あと何冊読める
治療院を出てから、シャワルは三度立ち止まった。
一度目は信号代わりの通行灯の前だった。
二度目は坂を上りきったところ。
三度目は、自宅まであと通り二本という場所にある長椅子の前だった。
三度目だけは、立ち止まったのではない。
座った。
「……遠くなったな」
家までの距離は変わっていない。
治療院から歩いて帰ったことなど、何度もある。
問題は自分の方だった。
右手の震えはまだ残っている。
それより気になるのは、身体の奥にある重さだった。
足が痛むわけではない。
息ができないわけでもない。
ただ、身体全体が一日分余計に働いた後のように重い。
前なら大きな封止をした後でも、ここまで残ることは少なかった。
歳だ、と言ってしまえば簡単だった。
実際、その通りでもある。
シャワルは長椅子へ背を預け、通りを眺めた。
夕方の町を人が歩いている。
買い物帰りの女。
仕事を終えた職人。
走る子供。
誰もこちらを気にしない。
それが楽だった。
しばらく座っていれば帰れる。
そう思い、目を閉じる。
ほんの少し休むだけのつもりだった。
次に目を開いた時、空が近かった。
違う。
自分が地面へ横になっていた。
「シャワルさん!」
声が近い。
顔を横へ向ける。
知らない青年が膝をついている。
その後ろには何人か人が集まっていた。
「聞こえますか?」
「……聞こえる」
「動かないでください」
「何で」
「倒れたんです!」
そう言われて初めて、自分が長椅子の横にいることに気づいた。
どうやら座ったところまでは覚えている。
その後がない。
「何分」
「え?」
「俺、何分寝てた」
「寝てたんじゃありません!」
青年が困った顔をした。
「急に横へ崩れたんです。呼んでもしばらく返事がなくて」
シャワルは身体を起こそうとした。
すぐ肩を押さえられる。
「動かないでくださいって!」
「家が近い」
「治療院も近いです!」
「今出てきた」
「戻ってください!」
正論だった。
十五分後。
シャワルは、さっき出たばかりの治療院の寝台に横になっていた。
「帰ったと思ったのに」
ニナが腕を組んでいる。
「帰る途中だった」
「戻ってきてます」
「俺の意思じゃない」
「倒れた人に意思を聞いて運び先決めません」
「そうか」
「そうです」
いつもより声が硬い。
かなり怒っているらしい。
シャワルは天井を見た。
「フィアには言うなよ」
「何で真っ先にそこなんですか」
「面倒だから」
「言います」
「やめろ」
「言います」
「大人げないぞ」
「七十四歳を一人で倒れさせて帰したって知られる私の身にもなってください」
「お前のせいじゃないだろ」
「分かってます!」
珍しく大きな声が返ってきた。
ニナは一度息を吐き、椅子へ座る。
「だから調べます」
「何を」
「あなたをです」
「面倒だな」
「知ってます」
言い返し方まで似てきた。
シャワルは諦めて右腕を出した。
調べるのに、そう長い時間は掛からなかった。
胸の音。
呼吸。
脈。
身体を巡る魔力。
さらに、手足へ力が入るか。
視界に異常が残っていないか。
会話がおかしくないか。
ニナ一人で決めず、院長も呼ばれた。
六十代ほどの治療師で、シャワルとは以前にも何度か顔を合わせている。
一通り確認を終えると、院長は寝台の横へ椅子を寄せた。
「まず、今すぐ命に関わるような急な異常は見つかっていません」
ニナの肩がわずかに下がった。
シャワルも息を吐く。
怖くなかったわけではない。
さっきまで意識がなかったと聞いて、何も思わないほど悟ってはいなかった。
「じゃあ帰っていいか」
「まだです」
院長より早くニナが答えた。
「聞いてからにしてください」
「聞いてる」
「最後まで」
シャワルは黙る。
院長が少し笑った。
「ニナの言う通りです」
「味方がいないな」
「治療院なので患者の味方です」
「俺も患者なのか」
「今は」
逃げ道がなかった。
院長は机に置いた記録へ目を落とす。
「急な病というより、長く積み重なってきたものだと思ってください」
「何が」
「歳を重ねれば、疲労から戻るまでに時間が掛かります。それ自体は珍しくありません」
シャワルは頷く。
そこまでは分かる。
「ただ、あなたの場合、それだけではない」
院長の声が少し低くなる。
「長年、非常に強い魔術を何度も使ってきた」
シャワルは何も言わない。
封印の崩壊。
魔力炉。
水路。
呪術性の魔術障害。
建物一つから町の一角まで、何度も最後を抑えてきた。
魔術を使えば疲れる。
休めば戻る。
若い頃は、それで済んでいた。
