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セルマという人

「そこ、引っ張るな」


「引っ張ってないよ」


「今引っ張った」


「ちょっとだけ」


「本にちょっとはない」


シャワルが手を伸ばすと、フィアは慌てて指を離した。


机の上には『風見鶏の街道』第六巻が開かれている。


端の一頁が、綴じ目の近くから少し裂けていた。


読めないほどではない。


文字にも掛かっていない。


だが、このまま何度も開けば裂け目は少しずつ広がる。


シャワルは細い刷毛へ糊を取り、薄い補修紙の端へ塗っていた。


向かいに座るフィアは、先ほどからその手元を食い入るように見ている。


「やらせて」


「嫌だ」


「まだ何もしてない」


「だからだ」


「練習しないとできるようにならないでしょ」


もっともらしいことを言う。


シャワルは眼鏡越しに少女を見る。


「人の本で練習するな」


「じゃあ自分の本持ってくる」


「破れてるのか」


「破る」


「馬鹿なことするな」


フィアは頬を膨らませた。


「じゃあいつまで経ってもできないじゃん」


「別にできなくていいだろ」


「できた方がいい」


「何で」


「本好きだから」


シャワルの手が少し止まった。


そこまで言われると、追い返しにくい。


フィアは『風見鶏の街道』を最後まで読んだ後も、図書館から好きな巻を何度か借りている。


最近は別の本にも手を出し始めたらしい。


先日も、シャワルが知らない児童向けの冒険小説について延々と説明された。


内容は半分も分からなかったが、本人が楽しそうだったので最後まで聞いた。


「端だけだぞ」


シャワルが言う。


フィアの顔が明るくなる。


「やっていい?」


「俺が紙を置く。お前は押さえるだけ」


「簡単」


「簡単なところからやれ」


「はい」


返事だけはいい。


シャワルは補修紙を裂け目へ慎重に重ねる。


「ここ」


「うん」


「指一本でいい。強く押すな」


フィアが人差し指を置く。


「これくらい?」


「もう少し弱く」


「これ?」


「それでいい」


二人でしばらく待つ。


フィアは珍しく黙っていた。


動けばずれると分かっているらしい。


十数秒ほどして、シャワルが指を離すよう言う。


少女はそっと手を上げた。


「できた?」


「まだ」


「まだなの?」


「乾くまで待つ」


「長い」


「本は逃げん」


「読みたいんだけど」


「図書館で借りろ」


「これはシャワルさんのだから」


シャワルは少しだけ笑った。


以前は古い本を貸してほしいと言われ、断った。


今ではフィアも、この十一冊を家から持ち出させる気がないことを理解している。


だから家へ来て読む。


先ほども六巻の途中を読んでいて、頁の裂け目に気づいたのはフィアだった。


「ここ、破れてるよ」


と言われなければ、シャワル自身はもう少し後まで気づかなかったかもしれない。


「役に立ったな」


「何が?」


「破れてるの見つけた」


フィアが得意そうに胸を張った。


「じゃあわたしも直した人?」


「半分くらいな」


「少ない」


「押さえただけだろ」


「見つけたのもわたし」


「なら六割」


「八割」


「欲張るな」


そんなことを言いながら、補修紙が落ち着くのを待った。


開いているのは、セルマが怪我人を背負って坂を上る場面だった。


フィアが挿絵を見る。


「この人、本当にすぐ人背負うね」


「何回目だろうな」


「自分も怪我してるのに」


「馬鹿だろ」


「好きな人に言う?」


「馬鹿な時は馬鹿だ」


フィアは少し笑った。


「シャワルさんって、セルマのこと何でも好きってわけじゃないよね」


「当たり前だ」


「嫌いなところもある?」


シャワルは考えた。


「謝るのが遅い」


「分かる」


「腹が立つと人の話を最後まで聞かん」


「分かる」


「勝手に危ないところへ行く」


「それも分かる」


フィアが何度も頷く。


そして、少し考えてから付け足した。


「なんかシャワルさんが言うと変だね」


「何が」


