止める人がいなくても
「それ、消せ」
シャワルが言うと、グレンは手元の紙から顔を上げた。
「どれです?」
「俺の名前だ」
一週間ぶりに訪れた東区の臨時詰所では、机いっぱいに新しい対応手順が広げられていた。
古い供給経路を区画ごとに止め、別の経路へ魔力を移しながら、順番に交換していく。
その最初の作業が今日から始まる。
いきなり町全体を止めるわけではない。
まずは比較的負荷の小さい一地区だけ。そこで問題が出なければ次へ進む。
シャワルは作業そのものには入らない。
治療院からは、しばらく強い魔術を使わないよう言われている。
保守局からも、非常時以外は安全区域で待機するよう念を押されていた。
その条件を全部守ると約束して、ようやく見学を許された。
そして詰所へ来て早々、グレンが作った緊急時の手順に自分の名前を見つけた。
『重大な破断兆候を確認した場合、シャワル・ミレイスへ連絡。到着まで現場維持を優先』
そこを指している。
グレンは紙を見る。
「前からある手順です」
「知ってる」
「何度もこれで助かっています」
「それも知ってる」
「なら何で消すんです?」
シャワルは椅子へ座ったまま、紙を自分の方へ引いた。
「俺が来なかったらどうする」
グレンが黙る。
「家で寝てるかもしれん。町の反対側にいるかもしれん。倒れて治療院にいるかもしれん」
最後だけ余計だったのか、隣で資料を読んでいたオルドが顔を上げた。
「縁起でもない例を混ぜるな」
「実際倒れただろ」
「だから言うな」
シャワルは無視して続ける。
「俺が来るまで持たせる、を最初の答えにするな」
グレンは紙へ視線を落とした。
「では、どう変えます?」
「それを決めるのはお前だろ」
「やっぱりそこは投げるんですね」
「俺は救難隊長じゃない」
「便利ですね」
「便利だぞ。役職が違うってのは」
グレンは少し笑い、それから別の紙を一枚引き寄せた。
「一応、案はあります」
最初から考えていたらしい。
重大な異常が出た場合。
まず人を出す。
次に異常区画を他から切り離す。
切り離せない場合は、周囲の負荷を減らす。
修理に残す時間を現場技師が判断し、それを越えるなら設備を捨てる。
その上で、それでも不可逆な破断まで時間が足りない場合にシャワルを呼ぶ。
「最後ですね」
グレンが言った。
「あなたへ連絡するのは」
シャワルは紙を読む。
「いいんじゃないか」
「軽いですね」
「何が」
「何十年も『シャワルが来るまで持たせろ』だった人が」
オルドが横から口を挟む。
「寂しいんだろ」
「勝手に決めるな」
「違うのか」
シャワルは返事をしなかった。
少しだけ考える。
「少しはな」
グレンが意外そうな顔をした。
オルドは笑わなかった。
「でも、そのまま残せとは思わん」
シャワルは紙をグレンへ返した。
「俺を待って死ぬ奴が出たら、そっちの方が困る」
グレンは一度だけ頷いた。
赤い筆を取り、古い一文へ線を引いた。
何十年も使われてきた手順の中から、シャワルの名前が消えた。
完全に消したわけではない。
一番下へ移っただけだった。
作業開始は正午。
詰所の窓からは、交換対象になった区画の一部が見えた。
通りには保守班が配置され、必要な場所だけ柵が置かれている。
今日は事前に知らせが出ているため、共同浴場は昼から休業。
いくつかの工房も作業時間をずらしていた。
水そのものは別の設備で動くため止まらない。
照明や暖房、工房設備へ送る魔力だけが一時的に別経路へ移される。
「これだけのために随分人がいるな」
シャワルが窓の外を見る。
グレンが答える。
「初回ですから」
「慎重だな」
「事故ってから人を集めるより安いです」
「それはそうだ」
オルドは詰所にいなかった。
現役の技師と一緒に現場へ出ている。
修理をするためではない。
古い経路のどこが過去に補修され、どこなら安全に切れるかを確認するためだ。
引退した技師としてではなく、古い町を知る者として呼ばれている。
シャワルは少し羨ましかった。
自分も地下へ行きたい気持ちはある。
だが、今行ってできる仕事はない。
なら座っている。
最近ようやく、それが少し上手くなった。
「始めます」
連絡役の声がした。