「身体は戻っているつもりでも、毎回まったく同じところまで戻るわけではありません」
院長が続ける。
「特にここ数年、魔術を使った後の回復が遅くなっていますね」
ニナがこちらを見る。
「記録、残ってました」
「治療院で?」
「何度か診てもらってるでしょう」
「あったか」
「忘れないでくださいよ」
「本じゃないからな」
「そういうところです」
院長が軽く咳払いした。
「続けていいですか」
「どうぞ」
「今日倒れたのは、昨日の魔術だけが原因とは考えていません」
シャワルの目が少し動いた。
「違うのか」
「昨日何もしなければ倒れなかった可能性はあります。でも、それなら昨日の魔術だけを悪者にするのも違います」
院長は言葉を選ぶ。
「長い間使ってきた身体です。昔と同じ回復力ではない。その身体へ昨日の負担が重なった。それで表へ出た、と考える方が自然です」
シャワルは天井を見る。
若い頃なら五分。
今なら数十秒。
最近、自分でもそういう違いを感じていた。
分かっていたつもりだった。
だが、分かるのと地面へ倒れるのは少し違う。
「治るのか」
今度はシャワルから尋ねた。
院長はすぐには答えなかった。
「休めば、今の疲労は戻ります」
「今の、は」
「はい」
言い方だけで先が分かる。
「七十四歳の身体を、三十歳には戻せません」
「それは困るな」
「困るんですか?」
ニナが聞く。
「三十の頃の俺、元気だったからな」
「そこじゃありません」
「分かってる」
少し笑った。
笑ってから、シャワルは右手を見た。
今は寝台の上に置いているので、震えは少ない。
「魔術は」
ニナが顔を上げる。
院長は答えた。
「使えなくなったわけではありません」
それは、予想していた言葉だった。
「ただし?」
「以前と同じ使い方をすれば、次も同じで済む保証はありません」
部屋が静かになる。
「どこまでならいい」
「それを数字では言えません」
「三十秒なら安全とか」
「言いません」
「十秒」
「言いません」
「厳しいな」
「現象の大きさで負荷が違うことくらい、あなたの方がよく知っているでしょう」
言い返せなかった。
小さな魔術を一分抑えるのと、町の設備を一分抑えるのではまるで違う。
秒数だけで測れる話ではない。
院長は続けた。
「使うな、と言ってもあなたは必要なら使うでしょう」
「分かってるなら話が早い」
「だから、必要かどうかを以前より厳しく選んでください」
その言葉なら聞けた。
今までも少しずつそうしてきた。
現場へ先に入らない。
専門家の仕事を待つ。
本当に最後が来るまで使わない。
自分がいなくても済むなら帰る。
「分かった」
今度はすぐに答えた。
ニナが疑うような顔をする。
「本当に?」
「お前ら最近そればっかりだな」
「信用の問題です」
「失礼だ」
「実績です」
シャワルは院長を見る。
「こいつ、昔より遠慮なくなったな」
「良いことです」
また味方がいない。
院長は記録を閉じた。
「今日はここへ泊まってください」
「嫌だ」
「決定です」
「家の本が」
ニナの眉が動く。
「本?」
「読みかけだ」
「明日読んでください」
「暇だろ」
「休むんです」
「読むのも座ってるだけだ」
「目と頭を使います」
「何も考えず読むこともある」
「どんな読み方ですか」
「百回読めばできる」
「普通できません」
言い合っていると、院長が笑った。
「明日の朝、状態が良ければ読書くらいは構いませんよ」
シャワルがそちらを見る。
「眼鏡を掛ければ?」
ニナが一瞬黙る。
「何です?」
シャワルは少し考えた。
自分でも妙な質問だとは思った。
倒れた。
身体はもう昔のようには戻らない。
魔術も今まで通りには使えない。
聞くことなら、いくらでもある。
あと何年生きるのか。
次に倒れたらどうなるのか。
どこまで仕事を続けられるのか。
それでも最初に出たのは、それだった。
「眼鏡を掛ければ、まだ本は読めるか」
院長も少し驚いた顔をした。
ニナはもっと露骨だった。
「そこなんですか」
「大事だ」
「もっとほかにあるでしょう」
「あとで聞く」
ニナは口を開きかけた。
結局、閉じる。
それから小さく息を吐いた。
「読めます」
「そうか」
「視界が霞んだのは倒れる直前だけです。今もちゃんと見えてるでしょう」
「ああ」
「眼鏡も今までので問題ないと思います」
シャワルは天井を見る。
「ならいい」
「よくはないです」
「でも読める」
「読めます」
「なら一個はいい」
ニナはまた何か言おうとして、やめた。
少しだけ笑った。
「一個は、ですね」
「ああ」
夕方になると、オルドが来た。