「勝手に危ないところ行くって」


シャワルは黙った。


「最近は行ってない」


「前は行ったんだ」


「仕事だ」


「セルマもそう言いそう」


「一緒にするな」


フィアが声を立てて笑った。


シャワルも否定しながら少しだけ笑う。


セルマと自分が似ているとは思わない。


あの女はもっと先に身体が動く。


シャワルはまず見る。


何が壊れているのか。

誰が残っているのか。

あとどこまで進めば最後になるのか。


それを見てから動く。


少なくとも今はそうだ。


若い頃がどうだったかは、少し怪しい。


「でも」


フィアが挿絵を見ながら言った。


「何でセルマなの?」


「何が」


「一番好きなの」


「前も聞いただろ」


「幸せならそれでいい人っていうのは聞いた」


「なら答えた」


「そうじゃなくて」


フィアが身体を少し前へ出す。


「何でセルマだけ、そう思うようになったの?」


シャワルは答えず、補修した部分へ指を近づけた。


まだ乾いていない。


もう少し待つ。


フィアも急かさなかった。


難しい問いをした自覚くらいはあるらしい。


「最初からじゃない」


シャワルが言った。


「え?」


「二巻で出てきた時から一番好きだったわけじゃない」


フィアの目が少し大きくなる。


「そうなの?」


「ああ」


「じゃあ最初は誰?」


「覚えてない」


「五十回以上読んでるのに?」


「最初に誰が一番だったかなんて覚えてない」


「もったいない」


「何が」


「最初に好きだった人、もう分からないんでしょ」


そう言われると、少し面白かった。


確かにもう分からない。


少年だった自分が、最初に誰を気に入ったのか。


何に笑ったのか。


何をつまらないと思ったのか。


今の自分には一部しか残っていない。


「でも、セルマは残った」


フィアが言った。


「そうだな」


「いつから?」


「それも正確には覚えてない」


「覚えてないこと多いね」


「七十四年分あるからな」


「本の内容は覚えてるのに」


「うるさい」


フィアが笑う。


シャワルは補修紙を確認した。


まだ触らせるには早い。


仕方なく椅子へ深く座る。


「子供の頃の俺はな」


フィアが顔を上げた。


「家で褒められる時には、だいたい理由があった」


「理由?」


「勉強ができた。言われたことをした。手伝った。良い結果を出した」


「普通じゃない?」


「普通だろうな」


両親に殴られたこともない。


食事を与えられなかったこともない。


学校へも行かせてもらった。


欲しい物を何でも買ってもらえたわけではないが、必要な物には困らなかった。


不幸な家だった、と言う気はない。


「でも」


シャワルは少し考えた。


「何もしなくても大事にされる、というのがよく分からなかった」


フィアは黙った。


「役に立つから褒められる。言うことを聞いたから喜ばれる。俺の中じゃ、そういうのが普通だった」


「じゃあ、何もしなかったら?」


「別に怒られはしない」


「でも褒められない?」


「まあな」


フィアは眉を寄せた。


十一歳なりに、どういうことか考えている。


「セルマは違った?」


「あいつ自身が俺を何かしてくれたわけじゃないぞ」


「本の人だもんね」


「そこは忘れるな」


シャワルは第六巻を見る。


「セルマは、助けた相手から何も返ってこなくても気にしないことがあった」


「お礼も?」


「礼くらい欲しがる時はある」


「欲しがるんだ」


「立派な聖人じゃないからな」


セルマは褒められれば喜ぶ。


酒を奢られれば飲む。


恩知らずな相手へ腹を立てることもある。


それでも。


「嫌われてる相手でも、危ないと助けに行く」


「何で?」


「本人に聞け」


「聞けない」


「俺にも分からん」


シャワルは少し笑った。


「ただ、助けたからって自分を好きになれとは言わない」


フィアは挿絵を見る。


「仲間が別の町へ行く話、あったよね」


「四巻だな」


「セルマ、最初すごく怒ってた」


「ああ」


「でも最後は行かせた」


「喧嘩もした」


「した」


二人とも場面を知っている。


