。
『受けた!』
表示の一つが変わる。
給水側が別の制御へ移る。
だが、古い第五地区制御そのものはまだ危険だった。
完全破断すれば周辺へ残った魔力が流れる。
「避難!」
グレンが叫ぶ。
「十一人!」
シャワルは腕を下ろさない。
「まだだな」
「はい」
グレンも同じものを見ていた。
その時、詰所の扉が開いた。
ニナが入ってくる。
外套に雪が張り付いている。
「北端三人、出しました!」
「残り八!」
グレンが返す。
ニナはシャワルを見る。
一瞬だけ顔が強張った。
右手が震えている。
左手で支えている。
それでも近づかなかった。
今、自分が止められるものではない。
代わりにグレンへ聞く。
「残り八人はどこ」
「西側住宅!」
「歩けます?」
「六人は。二人は確認中!」
「車回します」
「道が狭い」
「手前まで行って担架」
「隊員二人付ける」
「お願いします!」
また外へ出ていく。
シャワルはその背中を一瞬だけ見た。
セルマとは違う。
誰かと重ねる必要もない。
ニナはニナのやり方で走っている。
それでいい。
一分を越えた。
シャワルの額に汗が浮かぶ。
冬なのに暑い。
外套を脱ぐ余裕はない。
「あと何人」
「五!」
グレンの声。
地下のテオたちはすでに避難へ移っている。
オルドも上がってくる途中だ。
「地下全員退出まで十二秒!」
「分かった」
シャワルは短く答える。
右手に乗る圧が強くなっている。
止めている間にも内部の魔力は消えていない。
長く持たせれば楽になるものではない。
早く全部出すしかない。
「地下三人出た!」
「あとオルドとテオ!」
「住民三!」
雪の向こうから声。
「西住宅、二人確保!」
「残り一!」
グレンが伝声具を握った。
「誰だ!」
「老女一名! 歩けますが遅い!」
シャワルが笑いそうになった。
よりによって最後が老人か。
「走らせるなよ」
グレンがこちらを見る。
「言われなくても」
「ならいい」
外から風が建物を叩く。
シャワルの風は、それよりずっと薄い。
それでも最後を支えている。
地下階段から二人が出てきた。
テオ。
その後ろにオルド。
「出最後を支えている。
地下階段から二人が出てきた。
テオ。
その後ろにオルド。
「出たぞ!」
オルドが叫ぶ。
シャワルは視線だけ向ける。
「遅い」
「うるせえ!」
元気ならいい。
「住民!」
グレンが叫ぶ。
返事が遅い。
数秒。
さらに数秒。
シャワルの腕がまた沈む。
オルドがこちらへ歩きかける。
「来るな」
「でも」
「お前が支えても風は変わらん」
オルドが歯を食いしばった。
足を止める。
それでいい。
伝声具が鳴った。
『最後の一人、避難車へ乗せました!』
グレンの顔が上がる。
「危険区域、全員退避?」
『確認します!』
数秒。
長い。
シャワルは待つ。
『全員です!』
グレンが息を吐く。
「第五地区、住民退避完了!」
周囲の空気が動いた。
それでもシャワルは解除しない。
グレンも喜んで終わらせなかった。
「周辺隊員、全員外へ! 保守班も退避!」
「了解!」
人が動く。
自分たちまで残れば意味がない。
全員が規定地点を越える。
グレンが最後に地図を確認した。
「第五地区、無人確認!」
そしてシャワルを見る。
「もう離せます」
シャワルは地下の状態を探った。
給水側は切れている。
暖房も街灯も工房も別れている。
古い制御に残っているのは、行き場を失った魔力だけだ。
壊れれば損害は出る。
設備も死ぬ。
だが、もう人はいない。
「終わらせるか」
オルドが少し離れた場所から言った。
シャワルは頷く。
「これは終わっていい」
右手を下ろそうとした。
その時だった。
詰所の奥で、新しい警報が鳴った。
一つではない。
表示板の別の場所が赤く光る。
グレンが振り返る。
「どこだ!」
隊員が記録へ飛びつく。
「第七地区!」
テオの顔色が変わる。
「第七?」
「供給低下! 復帰後、制御が急上昇!」
シャワルの右手が止まった。
まだ第五地区を離していない。
第七地区はここから北。
避難も始まっていない。
グレンが地図を見る。
オルドも黙った。
外では冬嵐が唸っている。
シャワルは右手を上げたまま、赤く灯った二つ目の印を見た。
「……次か」
第五地区の最後は、まだ彼の手の中にあった。