誰が知らせたのかは聞くまでもない。
治療室へ入ってきた男は、寝台の上のシャワルを見る。
何も言わない。
シャワルも黙っている。
しばらくして、
「倒れたんだってな」
とだけ言った。
「ああ」
「道で」
「ああ」
「一人で」
「人はいた」
「そういう意味じゃねえ」
オルドは椅子へ座った。
怒鳴るかと思った。
説教されると思った。
だが、何も言わない。
それが逆に居心地が悪い。
「何か言え」
「何を」
「いつも言うだろ。辞めろとか、老人とか」
「老人なのは見りゃ分かる」
「お前もだ」
「知ってる」
また沈黙。
オルドは自分の膝へ両手を置いている。
太い指が一度だけ動いた。
「死ぬのか」
シャワルは少しだけ眉を上げた。
随分直接的だった。
「今すぐは死なんらしい」
「今すぐじゃなくて」
「分からん」
「医者は」
「余命を言われるような話じゃない」
「聞かなかったのか」
シャワルは首を振った。
「何年残ってるかなんて、あいつらにも分からん」
「そうか」
「ただ、今までと同じことしてたら自分で短くするかもしれんとは言われた」
オルドの顔が険しくなる。
「じゃあ」
「使わないとは言わん」
「シャワル」
「必要な時だけだ」
声を重ねた。
オルドが黙る。
「前からそうしてる」
「足りなかったから倒れたんだろ」
「そうかもしれん」
「ならもっと減らせ」
「そうする」
予想していなかったのか、オルドの顔が止まった。
「……本当か」
「お前までそれ言うのか」
「信用がない」
「ニナと同じこと言うな」
「なら皆そう思ってるんだろ」
シャワルは少し笑った。
「でも、最後が来た時は行く」
オルドの笑いは戻らない。
「俺にしかできないならな」
「……そうか」
「それ以外は任せる」
オルドはしばらく考えていた。
最後には、小さく頷いた。
「ああ」
それだけだった。
「で」
少ししてオルドが言う。
「本は?」
シャワルが顔を向ける。
「何で知ってる」
「ニナが、最初に本読めるか聞いたって呆れてた」
「余計なことを」
「お前らしいけどな」
「読めるらしい」
「よかったな」
「ああ」
オルドもそれ以上笑わなかった。
その「ああ」がどれだけ大きいか、たぶん分かっている。
「何巻の途中だ」
「七」
「セルマ出てる?」
「出てる」
「じゃあ明日帰ったら続きだな」
「そのつもりだ」
「俺が送る」
「一人で帰れる」
「俺が送る」
「必要ない」
「倒れた奴に決定権あると思うな」
「俺の家までだぞ」
「知ってる」
「勝手だな」
「四十年言ってろ」
もうそれくらいは言っている気がした。
翌朝。
シャワルは退院を許された。
ニナから条件をいくつか言われる。
今日は魔術を使わない。
疲れたら座る。
少なくとも数日は現場へ出ない。
また目眩や息苦しさが出たら、すぐ来る。
「分かった?」
「分かった」
「全部?」
「本当に信用ないな」
「確認です」
「全部聞いた」
「ならいいです」
オルドが迎えに来ている。
家まで一緒に歩いた。
昨日座った長椅子の前を通る。
シャワルは足を止めなかった。
オルドも何も言わない。
いつもより少し遅い速度で歩いた。
家へ着く。
オルドが茶まで淹れてから帰った。
「寝ろよ」
「本読む」
「一時間だけにしろ」
「何でお前が決める」
「倒れたから」
「便利だな、それ」
「しばらく使う」
扉が閉まる。
家の中が静かになる。
シャワルは居間へ戻った。
机の上には第七巻。
倒れる前に置いたままだった。
眼鏡を掛ける。
椅子へ座る。
栞を抜いた。
文字は見える。
いつも通りだった。
少なくとも、今は。
頁をめくる。
セルマが仲間と口喧嘩をしている。
何度も読んだ場面だ。
昔はセルマの方が正しいと思っていた。
今読むと、どちらも少し悪い。
「お前も歳取らんな」
本の人物に言っても返事はない。
シャワルは笑った。
一頁。
もう一頁。
どこまで読めるだろう。
今日の第七巻の終わりまでか。
来週には一巻へ戻るかもしれない。
来月、新しい本を買うかもしれない。
あと何冊読めるのか。
それは誰にも分からない。
シャワルは頁をめくった。
分からないなら、今読んでいる一冊を読めばいい。
そうしてしばらく進んだところで、文字が少しだけぼやけた。
シャワルは眼鏡を外して目を擦る。
視界のせいではなかった。
眠かった。
「……なんだ」
少し安心して、眼鏡を机へ置く。
今日はここまでにするつもりで栞を取った。
けれど、その前に目を閉じてしまった。
開いた第七巻の横で、シャワルは静かに眠った。
読みかけの頁は、そのまま残っていた。