詰所の空気が変わる。
テオの声が伝声具から聞こえた。
『旧経路、八割まで落とします。代替側、受けてください』
別の技師が返す。
『受けます。現在三割』
表示板の数字がゆっくり変わる。
旧経路の流れが減る。
その分、新しい側が増える。
いきなり全部を渡さない。
少しずつ。
四割。
五割。
六割。
何も起きない。
通りの街灯も、昼なので分かりにくいが消えてはいない。
グレンは表示を見る一方、別の隊員から住民側の報告も受けていた。
「共同工房、異常なし」
「住宅側も問題なし」
「南の倉庫、少し出力が落ちました」
「どれくらい」
「一割未満。すぐ戻ってます」
グレンは記録させる。
原因を決めつけない。
今は小さな変化も残す。
『七割へ移します』
テオの声。
新しい経路の流れがさらに増えた。
そこで表示が一度揺れた。
シャワルの目が細くなる。
旧経路ではない。
新しく受けている側だ。
数字が一気に下がり、すぐ上がる。
以前から何度も見てきた、例の二秒とは違う。
今回は魔力が消えたのではない。
受け取った量が大きすぎて、流れが一度押し返されている。
「南倉庫、停止!」
隊員が叫んだ。
「共同浴場側も落ちました!」
グレンが伝声具を取る。
「テオ、移行停止。七割で固定!」
『固定します!』
「南倉庫と浴場は戻すな。そのまま切って負荷を落とせ」
『了解!』
別の隊員が尋ねる。
「住宅側は?」
「触るな。今安定してるものを増減させるな」
返事は速かった。
シャワルは椅子から立ちかけた。
右手が自然に上がる。
最後を探す癖だった。
どこが崩れる。
何が不可逆なところまで行く。
長年繰り返してきた身体が、頭より先に動いた。
だが、立ち上がりきる前に止まった。
まだ違う。
新しい経路は押し返されている。
揺れている。
だが、自分で戻ろうとしている。
最後ではない。
シャワルは右手を下ろした。
グレンはこちらを見てもいなかった。
「北側の工房、現在?」
「正常です!」
「南だけ落とした状態で代替側は?」
「六割七分。安定へ戻っています!」
「旧経路は」
『こちら三割。まだ保持できます』
テオが答える。
グレンは数秒考えた。
「一回ここで止める。七割移行は中止。原因を見るまで進めない」
誰も反対しなかった。
今日中に終わらせることより、安全に終わらせることが優先された。
『了解』
テオの声にも迷いはない。
十分後。
原因はすぐ見つかった。
南側の二施設が、事前記録より多く魔力を使っていた。
共同浴場は休業していたが、湯を完全に冷まさないための保温設備が動いていた。
南倉庫では、担当者が停止対象になっていない小型設備を一つ残していた。
どちらも単独では小さい。
二つ重なったことで、代替経路が想定以上の負荷を受けた。
「現場の確認不足です」
連絡役が言う。
グレンは首を振った。
「こちらも使用量の確認が甘かった。停止してる建物でも魔力がゼロとは限らない」
誰か一人の失敗へまとめない。
すぐ次の確認へ進む。
共同浴場の保温設備を最低限まで落とす。
倉庫の小型設備を別の時間に使うよう変更。
その上で、もう一度代替経路へ流す量を計算する。
シャワルは口を挟まなかった。
何をすべきか、もう皆分かっている。
「再開します」
二十分後。
今度は六割から、少しずつ上げた。
六割二分。
六割四分。
六割六分。
一気に七割へは行かない。
表示は安定している。
七割。
問題なし。
八割。
旧経路の光がさらに弱くなる。
オルドから連絡が入った。
『旧側、問題なし。最後の切り離しへ入れる』
グレンが聞く。
「新側は?」
「安定!」
「住民側」
「異常報告なし!」
「テオ」
『いつでも』
グレンは一度シャワルを見た。
「切ります」
「俺に聞くな」
「聞いてません。報告です」
「ならやれ」
グレンが笑う。
「旧経路、停止してください」
『了解』
表示板の古い側が、ゆっくり下がる。
二割。
一割。
さらに下がる。
シャワルは無意識に息を止めていた。
この経路は何十年も町へ魔力を送ってきた。
自分が若い頃にもすでにあった。
オルドの知っている技師たちが触り、その後の人間が補修し、さらに次の世代が使った。
今日、それが止まる。