旅の仲間の一人が、一行を離れる話だった。


セルマは納得できず、かなり揉めた。


寂しいとも言った。


残ってほしいとも言った。


それでも最後には、相手が選んだ道を邪魔しなかった。


「子供の俺には、あれがよく分からなかった」


シャワルが言う。


「好きなら残しておけばいいと思った」


「無理じゃない?」


「今ならそう思う」


「子供の時は?」


「相手が嫌がっても、説得すればいいんじゃないかと思ってた」


フィアが少し笑う。


「シャワルさんも子供だったんだ」


「当たり前だ」


「最初からおじいさんじゃなかったんだね」


「お前は俺を何だと思ってる」


「おじいさん」


「帰れ」


「まだ本乾いてない!」


逃げ道を見つけたように本を指す。


シャワルはため息をついた。


「何度か読み返してるうちに」


シャワルは続けた。


「少しずつ分かった」


「何が?」


「自分のそばにいることと、その人が幸せなことは同じじゃない」


フィアが静かになる。


「その人が、自分と関係ないところで笑っててもいい」


「うん」


「自分を選ばなくてもいい」


「うん」


「もう会えなくなっても、その人が行きたいところへ行けたなら、それを嬉しいと思うこともある」


フィアは少し考えた。


「寂しいのに?」


「ああ」


「それでも?」


「ああ」


シャワルは机の木目を見る。


「そう思える感情があるって、セルマを読んで初めて知った」


それを最初から愛と呼んでいたわけではない。


もっと後になって、自分の中にある感情へ名前を付けた。


自分の物にしたいわけではない。


自分を好きになってほしいわけでもない。


架空の人物なのだから、そもそもそんなことは起こらない。


それでも、セルマが幸福であってほしい。


最後の巻を読まない今も、その気持ちだけは変わらない。


「それで愛してるって言ったの?」


フィアが聞く。


「今はな」


「恋じゃなくて」


「ああ」


「難しいね」


「前にも言っただろ。分からなくていい」


「前よりは分かる」


「そうか」


「たぶん」


「なら十分だ」


フィアはセルマの挿絵へ目を落とした。


少しして、少女がまた口を開く。


「だからシャワルさん、人を助ける仕事したの?」


シャワルはすぐに答えなかった。


来ると思っていた問いだった。


「全部を本のせいにするな」


「違うの?」


「仕事を選んだのは俺だ」


「でも」


「事故の魔術を見るのが得意だった。人を吹き飛ばすより、壊れる前に圧を逃がす方が向いてた」


「それだけ?」


「給料も出た」


フィアが笑う。


「そこ言う?」


「働くんだから大事だ」


「夢がない」


「仕事に夢だけ求めるな」


フィアはまだ笑っている。


シャワルも少し口元を緩めた。


「セルマを読まなかったら、別の仕事をしたかもしれん」


「やっぱり影響ある」


「かもしれん、と言った」


「ちょっとは?」


「ちょっとはな」


認めると、フィアが嬉しそうな顔をした。


何を勝った気になっているのか分からない。


「ただ」


シャワルは続ける。


「事故現場で助けた奴が、俺の名前を覚えてなくてもいいと思えるのは、あいつのせいかもしれん」


フィアの笑いが止まる。


「覚えてなくても?」


「ああ」


「お礼も言われなくても?」


「言われれば嬉しい」


「嬉しいんだ」


「人間だからな」


シャワルは少し笑う。


「でも、俺を覚えてるかどうかと、そいつが生きて帰れるかは別だ」


工房から救い出された青年。


呪術性の魔術障害を治療されたフィア。


記憶の一部を失った父親。


昇降台から引き上げられた作業員たち。


名前を覚えている者もいる。


忘れた者もいるだろう。


それで構わない。


「俺のところへ戻ってきて礼を言うために助けるわけじゃない」


フィアがじっとシャワルを見る。


「帰る場所へ帰ればいい」


その言葉に、自分でも少しだけセルマを思い出した。


誰かを背負って歩く女。


助けた相手が一行へ加わることを望んでいるわけではない。


無事なら、置いてまた次へ行く。


もちろん、シャワルはセルマではない。


同じように生きているつもりもない。


ただ、どこかで覚えた考え方が、何十年も自分の中に残っていることは否定できなかった。


フィアはしばらく黙った後、不意に言った。


「じゃあさ」


「何だ」


「セルマが本当にいたら、シャワルさんのこと好きになったかな」


シャワルは即座に眉を寄せた。


「知らん」


「想像で」


「しない」


「何で?」


「俺の都合であいつの答えを決めるな」


フィアが目を瞬く。


「でも本の人だよ?」


「だから何だ」


「想像するくらいいいじゃん」


「自分で勝手に考えるなら好きにしろ」


「シャワルさんは?」


「俺はしない」


少し強い声になった。


フィアもそれに気づいたらしい。


「怒った?」


「少しな」


「ごめん」


素直に謝る。


シャワルは息を吐いた。


「別に悪いことしたわけじゃない」


「でも怒った」


「俺が嫌だっただけだ」


「何が?」


「セルマが俺をどう思うかまで、俺の好きなように決めることが」


フィアは考える。


「幸せでいてほしいけど、シャワルさんを好きになってほしいとは違う?」


「そういうことだ」


「……やっぱり難しい」


「だから分からなくていいって言ってる」


「でも面白い」


フィアは笑った。


シャワルも、今度は怒らなかった。


「じゃあ」


フィアが言う。


「これはわたしの答えね」


「何が」


「シャワルさんには長生きしてほしい」


シャワルの手が止まる。


「セルマじゃなくて、わたしが」


少女は念を押す。


「わたしはそう思ってる」


先日、自分が死ぬ話をした時にも泣きそうになっていた。


今日は泣かない。


ただ、真っ直ぐこちらを見ている。


シャワルは何と返すか少し迷った。


「そうか」


「それだけ?」


「じゃあ何て言えばいい」


「頑張る、とか」


「努力はする」


「前も聞いた」


「便利な返事だからな」


「またそれ」


フィアが不満そうにする。


シャワルは少し笑った。


「でも、聞いておく」


「何を?」


「フィアがそう思ってること」


少女の表情が少しだけ柔らかくなる。


「うん」


それで十分だった。


ようやく補修紙が乾いた。


シャワルがそっと頁を開閉する。


裂け目は残っている。


紙の色も少し違う。


新品のようにはならない。


けれど、何度か開いても広がらない。


「できた?」


フィアが覗き込む。


「ああ」


「わたしもやった?」


「六割」


「まだ六割?」


「八割はやりすぎだ」


「じゃあ七」


「仕方ない」


フィアが満足そうに笑う。


「これでまた読めるね」


シャワルは頁を見る。


薄い補修紙の向こう側に、文章はきちんと残っている。


「そうだな」


フィアが本を閉じようとして、途中で手を止める。


「続き読んでいい?」


「いいぞ」


「ここで?」


「持って帰るなよ」


「分かってる」


少女は第六巻を自分の方へ向けた。


補修したばかりの頁を、今度は慎重にめくる。


少し先には、セルマがまた別の誰かを助けようとして仲間と揉めている場面がある。


フィアは読み始めた。


シャワルも別の本を棚から抜く。


同じ机で、二人が別々の頁を読む。


誰も喋らない時間がしばらく続いた。


やがてフィアが小さく笑った。


「やっぱりセルマ、また勝手に行ってる」


「言っただろ」


「でも、ちょっと好きになってきたかも」


シャワルは自分の本から目を上げなかった。


「そうか」


「嬉しい?」


少し考える。


「少しな」


「好きにならなくていいって言ってたのに」


「それと嬉しいのは別だ」


「難しいね」


「本読め」


「はい」


静けさが戻った。


補修した頁は、新しくはならなかった。


昔の折れも、色の変わった端も、そのままだった。


ただ、もう一度めくれるようになった。


その頁の向こうで、セルマは昔と同じように、誰かを背負って歩いていた。

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