事故ではない。
壊されるわけでもない。
役目を新しい経路へ渡して、自分から止められる。
『旧経路、流量ゼロ』
テオの声がした。
何も起きなかった。
表示も揺れない。
新しい経路が、そのまま町へ魔力を送り続けている。
詰所の何人かが息を吐いた。
外では、保守班が最後の確認へ入っている。
グレンはすぐに気を抜かなかった。
「十分監視。問題がなければ第一段階完了とする」
「了解」
誰も歓声を上げない。
まだ確認が残っているからだ。
シャワルは椅子へ座り直した。
結局、右手は一度も使わなかった。
十分後。
問題なし。
さらに五分。
異常なし。
グレンがようやく言った。
「第一地区、切り替え完了」
詰所に小さな拍手が起こった。
派手ではない。
だが、皆の表情が緩む。
「シャワルさん」
若い救助員がこちらを見た。
「今日は出番なかったですね」
「いいことだ」
即答した。
それでも胸の奥に、ごく小さな引っ掛かりがあった。
何十年も、自分は壊れる寸前の場所へ呼ばれてきた。
『シャワルが来るまで持たせろ』
そう言われることが、自分の価値の全部だったとは思わない。
それでも、自分の仕事の一部ではあった。
必要とされなくなることに何も感じないほど、きれいな人間でもない。
「寂しいですか」
いつの間に戻ってきたのか、入口にオルドが立っていた。
「前にも聞いたな」
「顔がそうだった」
「どんな顔だ」
「暇そうな顔」
「それは最初からだ」
オルドが隣へ座る。
作業着の袖に埃が付いている。
「何もしなかったな」
「した」
「何を」
「座ってた」
オルドが吹き出した。
「上手くなったじゃねえか」
「最近練習してる」
「七十四で身につける技術か?」
「難しいぞ」
二人で表示板を見る。
新しい経路の数字は安定している。
「俺がいなくてもできたな」
シャワルが言う。
オルドはすぐには答えなかった。
「今日のはな」
「ああ」
「本当に最後まで行く奴が出たら、お前の仕事はまだある」
「ああ」
「だから、いらないふりするな」
シャワルは横を見る。
「してない」
「ならいい」
オルドは立ち上がった。
「次は三日後だと」
「第二地区?」
「ああ」
「俺も来る」
「体調次第だ」
「お前が決めるな」
「ニナに聞く」
「それなら仕方ない」
シャワルも立ち上がった。
帰り際、グレンに呼び止められた。
新しい緊急手順の紙を持っている。
「正式版にします」
「そうか」
「シャワルさんへの連絡は最後です」
「それでいい」
「本当に?」
「お前まで聞くな」
グレンが笑った。
「じゃあ、こうします」
紙の一番下。
『人命退避、区画分離、負荷低減を優先。それでも不可逆な破断を回避できない場合、封止術師へ緊急要請』
名前はない。
シャワルでなくてもいい書き方になっている。
今は実際、自分以外に同じことができる者をほとんど知らない。
それでも名前ではなく役割で残してある。
「いいな」
シャワルが言う。
グレンが少し驚く。
「名前なくていいんですか」
「その方が長持ちする」
「手順が?」
「俺よりはな」
グレンは何とも言えない顔をしたあと、笑った。
「そうですね」
「そこは否定しろ」
「七十四でしょう」
「最近みんなそれを使うな」
シャワルも笑った。
詰所を出る頃には、夕方になっていた。
通りの街灯が一つ点く。
次に、その先。
さらに向こう。
今日切り替えた新しい経路から送られた魔力で、順番に灯りが増えていく。
古い経路はもう動いていない。
だからといって町が暗くなったわけではなかった。
オルドが隣を歩いている。
「明るいな」
「見れば分かる」
「感想だよ」
「ならそう言え」
少し歩く。
シャワルは街灯を見上げた。
自分がいなくても点く灯り。
自分を待たなくても動ける救難隊。
自分が止めなくても終わらせられる古い設備。
それを寂しいと思う気持ちは、少しだけ残っている。
消す必要もないと思った。
「何笑ってる」
オルドが聞く。
「笑ってない」
「笑ってた」
「気のせいだ」
「またそれか」
シャワルは答えず歩いた。
呼ばれない日が増える。
たぶん、それでいい。
本当に自分が必要な最後だけ、まだ少し先に残っていればよかった。




